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第78回 2014/3/9(日)15:30開演

指揮者インタビュー/リュウ・シャオチャ | INTERVIEW

ヨーロッパの名門オペラハウスの音楽監督を務めたアジア人は、小澤征爾、チョン・ミョンフン、大野和士だけではない。台湾出身のリュウ・シャオチャ(呂紹嘉)さんも2001年から2006年までハノーファー州立歌劇場の音楽総監督を務めるなど、ヨーロッパでその実力を高く評価されている。昨夏、そんなリュウさんが東京都交響楽団客演のために来日した際に、お話をきくことができた。(2013年8月23日:グランドプリンスホテル新高輪にて)

まず、指揮者になられた経緯について話していただけますか?

「両親は音楽家ではありませんでした。でも音楽的な環境にはありました。父は医者で、クラシック音楽の愛好家でした。私が生まれた1960年は、台湾は経済的にそんなによい時代ではありませんでしたが、私たち5人兄弟(2女3男で私は4番目です)は音楽教育を受けました。私は6歳でピアノを始め、2年でかなり進歩し、国内でのコンクールで賞をもらうようになりました。父は私にスタインウェイのグランドピアノを買ってくれました、そんなにお金持ちではなかったのですが、父が音楽好きで私も興味を示していたので。それが台湾に入った初めてのスタインウェイのグランドピアノでした。
 でも私はプロの音楽家になるつもりはなく、台湾大学で心理学を学びました。台湾大学の友人は、それぞれに優秀な人たちで、アマチュア音楽家としても優れていました。そんな学友たちにインスピレーションを受け、私は音楽にのめり込みました。でも、ピアニストになるには遅すぎる。そこで、私の師である台北交響楽団のチェン・チュウセン(陳秋盛)さんの影響を受けて、私も指揮者になりました。チェン先生にはとても感謝しています。彼は私に指揮を教えてくれただけでなく、オーケストラを振る機会を与えてくれました。
 台湾大学を終え、アメリカに渡り、インディアナ大学ブルーミントン校にピアノで入学し、指揮科にも入りました。しかし、チェン先生のアシスタントに呼ばれ、インディアナ大学には1年間しかいませんでした。チェン先生の「アカデミズムよりも実践での経験の方が重要である」という指示に従ったのでした。 1986年に台北に戻り、まだ指揮の勉強はしていませんでしたが、いろいろな実践の機会を得ました。1987年にはコンサート・オペラで初めてオペラを指揮しました。《リゴレット》でした。27歳でのオペラ・デビューは台湾では早い方でした。
 それでも外国で勉強したいと思い、1987年、ウィーンで音楽大学に入り、それ以来ずっとヨーロッパにいます。ウィーンでは最高の音楽(特にオペラ)に出会いました。音楽大学は4年でディプロマをもらいました。1988年にブザンソン国際指揮者コンクールで第1位を獲得し、学業のかたわら、指揮活動を行っていました。1994年にはアムステルダムのキリル・コンドラシン・コンクールで第1位を獲得しました」

その後、ドイツのオペラハウスで活躍されるようになったのですね。

「オペラが大好きだったので、ベルリン・コーミッシェオーパーのカペルマイスターになりました。3年間、たくさんの公演を振って、オペラの経験を積みました。
 そして、ライン川沿いの美しい街、コブレンツの歌劇場の音楽総監督になりました。歌劇場だけでなく、ライン・フィルの首席指揮者にもなり、コンサートのレパートリーを増やしました。コブレンツには6年間いて、後半の3年間はハノーファー州立歌劇場の音楽総監督にもなりました。
 ハノーファー州立歌劇場はとても良いオペラハウス。私はレパートリーを広げることができました。ハノーファー州立歌劇場とはエジンバラ音楽祭やウィーン音楽祭で《イェヌーファ》や《ペレアスとメリザンド》などを上演し、とても成功しました。ハノーファーでの5年間はとても豊かな時間でした。
 そして今は、フィルハーモニア台湾の音楽監督を務めています」

今まで特に影響を受けられた音楽家は誰ですか?

