60’sロンドン、モードの旗手の物語

COLUMNコラム

COLUMN 1

マリー・クワントとツイッギー、2人のミニの女王

ベストとショートパンツのアンサンブルを着るツイッギー 1966年
ベストとショートパンツのアンサンブルを着るツイッギー 1966年
© Photograph Terence Donovan, courtesy Terence Donovan Archive. The Sunday Times, 23 October 1966

本展はイギリス出身のファッションデザイナー、マリー・クワントの1950年代から1970年代までの作品を集めた回顧展である。クワントは1960年代イギリス発のストリート・カルチャー「スウィンギング・ロンドン」において、ビートルズやローリングストーンズと肩を並べる代表的な登場人物だ。その業績は多岐にわたるが、やはり一番の功績はミニスカートを世に広めたことにより、女性の服装からライフスタイルまでをも変革したことであろう。「ミニスカートの女王」と呼ばれる所以である。

ところで、「ミニスカートを流行らせた人の展覧会」と言うと、「ツイッギーのこと?」という反応がかなりの確率で返って来る。特に日本の中高年世代には「ミニスカート=ツイッギー」という図式が植え付けられているようだ。それゆえ、日本では「ミニスカートの女王」はツイッギー、ということになっている場合が多い。しかしこのように、デザイナーであると同時に自身がファッション・アイコンでもあったクワントよりも、クワントにモデルとして起用されたことで有名になったツイッギーの知名度の方が高いというのは、欧米とは異なる日本特有の現象であろう。そしてこれにはクワントに先んじてツイッギーが1967年に来日したことが、大きく影響している。

1967年10月18日、弱冠18歳のツイッギーが東京・羽田空港に降り立った。その時のいでたちは、ミニスカートではなくひざ下10センチのキュロットスカートだったため、大挙して待ち構えていた報道陣を相当がっかりさせる。しかし翌19日に開かれた記者会見では、期待を裏切らない膝上30センチのマイクロミニで登場し、「ミニの女王」としての面目躍如を果たす。ツイッギーは3週間の滞在期間中、7都市でのファッションショーと、スポンサー企業のCM撮影などをこなした。

さて、ここで気になるのは、ツイッギーは来日時、クワントのデザインによる衣服を着ていたのかどうか、という点であろう。残念ながらその答えは十中八九、否である。というのも、ツイッギー招聘の主眼は、東洋レーヨン(現・東レ)のシルックという絹調ポリエステル繊維の販促にあった。つまりツイッギーが日本で身に着けていたのは、東レの製品であったと思われる。

ツイッギー来日の前年の1966年、武道館でのビートルズのコンサートが熱狂的に受け入れられたのは未だ有名な話であり、当時既に日本にもスウィンギング・ロンドンの波が押し寄せていたと言ってよいだろう。その記憶も冷めやらぬ翌年、まさにスウィンギング・ロンドンの世界観を凝縮し可視化したかのようなツイッギーの来日、これが話題にならないはずがない。瞬く間に都市部を中心に日本でもミニスカート姿の女性が増えていった。

実はこのツイッギー・フィーバーに東急グループも参画していた。各地で開催されたツイッギーの出演するファッションショー、その会場の一つとして東急百貨店東横店も名を連ねている。当時の新聞広告には次のようにある。(行替えも原文まま)




TWIGGY  東急百貨店 東横店 日本橋店
東レ
トゥイギーショウ
抽選でご招待
11月1日 本店誕生を記念して 夢にまで見たあなたの
トゥイギーを招きファッションショウを開催 ご婦人
1,000名様を特別ご招待いたします
日時・11月1日(水) 午前10時30分~12時30分
会場・東横店9階東横劇場
特別出演:ザ・スパイダース・堀内美紀



この広告によると、本店の新築オープン記念という、東急百貨店としても願ってもないタイミングでの目玉イベントにツイッギーが登場していたようだ。当時、1,000人の定員に対して数万人もの応募があったという。東急百貨店本店は今年で開店55年を迎えたが、2023年1月末での営業終了が決まっている。このような節目の時期に、図らずも隣接するBunkamuraでツイッギーとゆかりの深いマリー・クワント展を開催する運びとなるとは、なんとも不思議な巡り合わせである。

