いまこそ前に。普段と違う年明けに思う
松尾スズキ
2020年12月1日
世界はいまだに非常事態が続いています。政府は非常事態宣言こそ出していませんが、エンタテイメントに関わる人間の心の中では常にサイレンが鳴り響いています。経済と安全のバランスという言葉が政府関係者らからよく出ますが、芸術監督としてのわたしの頭の中でも常にその言葉は渦を巻いています。パフォーマーたちも生きていかねばならない。
しかし、パフォーマンスすると、それこそ私が2020年の夏WOWOWで企画した『アクリル演劇祭』みたいに演者の三方をアクリルで囲むぐらいの配慮がなければ完全な安全は保てない。そしてなによりお客様の安全が重要です。最上級の安全を望むなら外に出ないということになりますが、それでは、寂しすぎる。そして、寂しさも精神衛生上なかなか危険、というパラドックスの中に我々はいるのではないでしょうか。
今現在(2020年12月1日)も、大阪公演で関係者に体調不良者が出て、検査のため二公演を休演している中で、この原稿を書いています。自分の作品が公演中止になるのは演劇人生初めてのことです。演者たち、そして劇場に着いて中止を知らされたお客様の無念を思うと手汗が止まりません。ただ調子を崩しただけで、膨らむ不安と疑心暗鬼、それが、一番の非常事態なのだなと身にしみています。
この苦境を乗り越えた暁に、私や演者やスタッフが未知の成長をしていることを信じて、今は、正しく舞台の幕が開き、大声で皆が笑える日が来ることを強く願っております。
コロナの荒野を前にして
2020年7月3日
芸術監督になった途端、コロナ禍が起き、自分が出演する予定だった舞台はおろか、コクーンで上演される予定の公演がバタバタと音を立てて軒並み中止になった。
一公演で億単位の予算を使うコクーンの現状は、焼け野原、荒野である。
荒野の前にスタートラインがひかれ、そこに私は立っている。
実に自分らしいスタートだと思う。
そういえば、去年就任式をかつてないほど大々的に行ったが、登壇の直前、オーチャードホールの、カーペット生地でやわらかくコーティングされた階段に、底がツルツルの革靴で一歩踏み込んだ途端、ズルズルと豆腐が鍋に落ちるような滑らかさでもって、私は大勢のマスコミの前で倒れ落ちていったものだった。
あれも自分らしかった。
あのときは笑い事ですんだが、今回はもちろん笑い事ではない。おおいにない。なにしろコクーンの演劇に関わるのは俳優や演出家、そしてお客さんだけではない。照明家、美術家、音響、衣装デザイナー、メイクアップアーチスト、振付家、大道具制作、宣伝プランナー、そして、彼らの助手達、下請け、孫請け、美術セット搬入時のバイトたち、地方公演の興行主、チケット配券業者、etc…。多くのスタッフたちの仕事が半年ばかり、ガサッと消失したのである。
公演中止は、やむをえないことではあるが、その数7本。芸術監督として、仕事と収入源を失った人間の多さを目の当たりにし、私は呆然とするしかなかった。
演劇なんてなくても生きていけるし。
コロナ禍の中、ある演出家氏の発言を巡って、ある種の人々がそんなふうに言った。それは、ひきつりながらであるが、うなずけない話ではない。私だって、なくても生きていけるものはある。正直、オリンピックがなくても生きていけるし、パチンコ、競馬、ボウリング、なんならテレビだってなくてもネットがあるので生きていける。なくても生きていけるもので世の中は満ち溢れているし、おのれの戒めとして、しょせん、なくてもさほど他人が困らない仕事をしている、という忸怩たる思いは常に胸の中にある。というより、その自戒は私の表現の在り方の根幹にどんと大きく横たわっている。おかげで、腰の低い生き方をしてこられた。とっつきにくい見てくれだが、愛嬌だけはある。
とはいえ、人間は、なくてもいいものを作らずに、そして、作ったものを享受せずにいられない生き物だとも私は思っている。生きるに必要なものだけで生きていくには、人間の寿命は長すぎるのである。人はラスコーの洞窟になぜ壁画を描いた? 時間が余ったからである。暇つぶしに、描いて「どう?」と問うものがあり、「うん! 牛っぽい!」と喜ぶものがいたからである。豊かさは同時に暇を生む。そして、暇を持て余すことに苦しみを覚えるのが人間だ。だから、禁固刑という刑罰がなりたつのである。かつて、「野猿」というグループが解散したとき、「もう生きてなくていいや」とばかりに、自殺した女子高生二人組みがいた。人はともすれば、「野猿」が解散しただけで自殺してしまう生き物だと知り、戦慄したことを覚えている。生半可な気持ちで「自分に必要ないものなどなくてもいい」とは、言い切れない。私は、少しでも長生きしたくてずいぶん前にタバコをやめたが、それでも、タバコがこの世からなくなればいいと思わないのは、タバコを欲する人のタバコ愛というのは並々ならぬものがあり、それに税収も馬鹿にならないし、と考えるからである。
しょせん暇つぶし。しかし、人は命がけで暇をつぶしているのだ。
自分が、東京で芝居を始めるとき、目の前には荒野しかなかった。友達も仲間もほぼゼロ。ジーンズメイトで買った服に松尾スズキというふざけた名前だけをまとった、どこの馬の骨ともわからない、九州から出てきたばかりのプータローにとって、これから踏み込もうという演劇界は、乾いた風の吹きすさぶ荒野以外の何物でもなかった。思えば無謀だった。でも、自分の中に無謀がなければ、今の自分はいない。
