ミロ展―日本を夢みて

コラムコラム

COLUMN1

ミロのいろいろな作品に 遠い日本が見え隠れする

ジュアン・ミロ 《花と蝶》 1922-23年 テンペラ、板 横浜美術館 © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4304
ジュアン・ミロ 《花と蝶》 1922-23年 テンペラ、板 横浜美術館 © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4304

花瓶に生けられた黄色いカンナと緋色のハイビスカス。取り合わせ自体エキゾティックだが、むしろ池坊の古風ないけばなを思い浮かべた人も多いのではないだろうか。凛とした全体の姿とともに、葉のない枝が活けられているのがなんとも非ヨーロッパ的である。バルセロナにおける20世紀初頭の万博以来の日本ブームが冷めやらぬ環境の中で、日本に憧れて青年期を送った画家にいけばなの情報が届いていたかは定かではないが、この作品には遠い日本が見え隠れする。一方作品としては、黒い蝶が絶妙な構図を生み出しており、画家としての優れた力量が感じられる。

1920年から徐々にミロはパリにも活動の拠点を設けていく。新しい様式を模索しながらの集中的な絵画制作だけでなく、人との付き合いにも疲れ果て、夜には憂さ晴らしも兼ねてボクシングのジムに通っていた。言葉も違う「地方」から大都会に上京してきたミロの、人間臭い一面を感じるエピソードである。ちなみにこのジムのスパーリング仲間が偶然にも小説家のヘミングウェイであった。

《花と蝶》は細部まで描き込む写実的な描写の最後の数点の一つである。パリ在住を機に、ミロの作風は一挙に単純な形や線で構成されるシンプルなものへと移行していった。その背景にあったのは直接的にはシュルレアリスムの詩人らとの交流である。因習的なものすべてに反旗を翻した革命の戦士たちのグループにミロも名を連ねることとなり、自らの造形言語を最小にまでに抑制し、根源的で直截的な情感を引き出そうとした。

ジュアン・ミロ 《絵画(パイプを吸う男)》 1925年 油彩、キャンバス 富山県美術館 © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4304
ジュアン・ミロ 《絵画(パイプを吸う男)》 1925年 油彩、キャンバス 富山県美術館 © Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2021 E4304

この頃描かれた《夢の絵画》というシリーズの一つが《絵画(パイプを吸う男)》である。そしてこの作品には、俳句の美学のミロ流の解釈を見ることはできないだろうか。最小限の言葉で勝負する静かな俳句の世界。1924年、ミロは詩人のミシェル・レリスに送った手紙で「北斎は、ただ一本の線やひとつの点に生気を与えたいと言った」と述べている。この年はブルトンの「シュルレアリスム宣言」が出された年でもあり、ミロに作風の変化をもたらした直接の動機は彼らとの交流に求められるにしても、すでにバルセロナ時代にミロが得ていた俳句の知識も総合的に作用して、多くの人がいかにもミロらしいと感じる簡素な様式が誕生することになったのではないだろうか。その後のミロのほとんどの作品に通底するミニマリスムの根源には、日本文化との出会いがあったと言えるかもしれない。

Bunkamura ザ・ミュージアム
上席学芸員 宮澤政男

COLUMN2

ミロがたどり着いたのは「書」のような「絵」の世界だった

ジュアン・ミロ 《すると鳥は、ルビーが降り注いで茜色に染まったピラミッドの方へ飛び立つ(勅使河原蒼風のために)》
1954年(1952年原画制作、1959年5月加筆) エッチング・アクアチント・インク・墨、紙
一般財団法人草月会
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E4592
ジュアン・ミロ 《すると鳥は、ルビーが降り注いで茜色に染まったピラミッドの方へ飛び立つ(勅使河原蒼風のために)》
1954年(1952年原画制作、1959年5月加筆) エッチング・アクアチント・インク・墨、紙
一般財団法人草月会
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E4592

詩のような長い題名の版画。題名は原画のときから画面下部に書き込まれており、羽ばたく鳥を愛したミロらしい内容となっている。この版画はいけばな草月の創始者・勅使河原蒼風(1900-1979)がジュアン・ミロ(1893-1983)から直接贈られた。1950年代から70年代、蒼風は55年のパリを皮切りに、世界各地で積極的に前衛華道の作品を発表していた。当時ミロは、皮肉にもフランコ独裁下の祖国スペイン以外で、注目すべき作家として広い支持を得ていたが、59年同じ時期にニューヨークで各々の個展があり、その際に両者が出会ったのはホテルが同じだったこともあるものの、あながち偶然ではなかったかもしれない。ニューヨークはミロにとって既に重要な作品発表の場になっていたが、蒼風は華道界の革命児として、高度成長期の日本を体現するような勢いで活動し、その結果のひとつがこの個展であった。二人の交流はこれをきっかけに始まり、同じ年の数か月後にパリで再会。両者の人気の程がうかがい知れるスケジュールだが、そのとき贈られたこの版画には「蒼風・勅使河原に、友情を込めて」という書き込みがあり、更に周囲には力強い書のような加筆もある。

ジュアン・ミロ 《絵画》
1966年 油彩・アクリル・木炭、キャンバス
ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ Fundació Pilar i Joan Miró a Mallorca Photographic Archive
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E4304
ジュアン・ミロ 《絵画》
1966年 油彩・アクリル・木炭、キャンバス
ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ Fundació Pilar i Joan Miró a Mallorca Photographic Archive
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2022 E4304

バルセロナでの青年時代からミロは日本文化に自分たちにはないものを見出し、魅了され、憧れを抱いてきた。書については様々な情報を得ており、40年代には既に墨や和紙を試みていた。欧米で日本の書は50年代には抽象絵画を論じる場でしばしば参照され、前衛的な日本の書家による作品展も開催されるようになる。書道のように床で制作するアクション・ペインティングのジャクソン・ポロックに刺激を受け、ときには前衛書のような絵を描くミロは、そもそも文字を書いているわけではなく、その筆さばきをパリで見た蒼風は、かなり慎重であったと語っており、あくまでも自らのスタイルでの制作を貫いていた。ミロは66年に訪日する直前、画家アレシンスキーが日本で取材して制作した「日本の書」という短編映画の中での前衛書家・森田子龍らの奔放な制作風景を見ている。訪日の直後に描かれた高さ2mもの《絵画》という作品を観てみよう。前衛書道を彷彿とさせるが、題名からして書ではなく、やはり立て掛けて描き、むしろミロが日本文化を咀嚼して自らの芸術の中に昇華させた傑作となっている。日本で得たすべてのものが、この作品には込められているのである。

Bunkamura ザ・ミュージアム
上席学芸員 宮澤政男

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