Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品 All the Winners
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第4回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品

内田春菊 著
『私たちは繁殖している』
『ファザーファッカー』
(『私たちは繁殖している』 ぶんか社 刊(1994年6月発行) 『ファザーファッカー』 文藝春秋 刊(1993年9月発行)刊)
選 考 | 中沢新一 |
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受賞者プロフィール
内田春菊(うちだしゅんぎく)
1958年長崎市生まれ。84年、4コマ漫画でデビュー。主な漫画作品に『南くんの恋人』『水物語』『目を閉じて抱いて』など。主な小説に『キオミ』『あたしのこと憶えてる?』『息子の唇』『犬の方が嫉妬深い』などがある。
選評
「この生き物じたいが賞物である」/ 選考委員 中沢新一
ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』は、フランスにおける「ドゥマゴ文学賞」によって、世の中に現れたのである。この当時としてはとてつもない作品を賞に選んだのは、レーモン・クノーの精神である。そしてこのクノーこそは、コジェーヴの学生として、その画期的なヘーゲル講義を一冊にまとめ、フランスにおけるヘーゲル研究の口火を切った男なのだ。「ドゥマゴ文学賞」は、そのなりたちからして、異様だ。それは、ヘーゲルとO嬢の接合が試みられる場所、肉体と精神の両方で、主と奴の弁証法がその極限で試されるという、とてつもない実験場として、成長してきたのである。
第4回目の選考者となったぼくは、ただそのことだけを、強く意識した。ぼくはO嬢に鞭打たれるヘーゲルか、さもなければヘーゲルをサックするO嬢を探した。その結果たどり着いたのが、内田春菊だった。彼女は『O嬢の物語』のファンかも知れないが、ヘーゲルのことなんか、少しも意識したことがないはずだ。でも、そんなことは表面的なことだ。彼女の中では、主と奴の弁証法(それが、男による性の幻想のべースをかたちづくっている)は、気持ちよく転倒され、解体され、磨滅されつくしている。日本人の女性は、いまこんなことを、いともやすやすと実現してしまうのだ。これは、すばらしいことだ。O嬢よりも先進的、ヘーゲルにとっての謎。内田春菊という生き物の存在じたいに、ぼくは賞をあげたい気分なのである。
彼女は、漫画を表現の手段にしてきた。日本人ほど漫画をよく読み、じょうずに描く民族もいないが、不思議なことに、漫画は世間では、ちょっと格下の表現だと、見られることが多い。またその反動で、知的であることにコンプレックスをいだいている知識人の中には、やたらと漫画を持ち上げて、褒めあげる人たちもいる。どっちにしても、漫画はこの国の文化の中で、まっとうな評価や位置づけを得たことが少ない。
しかしぼくの考えでは、漫画は日本語による思考の構造と、深いところで結びあった、日本人にとって、とても重要な表現手段なのである。日本人は、漢字による表現の下に、カナによってしか表現されない、マージナルな現実を発見した。カナの情動性によって隠されてしまう、さらに物質的な層の実在を知っていた日本人は、さらにそこにカタカナをつけ加えた。だが、日本人はさらにそれでも満足せずに、文字による表現と、漫画的な絵の表現とを、結合しようとしてきたのである。絵は、文字による表現を、つねに言い尽くされることの手前に、とどめておこうとする力をもっている。それによってあらゆることが非決定な状態のまま、しかも明確きわまりなく表現されるという、まったく奇跡のような事態を、つくりだしてきたのである。
漫画が上手で、漫画が好きな日本人というのは、実に量子力学的な精神構造をもった人々なのだ。だから、これを古典力学的な、文学論なんかで、裁断したり、評価したりすることは、まったくはずれなのだ。漫画は日本語の構造と結びついて、実に複雑な現実をつくりだしている。内田春菊はその漫画をつかって、女性がみんな知っているはずの、しかし教育やら家庭やらメディアやら日本の男特有の心理やらのせいで、すっかりこんがらかってしまった、性と生命のリアルを、すなおに、まっすぐに表現してみせた。それはときに、男を震え上がらせるほどに真実で、しかも優しい。そこには、妄想というものがない。そのままで、すっぱだか。こんな生命の描き方をしている人は、ほかにいない。じぶんの生命を、こんなふうに生きている人も、ほかにいない。
だから、本当は、内田春菊という生き物そのものに、ぼくは賞をあげて、褒めてあげたかったのだ。『私たちは繁殖している』と『ファザーファッカー』の2 冊を、そこで相乗りの受賞とすることにした。漫画だけじゃだめ、と言われるだろうけど、小説もいっしょにしておけば、文句ないだろう。いま彼女は、いっぱい仕事をして、いっぱい作品をつくっている。それを見ていると、表現はそのまま生命なんだなあ、という実感を強くする。これはなかなかうらやましいことだ。