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第3回 | Bunkamuraドゥマゴ文学賞

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第3回 Bunkamuraドゥマゴ 文学賞 受賞作品

久世光彦 著

『蝶とヒットラー』

(1993年4月 日本文芸社)

選 考 辻 邦生
受賞者プロフィール
久世光彦(くぜてるひこ)

1935年東京都生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。演出家。1992年芸術選奨放送部門文部大臣賞受賞。1998年紫綬褒章受賞。主な著書に『昭和幻燈館』『怖い絵』『触れもせで』『陛下』『謎の母』『蕭々館日録』などがある。

受賞作品の内容

鳥や獣の剥製を売る店から、義眼、黒色パイプ、ナチスの制服、昆虫、ステンドグラス、ドール・ハウス、貝殻を売る店など、幻想と妖かしの12店をたずね、黄昏の陳列棚に失われた時を求める、夢のまどろみにも似た玩物喪志譚。

選評

「時を超えた視線」/ 選考委員 辻 邦生

 現代という時代の特色を一口で言えば、近代的制約によって見えなかったものが、ようやく見えるようになってきた時代、ということになろうか。たとえば、西欧近代が解体し、終焉を告げたことにより、近代的な主知的認識が排除し疎外してきた想像力や霊的感性も新しく認識機能として復権し、世界を万華鏡的な豊かさで見られるようになった。非合理的なもの、不可視なものの復権もその著しい例といえる。

 このことは、現実をある価値観を実現するためのプロセスとしてとらえる西欧近代の歴史的思考、歴史的構造が解体し、乗り越えられ、今や歴史の終焉の時代に達していることを示唆している。歴史の終焉とは、ひとつの価値観を実現するために行われた特権的な「括弧」をはずし、現前するすべてのものに等しく価値を見出す時代ということだ。すべてを価値あるものとして時間の継起にしたがって受け入れるとは、現在を空間化していくこと、つまり線的(リニアル)に進んでいたものをひとつの円環的空間として出現させることと言いかえてもいいだろう。そして、西欧近代を超えたあとのこのポストモダンの時代、歴史の終焉の時代の大きな特色のひとつとして、こうした時間進行感の稀薄化に見合う時間の反覆感、持続感を挙げてもいい。
 この、感性的には円環的、空間的な現代を時代の生理的リズムに密着した方法でとらえたのが、久世光彦氏の『蝶とヒットラ-』と言えようか。たしかに久世氏の作品は、大正・昭和初期への思慕、想い出、懐古性の中から生まれたように見える。だが、本来的にはポストモダンの状況を生得的に体現した著者が、きわめて敏感に自己の感性に即して現実を描いたものであって、それがおのずと明治国家が切り棄てていったものへの親近感の形になったものなのである。

 歴史的な構造が優先した世界では、正統的なものと周辺的なものが価値的にはっきりと差別され、常に正統的なもののみが優位と見なされ、周辺的なものは反社会的異端としておとしめられてきた。まさしくこうした正統と周辺の構造が崩壊したことによって、ようやく周辺的なもののもつ正当な真実性がごくリアルな存在としてクローズアップされてきた。正統的な現実と思われていたものの裏側、現実と夢とのあわい、現実と現実の薄皮のような間隙が、そうしたポストモダン的な視線により自然にとらえられるようになったのだ。

『蝶とヒットラー』というタイトルそのものにも既に、正統と周辺、歴史と非歴史性の問題が象徴的に表されている。自然の傑作である蝶と、現代的悪の組織者と考えられる人物とを等価に置くこと、あるいは対比することにより、著者はそこに歴史性の否定、美的なものの絶対的な優位を主張しているかに見える。ヒットラーは美的心酔者アドルフとしてそのプロフィールを見せるにすぎない。

 事実、この作品で論じられている世界は、従来の正統的な社会感覚では最も周辺的なもの、社会のへり、裏側におとしめられていたもの、剥製、義眼、ナチスの軍服、依怙地な印章彫りの職人、気持ちの悪い昆虫館、夢幻的な超小人の世界など、いわば歴史的な正統性=西欧近代が切り落とし、人間にとって価値のないもの、永遠におぞましいと思わせて排除してきたものだった。そして本書に特徴的なのは、それらを西欧近代の価値体系への反抗の形で復権させているのではなくて、いわば体系が崩れ去ったあとに生まれてきた赤裸な、ごく自然の感覚的、美的な歓びとしてそれらを受け止め復権させている点だ。
 19世紀に成立した近代が、18世紀的な感性なり価値観なりを否定したのは当然であり、また、19世紀の延長上に西欧近代を築き上げた20世紀が同じく 18世紀を誤解したのもごく自然なことだが、その18世紀的なもの、すなわち百科事典(アンスィクロペディ)の世紀がもっていたあらゆるものへの生命的な関心、感性的なアプローチが『蝶とヒットラー』の中に新しい形で復活しているようにも思われる。アンスィクロペディという言葉そのものの中に、円環 (cycle)の意味が含まれているように、ここには、近代の<知>の線的思考に対する円環的なものの復権、復活が息づいている。

 さらに、『蝶とヒットラー』の最大の功績は、日本語の散文を実体化させていること、単なる表現の道具としての言葉ではなく、その言葉のひとつひとつを実在性のある美的精神の結晶として捉えたことだろう。言葉は現在、単なる記号と化し、精神的なものとの直結性、あるいは生来的な生命感を失いつつあるが、ここでは、そうした道具、非生命的な記号としての言葉ではなく、いわば光る宝石のように言葉の一つひとつが磨かれている。その点も高く評価されるべきだろう。思考の単なる媒体としての言語ではなく、言語が思考の現象体となっているところに、久世光彦氏の文学世界の骨格を垣間見た思いがする。
 以上のような観点から、『蝶とヒットラー』を文学の未来を切り開く者に与えられる「Bunkamuraドゥ マゴ文学賞」にふさわしい作品と考える。