「ウィーンでは最高の演奏に出会いました。カルロス・クライバーが私の理想です。世界一の指揮法であり、理想的な音楽作りでした。もちろん、カラヤンやバーンスタインの演奏も聴きました。ウィーン国立歌劇場では、アバド、メータ、ムーティの指揮で聴き、みんなの影響を受けました。シエナのキジアナのマスタークラスで習ったロジェストヴェンスキーにも大きな影響を受けました。そしてウィーンで師事した二人の恩師、スウィートナー先生とエステルライヒャー先 生です」

ドイツの歌劇場の音楽総監督とはどういう仕事ですか?

「オーケストラの首席指揮者とは違って、歌劇場の音楽監督はいろいろな仕事をしなければなりません。1年に300日仕事をしている感じで忙しい。すごく時間がかかります。なのであまりほかのところに客演しに行ったりできません。インテンダント(総裁)によっても違いますが。私の場合、インテンダントがとても音楽を大切に思い、私をとても理解し、尊重してくれました」

今回、NHK交響楽団とは初共演ですが、どういう印象をお持ちですか?

「子供の頃からNHK交響楽団の名前はきいていました。共演できるのは名誉なことです。台湾でテレビでは見ていましたが、実際に会ってみないとわからないですね」

今回はメインでドヴォルザークの交響曲第8番を取り上げられますが、これはどういう選曲ですか?

「ドヴォルザークの第8番は、初共演でやるのに適しています。エネルギーやメロディがぎっしりと詰まっていて、そんなに洗練されていなくて、心はボヘミア。第8番はそういう作品。日本では、2012年11月のフィルハーモニア台湾との演奏会で《新世界》交響曲をやったので、今年は第8番。第8番は第9番よりも明るく、肯定的で、ハッピー、歌心に溢れている。シンプルな美しさがあり、メロディ、音色、感情表現の豊かさがとても普遍的な作品です。どのオーケストラとも、短い時間でコミュニケーションがとれるので、最初にやるのに理想的な曲なのです」

日本のオーケストラとは、2012年に新日本フィル、13年に東京都交響楽団と共演していますね。日本のオーケストラの印象は?

「とてもプロフェッショナルで、集中していて、訓練されていますね。楽譜を読むのも早い。十分にコミュニケーションが取れて、仕事していて楽しい。日本のオーケストラとのつながりが広がっていけばいいと思います」

今、音楽監督を務めているフィルハーモニア台湾とはいかがですか?

「楽しんでます。みんな台湾の出身ですから。30年前からの友人もいます。親戚や親子と同じで他のオーケストラと比べようがありません。ダメなやつでも嫌いにはなれない。オーケストラのレベルは高いですよ。良い演奏会にすることが私の仕事ですが、良いプログラミングをして、新しいレパートリーとともにオーケストラを進化させたいですね。台湾のお客さんとは関係が深いですから、最高の音楽を聴かせたい。聴いたことのないような曲も提供していきたい。メシアンの《トゥランガリラ交響曲》も台湾初演しました。(注:2013年11月には、ベルリンのフィルハーモニーを含むフィルハーモニア台湾のヨーロッパ公演を成功させた)」

オーチャードホールにどんな思い出がありますか?

「2012年に新日本フィルとの《第九》でオーチャードホールに来ましたが、楽屋に入ったとき、以前ここに来たことがあることを思い出しました。1998 年にベルリン・コーミッシェオーパーの来日公演で《ホフマン物語》を振ったのです。14年ぶりのオーチャードホールでした。既に馴染みのあるホールです。 日本に初めて来た時に振ったホールにまた帰ってくるので、初心を忘れないようにしたいと思います。個人的にはN響と大好きな2曲で共演できるのがとても楽しみです」

インタビュアー:山田治生(音楽評論家)