山田和樹 マーラー・ツィクルス

MAHLER SYNPHONIES曲目紹介

マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」※ハンブルク稿

文・松本學

オーチャードホールと山田和樹&日本フィルがタッグを組み、2015年1月からスタートするマーラー選集。マーラーが生み出したシンフォニーを、作曲順に計9回で上演するプロジェクトである。
幕開けとなる第1回に演奏される交響曲第1番は、鳥の声や森の空気、黎明といった自然の描写から、葬送行進曲、力強い勝利のファンファーレなど、若き日のマーラーの豊穣な音楽的才能やイマジネーションが、比較的すっきりとした構成の中で存分に展開・噴出される作品である。華々しさに加え、演奏時間も、他の交響曲がどれもみな70分超えなのに比べ、第4交響曲と並んで1時間以内に収まるサイズということもあって、馴染みやすくなっている。
自作歌曲からの引用や文学との関連性、マーラー特有の聖と俗の併置、極端なデュナーミク(強弱)の差、各楽器のポテンシャルの引き出し方、あるいは特に第1楽章における不可思議ともいうべきユニークな構成(長い序奏、それに対し簡略化された再現部)など、聴きどころはたくさんある作品だが、今回のオーチャード企画では、何といっても演奏に用いられるヴァージョンを注目ポイントとしてあげておかなくてはならない。
マーラーは、ひとつの作品を完成させるのに、書き上げた段階からオーケストラの練習、本番という過程で、その都度作品をブラッシュ・アップするのが常であった。基本的には書き込み過ぎた管楽器などを整理してすっきりさせ、作品の対位的書法を明確化してゆく作業が主と言ってよいと思う。
そのためマーラーの作品研究では、自筆譜にはじまり、浄書譜(練習開始時に指揮者が使うものと考えてよいだろう)やオーケストラの各パート譜、印刷され一般が購入するための出版譜というすべての資料を参照するのが特に重要とされている。それに加え、交響曲第1番では、印刷に至るまでに作曲者自身が改訂を繰り返したため、ブルックナー並みの改訂稿が存在し、ことは複雑さを増している。具体的には、①1889年ブダペシュト初演稿、②1893年ハンブルク上演稿、③1894年11月ヴァイマール上演稿、④1896年ベルリン上演稿、⑤1899年出版譜(ヴァインベルガー社)、⑥1906年出版譜(ウニフェルザル社)という具合だ。さらに⑥をベースにマーラーの没後に出された⑦国際マーラー協会版(ラッツ校訂版)や⑧その新版(ヴィルケンス校訂版)などがある(フュスルによる協会版の修正版や、オイレンブルク旧版をはじめ、校訂版は他にもあるのだが、ここでは割愛しておく)。
我々が通常のコンサートや録音で耳にするのは、殆んどがこの⑦や⑧である。今回のオーチャードホール公演では、上記②のハンブルク稿が聴けるのが最大の魅力のひとつというわけだ。

再度、整理しておこう。

①最初に書かれ、1989年11月に初演された交響詩ヴァージョン。初演の地名をとって「ブダペシュト稿」とも呼ばれる。全2部全5楽章(ただし自筆譜は紛失。これに基づくと"見なされている"第1、3、5楽章の浄書譜は残っている)。

②続いて、マーラーがハンブルク市立歌劇場の首席指揮者時代だった93年に、第2、3、5楽章を改訂し演奏。作曲者自身、「簡潔ですっきりと」させ、序奏のオーケストレーションも「完全に書き直した」と語っている(リヒャルト・シュトラウス宛への手紙より)。これが今回演奏される「ハンブルク稿」である。ジャン・パウルの大著に基づいた《ティターン(巨人)》というタイトルや、各楽章への副題が付けられたのはこの時。敢えて煩雑なことをいうと、ハンブルク稿にも自筆譜稿②aと、練習過程でそれに手を加えた上演用浄書譜②bが存在する。

③さらに、リヒャルト・シュトラウスの協力を得て、94年にザクセン宮廷歌劇場で行われた音楽祭で上演されるに際し、ハンブルク稿に修正を加えたのが「ヴァイマール稿」。これと②bが同一のものなのかは不明。

④既に第2交響曲が出来上がった後の1896年にベルリンで初演するに当たり、再改訂された。編成は3管から4管へ、ホルンは4から7へ、ティンパニも2セットに拡大。各楽章の副題は取り払われ、当初から2番目に置かれていたアンダンテ楽章(ハンブルク稿からは〈花の章〉と命名)もカットされ、全4楽章となった。また、初めて「交響曲」のタイトルが用いられたのもこの時である。このオーチャード・プロジェクトが「マーラー交響曲ツィクルス」ではなく、「マーラー・ツィクルス」と名付けられているのは、これも理由のひとつと言えるだろう。