クワントもツイッギーも、それぞれ「ミニの女王」として広く認知されるまでになったが、その成功裏には恋人や夫、友人らのサポートが十二分にあった。クワントは1955年にブティック「バザー」を開店するが、これはのちに夫となるアレキサンダー・プランケット・グリーンと友人のアーチー・マクネアの3人での共同経営であり、この関係性は長きにわたり継続された。主にクワントがデザイン、プランケット・グリーンが広報やマーケティング、マクネアが財務などのビジネス面を担当し、マクネアは自分のことを「マリーのビジネス上の乳母」だと称していた。またツイッギーも、来日時に同行したマネージャーであり恋人でもあったジュスタン・デ・ヴィルヌーヴによって見出され、プロモートされたことでモデルとしての頭角を現していった。スウィンギング・ロンドンの時代はイギリスでもまだまだ男性優位の社会であり、若い女性がそれまでの慣習に抗って新しいことをやろうとするには相当の覚悟と労力が必要だった。そんな彼女たちのサポーターとして、裏方に徹し公私にわたって支えてくれるジェントルマンの存在は非常に有難く、また不可欠だったに違いない。日本でも実はこのような点が、今後更なる女性の社会進出を後押しする鍵となるのかもしれない。

クワントが初来日するのはツイッギーに遅れること5年の1972年、自社の化粧品のライセンス販売が日本で始まった翌年のことである。自身のファッションビジネスが成熟し、一段落してきた時期でもあった。そこからクワントと日本の関係は急激に深まっていくが、本展ではそれ以前の時期に焦点を当てた構成となっている。日本ではあまり紹介されてこなかった、クワントがファッション・リーダーとして奮闘する姿を写真資料で垣間見ることのできる展覧会となっており、ツイッギーとはまた一味違う「ミニの女王」クワントの魅力を存分にご堪能いただきたい。

Bunkamura ザ・ミュージアム
学芸員 岡田由里

COLUMN 2-1

「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その1

数あるマリー・クワントの功績の中でも、ミニスカートの展開は社会に及ぼした影響の大きさという点で突出している。ファッション界に新風を吹き込み女性の装いを刷新しただけでなく、女性の意識改革にも一役買い、そしてウーマンリブのシンボルとなった。

第二次大戦終結後間もない1949年、クワントはゴールドスミス・カレッジに進学する。戦争は終わったとはいえ、イギリスでは一部の食料品が配給制度でしか入手できず、徴兵制もまだ継続されていた。クワントの同級生には学業半ばで戦場に駆り出され、終戦後に復学してきた者もいた。そのまさしく戦後という状況下でクワントは既に自作のミニスカートを着用し、おしゃれを楽しんでいた。またそれを羨ましがったカレッジの同級生たちのためにデザインもした。気の利いたデザインの既製服などほとんど入手不可能な時代であった。ファッションはパリのオートクチュールに限定されていて、まだまだ一部の上流階級や富裕層のみの特権であった。当時のことをクワントも自伝の中で次のように回想している。「あれほど多くのイギリス人女性が英国海軍婦人部隊(WRENS、王立婦人海軍)に入ったのもうなずける。WRENSの軍服はとてもおしゃれだった。」

そのような時代背景の後押しもあり、1955年にクワントが若干25歳にして開店したブティック、バザーは大当たりする。戦争が終わり十分な教育を受け、収入を得られるようになった若者たちは、閉鎖的な階級社会や旧世代の既成概念に反発し、自分たちのための音楽やファッションを渇望するようになる。そういった彼らのエネルギーがロンドン発のストリートカルチャー、スウィンギング・ロンドンとして1960年代に開花する。クワントのファッション・センスはそんな若者たちのニーズとマッチし、バザーは瞬く間に3店舗を構えるまでに拡張していく。