そして、今、目の前にはなにもない。あの頃と同じようになにもない。
ガランとした大きな劇場だけがある。
ロビーだけでも、私が初めて芝居を上演した劇場の舞台の10倍以上はある。その虚無の広大さに崩れ落ちそうになるが、ままよ、アイデアが湧いてくる。30年以上前のあの頃と同じように、無謀なアイデアが。そして、まず、WOWOWで、松尾スズキプレゼンツ『アクリル演劇祭』というコクーンを舞台とした奇天烈な番組が出来上がった。これはまだ序章だ。
かつて私が『TAROの塔』というNHKドラマで演じた岡本太郎は、終戦後焼け野原になった東京でスキップしながらシャンソンを歌った。フランス語なので覚えるのが大変だったが、 非常にバカバカしくて、そして、涙が出るほど美しいシーンだった。初めて主演したそのドラマは、放送第二回目を前にして3.11の大地震が起き、ニュースで放送時間がズタズタになった。必死で覚えた長台詞を喋る私の顔の上に容赦なく津波の被害のテロップが流れる。もちろん、地震のニュースに比べれば、ドラマなんてなくてもいい。
実に自分らしい初主演だった。
しかし、私はあのときの太郎さんのように、焼け野原を前にしてシャンソンを歌おうと思っている。喉元にはもう、その歌は溢れかえっている。
早くお会いしたい。お客様にも、仕事を失った大勢の仲間たちにも。再開の形は今まで通りとは行かないかもしれない。でも、お待ちいただきたい。私の初舞台は、美術セットはなく、椅子が五つだけ、出演者は五人、客は身内が五〇人。そこから始めました。まさに荒野でした。
荒野に立ちがちな演出家です。
なにか言いたくて、筆を執りました。今は筆を執ることしかできませんが、それしかできないことすらやらないなんて怠慢すぎる気がして。とりあえず。
閉じる
芸術監督就任にあたって
2019年9月9日
芸術監督をやらないか?そう、Bunkamuraの方に言われ、驚きとともに、ずいぶんと悩みました。シアターコクーン芸術監督という仕事の前には、串田和美、蜷川幸雄、という二人の巨匠の名前、その、とてつもない業績が切り立った山のように立ちはだかっております。その後に松尾スズキなどという軽薄な名前の、演劇人なのかコメディアンなのか、実体のフワフワした人間が続いてよいものか。良識ある演劇関係者らが鼻白む姿がありありと目に浮かびます。そこで、私は、とある茶室にて、率直に聞くことにしました。「私がコクーンの芸術監督になって私が得をすることってなんなのですか?」と。
Bunkamuraの方は、しばらく考えて、私の耳に唇を寄せて言いました。「この渋谷の劇場が…松尾さんのための劇場になるんですよ」そのとき、私の脳裏に故浅利慶太さんのお姿が浮かびました。
それは、自分の劇場を持ちに持った、薄いサングラスをかけた男の御影です。
尊敬する演劇人は誰か?と聞かれるたび、私は浅利さんの名前をあげていました。劇場を持つ。すべての演劇人の夢を徒手空拳の状態から実現した男が彼であるとすれば、その名が浮かぶのは当然の成り行きでしょう。
「…なるほど」
そしてまた、私は、もう一つの疑問をぶつけました。
「で、実際、串田さん、蜷川さんは、芸術監督としてどういうことをやっていたんですか?」
Bunkamuraの方は「うーん」と、しばし、口に手を当て、軽く目を閉じて言いました。
「人、それぞれ…ですね」
でしょうね。
そう、私は思いました。串田さん、蜷川さん、お二人の仕事ぶりを見るに、
「好きなようにやってらっしゃる」
としか、私には思えなかったからです。
これが公共の劇場ならそうはいかないでしょう。なにしろ、税金を使ってやる仕事です。役人を交えた煩雑な手続き、書類の作成、会議につぐ会議、そういう、私の最も苦手な作業が目に浮かびます。会議をしていると私は、家に帰りたくなるのです。しかし、シアターコクーンはBunkamuraという一企業の劇場。国民のために演劇がどうあるべきか、などということは、一切考えずに芝居がやれる。私は、常々、自分の「オリジナリティの追求」のためだけに芝居をやって来ました。今さらぶれたくない。いや、30年以上、ぶれずにいたからこそ、チケットが売れ、信用を生み、人材が集まり、スタアが生まれて来たのだと、そう信じています。串田さんも、蜷川さんも、キレイごとを抜きに、おのれの演劇に対する欲望を忠実につらぬき、その結果が評価に結びついたのだと思います。それはきっと、ひとまわりしてむしろ日本のために効いている。私は先輩たちのメンツにかけてそう思いたい。
キレイごとを嫌い続けていれば、自然にキレイな表現者になれるのです。
見たいものだけが集い、見たくないものは見ない自由を行使すればいい、演劇は、見せるものと見るものの関係が、非常に健康的な文化です。私は、Bunkamuraの予算を使い、稽古場を使い、劇場を使い、好きなスタッフと好きなプレイヤーを集め、先人のように、好き勝手にやってやろうと思います。在任中に、松尾のオリジナリティを大劇場に向けて絞り出し切ってやろうと思っています。出し切るためには、多少のわがままも言う。それが、選ばれたことに対する誠実さだと考えております。ダメでもともと、Bunkamuraの社員が何人かがっかりするだけじゃあないか。
打診を受けてから2年、具体的なアイデアは頭の中でひしめきあっています。アーティスティックなものから、あからさまなエンターテインメントまで。ひしめきあいすぎてここには簡単に書けません。
どうか、ご期待、そして、なにかと生温かい目で、よろしくお願いします。
閉じる