⑤さらに整理し、99年ヴァインベルガー社より「交響曲第1番」の名で出版。

もうひとつだけ面倒な話を。
実は演奏に用いられるハンブルク稿の楽譜は現在2種存在するようになった。従来用いられてきたプレッサー社のもの(スコアの最後のページには1893年1月19日の日付が記されている)と、、国際マーラー協会が会員に配布される冊子で2014年春に出すと告知した新たな版である。実際のところ予告に反し協会版の発売は遅れているが、ヘンゲルブロックが録音を発表している状況なので演奏は可能。ただし、ヘンゲルブロックの用いた新全集版は、正確にはハンブルク稿の最終形態(②b)であって、現行版との差異が思いのほか少ないのが---その価値は別として---正直面白みに欠ける。
オーチャード・プロジェクトでどちらが用いられるかは現在検討中とのことだが、より現行版と異なった特徴を聴けるプレッサー社の版を用いるという前提で、そちらでの主立った特徴を挙げておこう(以下、スコアをお持ちの方はご参考に、またお持ちでない方は、まあ多くの違いがあるのだなという程度にお読みください)。

第1楽章
・序奏の9小節目に登場するクラリネットの3連符モティーフ(=ファンファーレ)が、現行のクラリネットではなく、弱音器を付けたホルンが担当。
・主部に入ってからの練習番号[8](以下「練習番号」を省略)。直前にハープが入り、第1ヴァイオリンが1点ホ音のトリルを経て、オクターヴ上から2小節にわたって下降のスケールを終え、第2ヴァイオリンが旋律を開始するところ。ここからの4小節間の各1拍目のハープとコントラバスにティンパニのホ音が重ねられている。
・[9]和声進行を、第2オーボエ、ファゴット1、2番、ホルン1~4番が追加補強。
・[12]提示部の最後がファゴットではなく、低弦(チェロ&コントラバス)のイ音のオクターヴ下降による郭公のモティーフでまとめられる。また提示部の反復は実施されない。
・[25]6小節前からの両ヴァイオリンとヴィオラの2分音符のひとつひとつにクレッシェンドが付けられている(現行版ではヴィオラは休み)。第1、2フルートは音を延ばしたままとされ、現行の2分音符毎のクレッシェンド&ディミヌエンドもなし。また、現行版では[25]で一旦消えるバス・ドラムが、ハンブルク稿ではそのままずっとクレシェンドを続けられ、352小節のトランペット・ファンファーレの爆発まで重厚な盛り上がりを形成する。

第2楽章〈花の章〉(現行版にはない)
・トランペットの柔らかいソロや、オーボエのソロ。

第3楽章(現行第2楽章)〈スケルツォ〉
・冒頭の低弦のモティーフにティンパニが重ねられている。また続く木管のレントラー主題の直後にもオーボエとクラリネット([2]の4小節後=18小節~)。主題のリピートはされない。
・[16]トリオへの移行部でのホルンのソロは、4小節間イ音を反復する。現行での後半2小節の動きは、第1クラリネットが担当。引き継いだクラリネットには、小節単位でクレッシェンド&ディミヌエンドが付けられている。

第4楽章(現行第3楽章)
・冒頭のコントラバスのソロは、ミュートを付けたソロ・チェロとのデュオ(コントラバスはミュートなし)。
・カノンが再帰する[13]の6小節後に出てくるクラリネットの跳ねるようなメロディは、最初に出てきた時([3])と同様、オーボエが担当。

第5楽章(現行第4楽章)
・[5]で弦と掛け合う木管楽器がなく、両ヴァイオリンとヴィオラは休みなく弾き続ける。
・[8]2小節前にトロンボーンのロングトーン。また、ここではホルンとトランペットも僅かに音価が異なっている(2分音符が付点4分音符に)。チェロとコントラバスは3連符ではなく、先行楽章と同じ8分音符で進行。
・[9]現行のトロンボーンの動きがホルンに任されており、トロンボーンは全音符での延ばし。
・提示部終わり近くの[13]前後でのフェルマータの有無が異なる([13]の小節にはフェルマータはなし)。同様に、[19]4小節前におけるヴァイオリンとヴィオラによる旋律のエモーショナルな頂点(現行版で"nur ein kurzes"と指示)を形成するフェルマータもない(ハンブルク稿にはテヌートのみ)。
・展開部の最初の部分が終わり、ハ長調に転じたところ([25])では現行版でのホルンがなく、木管のみ。
・再現部途中の[43]のff(フォルティッシモ)や、その後の[44]でのfff(フォルティッシシシモ)での若々しい情熱の爆発がなく(前者はpピアノ、後者はfフォルテ)、比較的穏やかな昂揚に留まっている。
・[53]5小節前からのピッコロのトリルが、[53]2小節後まで続けられている(現行版では[53]の1小節前までで終了)。そのため、[53]からの下降スケールは弦のみで、木管はトリルを続ける。
・勝利の凱歌をあげる[56]以降に、現行にないティンパニがあり(~[57])。
・コーダのラスト[61]からの4小節間、トランペットは3連符ファンファーレではなく、ロングトーンを鳴らす。そして最後の最後で打楽器のみとなる現行の728と730小節目(終わりから4、2小節目)が、それぞれ1小節でなく3小節分とされており、大団円の終結に思い切り"溜め"を作っている。

以上、目立った特徴を挙げてみた。その他にも細かな差異は数多い。何にも増して実演で聴けること自体が珍しいヴァージョンなので、まず単純に貴重な機会であるのは確か。現行版とのスコアの細部の相違を吟味するのもよし、あるいはそれらを気にせず曲自体のめくるめくドラマをそのまま味わうのもよしである。そして同時に、山田と日本フィルがこの素材の個性をどのように際立たせ、さらにどのように豊かな音楽を歌い上げるのか、様々なスタイルで自由にお楽しみいただきたい。