「マリー・クワント展」会場風景
「マリー・クワント展」会場風景

クワントのデザインした衣服が飛ぶように売れた理由はいくつかある。まずは一般庶民の手の届く価格帯で販売されたこと。そして、デザインが機能的で動きやすいこと。それまで女性は、その振る舞いや役割を男性の求める理想の女性像とすべく教えこまれていた。ファッションも然り、女性らしいラインを強調するきつく絞ったウエストから大きく広がるスカート、というスタイルが一般的であった。これに反してクワントが当時好んでデザインしていたのは、シフトドレスと呼ばれる細身だがウエストを強調しないワンピースで、腰骨のあたりからフレアかプリーツになっていた。共布のベルトを腰に巻くデザインもあったが、そのままローウエストのワンピースあるいはピナフォア(エプロンドレス、ジャンパースカート)として着用できるものが多く、動きやすく機能的でスタイリッシュな衣服であった。昼間はオフィスに着ていったその同じワンピースを、夜はそのままオペラや晩餐会、ディスコなどにも着て行くことができた。またスカート丈も膝丈がほとんどで、ビートルズなどの流行の音楽に合わせて踊るのにもってこいだった。膝が隠れるか隠れないかの丈が脚をきれいに見せてくれることをクワントは熟知していたが、それはすぐに他の女性たちにも認識され、支持されることになる。結果として、特権階級の人々までもがこぞってバザーで買い物をするようになった。

ところが当時の大人たちからは、クワントのミニスカートはかなりの酷評を受けることになる。ミニスカートと言っても、1960年代前半まではせいぜい膝が見えるか見えないくらいの丈であった。1966年にツイッギーがモデルデビューすると、クワントも一段とスカート丈を短くし太ももを露わにしたが、それ以前はまだミニスカートという名称すら使用されていなかった。それでもなお、年配の分別があると自認する面々からは嫌悪感いっぱいに、品が無い、ふしだらだ、と揶揄された。クワントのミニスカートに憧れ、初任給でドレスを購入した若い女性が、母親にひどく怒られてせっかく購入したミニドレスを返品しに行く羽目になった、というエピソードも残っている。1960年代までは、それほどにミニスカートを着るということは画期的であり、また人目に立つことであった。現在に当てはめて考えると、日本人が髪の毛を色鮮やかな金髪やブルーに染めるのと同等のインパクトがあったのではないか。

早くも1920年代のフラッパーの時代には短い膝上のスカート丈が出現するが、その後1930年代の世界恐慌から1940年代の第二次世界大戦突入で、自ずとファッションは保守的になり、スカート丈も元の長さに戻っていく。終戦後、クワントは自分用に膝丈のスカートを作成するようになり、それは少女時代からの衣服の延長線上でもあったが、フラッパーの影響も無視できない。いずれにしろバザー開店以降、クワントのミニスカートは都市部を中心に爆発的な売れ行きとなり、クワント自身も引き続き自社の製品を着こなすことで広告塔としての役割を担っていく。つまり、クワントはミニスカートを発明したわけではないが、世に広めた伝道師である、といえる。

「マリー・クワント展」会場風景(左下に見えるのが1960年1月の掲載誌)
「マリー・クワント展」会場風景(左下に見えるのが1960年1月の掲載誌)

フランスのデザイナー、アンドレ・クレージュがそのクチュール・コレクションで短いスカートを発表し、世界中の注目を浴びたのは1964年のことだ。クレージュこそがミニスカートの生みの親とされることも多いが、クワントはそれ以前よりミニスカートを発売していた。いつから販売開始していたかを実証する資料は残っていないが、少なくとも1960年1月にはクワントのデザインによる膝丈のピナフォアがヴォーグ・ロンドン誌に掲載されている。(この掲載誌は本展会場でも出展中である。)しかし誰の方が先かということよりも、ここで注目したいのは、クワントがミニの社会的インパクトを高め市場での存在感を増したことにより、パリのデザイナーにまで影響をおよぼした、という点である。それまでパリのファッションがロンドンにやってくることはあっても、ロンドンのストリートファッションの動向がパリのオートクチュールに反映されるなど、前代未聞のことだったに違いない。これは以後巻き起こるファッションの民主化・大衆化の幕開けであり、クワントは図らずもその発端となった。

《ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン》
《ベストとスカートを組み合わせた「コール・ヒーバー(石炭担ぎ)」を着るセリア・ハモンド(左)とジーン・シュリンプトン》 1962年
Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London

