60’sロンドン、モードの旗手の物語

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2023.01.06 UP

コラム&レポート

【担当学芸員によるコラム】「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その1

数あるマリー・クワントの功績の中でも、ミニスカートの展開は社会に及ぼした影響の大きさという点で突出している。ファッション界に新風を吹き込み女性の装いを刷新しただけでなく、女性の意識改革にも一役買い、そしてウーマンリブのシンボルとなった。

第二次大戦終結後間もない1949年、クワントはゴールドスミス・カレッジに進学する。戦争は終わったとはいえ、イギリスでは一部の食料品が配給制度でしか入手できず、徴兵制もまだ継続されていた。クワントの同級生には学業半ばで戦場に駆り出され、終戦後に復学してきた者もいた。そのまさしく戦後という状況下でクワントは既に自作のミニスカートを着用し、おしゃれを楽しんでいた。またそれを羨ましがったカレッジの同級生たちのためにデザインもした。気の利いたデザインの既製服などほとんど入手不可能な時代であった。ファッションはパリのオートクチュールに限定されていて、まだまだ一部の上流階級や富裕層のみの特権であった。当時のことをクワントも自伝の中で次のように回想している。「あれほど多くのイギリス人女性が英国海軍婦人部隊(WRENS、王立婦人海軍)に入ったのもうなずける。WRENSの軍服はとてもおしゃれだった。」

そのような時代背景の後押しもあり、1955年にクワントが若干25歳にして開店したブティック、バザーは大当たりする。戦争が終わり十分な教育を受け、収入を得られるようになった若者たちは、閉鎖的な階級社会や旧世代の既成概念に反発し、自分たちのための音楽やファッションを渇望するようになる。そういった彼らのエネルギーがロンドン発のストリートカルチャー、スウィンギング・ロンドンとして1960年代に開花する。クワントのファッション・センスはそんな若者たちのニーズとマッチし、バザーは瞬く間に3店舗を構えるまでに拡張していく。


「マリー・クワント展」会場風景

クワントのデザインした衣服が飛ぶように売れた理由はいくつかある。まずは一般庶民の手の届く価格帯で販売されたこと。そして、デザインが機能的で動きやすいこと。それまで女性は、その振る舞いや役割を男性の求める理想の女性像とすべく教えこまれていた。ファッションも然り、女性らしいラインを強調するきつく絞ったウエストから大きく広がるスカート、というスタイルが一般的であった。これに反してクワントが当時好んでデザインしていたのは、シフトドレスと呼ばれる細身だがウエストを強調しないワンピースで、腰骨のあたりからフレアかプリーツになっていた。共布のベルトを腰に巻くデザインもあったが、そのままローウエストのワンピースあるいはピナフォア(エプロンドレス、ジャンパースカート)として着用できるものが多く、動きやすく機能的でスタイリッシュな衣服であった。昼間はオフィスに着ていったその同じワンピースを、夜はそのままオペラや晩餐会、ディスコなどにも着て行くことができた。またスカート丈も膝丈がほとんどで、ビートルズなどの流行の音楽に合わせて踊るのにもってこいだった。膝が隠れるか隠れないかの丈が脚をきれいに見せてくれることをクワントは熟知していたが、それはすぐに他の女性たちにも認識され、支持されることになる。結果として、特権階級の人々までもがこぞってバザーで買い物をするようになった。

ところが当時の大人たちからは、クワントのミニスカートはかなりの酷評を受けることになる。ミニスカートと言っても、1960年代前半まではせいぜい膝が見えるか見えないくらいの丈であった。1966年にツイッギーがモデルデビューすると、クワントも一段とスカート丈を短くし太ももを露わにしたが、それ以前はまだミニスカートという名称すら使用されていなかった。それでもなお、年配の分別があると自認する面々からは嫌悪感いっぱいに、品が無い、ふしだらだ、と揶揄された。クワントのミニスカートに憧れ、初任給でドレスを購入した若い女性が、母親にひどく怒られてせっかく購入したミニドレスを返品しに行く羽目になった、というエピソードも残っている。1960年代までは、それほどにミニスカートを着るということは画期的であり、また人目に立つことであった。現在に当てはめて考えると、日本人が髪の毛を色鮮やかな金髪やブルーに染めるのと同等のインパクトがあったのではないか。

早くも1920年代のフラッパーの時代には短い膝上のスカート丈が出現するが、その後1930年代の世界恐慌から1940年代の第二次世界大戦突入で、自ずとファッションは保守的になり、スカート丈も元の長さに戻っていく。終戦後、クワントは自分用に膝丈のスカートを作成するようになり、それは少女時代からの衣服の延長線上でもあったが、フラッパーの影響も無視できない。いずれにしろバザー開店以降、クワントのミニスカートは都市部を中心に爆発的な売れ行きとなり、クワント自身も引き続き自社の製品を着こなすことで広告塔としての役割を担っていく。つまり、クワントはミニスカートを発明したわけではないが、世に広めた伝道師である、といえる。

「マリー・クワント展」会場風景(左下に見えるのが1960年1月の掲載誌)

フランスのデザイナー、アンドレ・クレージュがそのクチュール・コレクションで短いスカートを発表し、世界中の注目を浴びたのは1964年のことだ。クレージュこそがミニスカートの生みの親とされることも多いが、クワントはそれ以前よりミニスカートを発売していた。いつから販売開始していたかを実証する資料は残っていないが、少なくとも1960年1月にはクワントのデザインによる膝丈のピナフォアがヴォーグ・ロンドン誌に掲載されている。(この掲載誌は本展会場でも出展中である。)しかし誰の方が先かということよりも、ここで注目したいのは、クワントがミニの社会的インパクトを高め市場での存在感を増したことにより、パリのデザイナーにまで影響をおよぼした、という点である。それまでパリのファッションがロンドンにやってくることはあっても、ロンドンのストリートファッションの動向がパリのオートクチュールに反映されるなど、前代未聞のことだったに違いない。これは以後巻き起こるファッションの民主化・大衆化の幕開けであり、クワントは図らずもその発端となった。
 


《ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン》 1962年 Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London

ミニスカートを世界に知らしめたモデルに、ジーン・シュリンプトンがいる。世界初のスーパーモデルとしても有名だが、ツイッギーが登場する以前の1960年代前半、シュリンプトンこそがクワントのファッションの顔であった。そのシュリンプトンがメルボルンの競馬場に、ミニスカート姿に帽子もストッキングも手袋も無し、というスタイルで登場し物議を醸すという事件が起こる。1965年当時、正装で参加すべきイベントにシュリンプトンがそのようないでたちで現れたことは、メルボルンの保守派の人々にとっては相当に衝撃的な出来事であったらしい。この騒動は「ミニスカート事件」として世界中にニュース配信され紙面を飾り、ミニスカートがイギリス国外にも普及していく契機となる。ちなみに、シュリンプトンがこの時着ていたのは白のシフトドレスだが、クワント製品ではなく、コリン・ロルフという洋裁師が作ったもので、布地が足りなかったがためにミニ丈にせざるを得なかったという。

【担当学芸員によるコラム】「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その2に続きます。

Bunkamura ザ・ミュージアム学芸員 岡田由里