ミニスカートを世界に知らしめたモデルに、ジーン・シュリンプトンがいる。世界初のスーパーモデルとしても有名だが、ツイッギーが登場する以前の1960年代前半、シュリンプトンこそがクワントのファッションの顔であった。そのシュリンプトンがメルボルンの競馬場に、ミニスカート姿に帽子もストッキングも手袋も無し、というスタイルで登場し物議を醸すという事件が起こる。1965年当時、正装で参加すべきイベントにシュリンプトンがそのようないでたちで現れたことは、メルボルンの保守派の人々にとっては相当に衝撃的な出来事であったらしい。この騒動は「ミニスカート事件」として世界中にニュース配信され紙面を飾り、ミニスカートがイギリス国外にも普及していく契機となる。ちなみに、シュリンプトンがこの時着ていたのは白のシフトドレスだが、クワント製品ではなく、コリン・ロルフという洋裁師が作ったもので、布地が足りなかったがためにミニ丈にせざるを得なかったという。

「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その2に続く

Bunkamura ザ・ミュージアム
学芸員 岡田由里

COLUMN 2-2

「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その2

本展にも多数のミニスカートが出展中だが、ミニに焦点を当てた展示ケースがある。1962年から67年の5点のミニを時系列順に配置してあり、本展の目玉展示となっている。どれもクワントの代表的なデザインの作品であるが、スカート丈が時代を追うごとに短くなっていくのが見てとれる。しかし、実は中央3点目の1964年製の黄色い衣服の丈が、翌1965年製のものよりも短いということに、会場ではお気づきになるだろう。これは、その1964年製のワンピースの持ち主が、購入後に自分で丈を短く直してしまったためである。本来販売されていた既製服としての丈は、もう少し長めだったという訳だ。

どちらも「マリー・クワント展」会場風景 どちらも「マリー・クワント展」会場風景
どちらも「マリー・クワント展」会場風景

1960年代、裁縫をたしなむことがまだ一般的であった世相から、クワントも1964年より型紙販売に乗り出すことになる。また、付随して布地の開発・販売にも参加している。本展では型紙と布地に加え実際に一般人によって縫製された「ミス・マフェット」という作品が展示されている。なお、宣伝用の写真上でモデルのパティ・ボイドが着用している「ミス・マフェット」はミニスカートではなく、ふくらはぎまで届く長めの丈になっている。ところが展示されている「ミス・マフェット」はかなりのミニ丈である。このように、ミニスカートは人々によって縫製され、購入され、またはもともと持っていた服の丈を詰めるなどアレンジされて、世の中に蔓延していく。

《ドレス「ミス・マフェット」を着るパティ・ボイドとローリングストーンズ》 1964年
《ドレス「ミス・マフェット」を着るパティ・ボイドとローリングストーンズ》 1964年
Photograph by John French © John French / Victoria and Albert Museum, London

ミニスカートはこうして1960年代に世界中の女性たちを虜にしていくが、それは外見だけにとどまらず、その内面や女性的価値としての主張へと波及していく。それまで女性たちが男性からの理想像を一方的に押し付けられていた状況は前述の通りだが、1960年代にはそのような価値観に女性が反旗を翻すウーマンリブ運動が盛んになる。女性解放や自立を叫ぶ人々にとって、ミニスカートはそれまでの女性像とは異なる若々しさや行動力、解放感を具現化するものと位置づけられ、ウーマンリブの象徴と化していく。クワント自身も、デザイナーとしても経営者としても第一線で働きつつ、結婚して家庭との両立を図るという、新しい女性像の先駆けとして時代を先導していく。それはもちろん簡単なことでは無かっただろうが、それでも精力的に仕事をこなし、またファッションを通して人生を楽しもうと提案するクワントの姿勢に、女性たちは勇気づけられ、またロールモデルと目していた。「ウーマンリブを待っている暇はなかった」とクワントは後に語っているが、これはウーマンリブ運動が起こる以前から、女性として型にはめられることを嫌い、その自由な発想をデザインに盛り込んできた彼女の正直な心象であろう。

このように、ミニスカートは単なるスカート丈の短い衣服と言うだけではなく、戦後における女性の生き方の多様化、そしてそれが延いては現代社会のフェミニズムやジェンダーレスの流れに繋がっていくという観点からも、看過できない役割を果たしてきたのである。

「ミニスカートとマリー・クワント、その社会的意義」その1はこちら

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学芸員 岡田由里

COLUMN 3

「『マリー・クワント展』の知られざるマネキンのエピソード」

現在弊館にて開催中のマリー・クワント展はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)で開催された展覧会の世界巡回展である。それゆえ、展示作品である衣服や小物だけでなく、衣服を着せ付けたマネキンも全てV&Aより来日している。そのマネキンがなかなか面白い、と注目を集めている。

本展で使用されているマネキンは、大きく3種類に分類される。それらは①もともとV&Aが保有していたもの、②本展のために手配されたもの、そして③本展のために特別に製作されたもの、である。ところで、辞書によるとマネキンは「流行服などを着せて店に並べる等身大の人形。マネキン人形。」と定義されている。つまり頭と両腕両脚のついた人間の形を模したもの、といえる。同じく衣服を展示するためのツールとして、トルソーやボディという展示具がある。これらはどちらも人間の胴体部分のみを模して作られる。頭、腕、脚は省略され、本体となる胴体部分は棒状の土台で支えられる。ちなみに、トルソーやボディのことをイギリスではテイラーダミー(Tailors dummy)と呼んでいる。仕立屋(テイラー)が、服を実際に着る人の代わり(ダミー)に見立てて使うもの、という意味であろう。

①もともと保有していたテイラーダミー

V&Aは何体ものテイラーダミーを本展開催以前より保持していた。それらのテイラーダミーは布張りされており、縫い付けることで容易に加工することができる。そのため、着せ付ける衣服に適したボディラインを作るべく、胸パッドやペチコートが縫い付けられた。また、必要に応じて腕に相当する部品が支持体として追加された。すなわち、これらのテイラーダミーは既製品を使用してはいるが、本展のためにセミオーダーメイド仕様にバージョンアップされている。

© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London

②本展のために手配されたマネキン

V&Aでは本展開催にあたり、グラスファイバー製のマネキンを新たに入手している。脚の形状より、素足でつま先立ちしているものと、まるでヒールの靴をはいているかのようなもの、の二種類に分類できる。腕の体勢としては、手を後ろで組んだり、前で組んだり、両腕を軽く曲げて手を腰にあてたり、片腕だけ下ろしたり、といくつものポーズが混在している。これらのマネキンにもパッドなどで各衣服に上手く適合するよう調整がされている。しかし全体に統一感を持たせるため、頭部の形状は全て同一の一種類のみにとどめられている。

© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London

また、クワントの初期の作品《パーティドレス》(1958-59年)のために、ブティック「バザー」キングスロード店での様子を参照し、あたかも1950年代後半当時の店舗に置いてあったかのようなポーズのマネキンを別注している。掲載画像では分かりにくいが、他のマネキンと比較すると腰にかなりのひねりが加えられている。

© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London

③本展のために特別に製作されたもの

本展のためにオーダーメイドされたマネキンは5点ある。全てマリークワント社の広告用に撮影された写真に基づき、依頼制作されている。またこれらのマネキンの制作過程では、作品保護のためにわざわざ衣服のレプリカが作成され、使用された。

© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London

最後に、マネキンの頭部についても補足しておく。全てのマネキンの頭部は一種類のみ、と前述したが、テイラーダミーの頭部については別である。本展ではいくつかのテイラーダミーにも例外的に頭部が付け加えられている。コーディネート上、帽子と組み合わせることになったケースでは、頭部が不可欠だからである。そしてこれらのテイラーダミーの顔はどれものっぺら坊で、グラスファイバー・マネキンのそれとは明らかに別様である。更に、グラスファイバー・マネキンの顔は確かに全て同じ仕様なのだが、その頭部を覆っているウィッグについてはまた別の話である。実はクワントやツイッギーのヘアスタイルを参考に、5種類のウィッグが考案され、全て手作業で制作された。どのウィッグをどのマネキン(衣服)に適用するかは、キュレイターたちによって細かく検証の上、逐一指定されている。

© Victoria and Albert Museum, London
© Victoria and Albert Museum, London

ここまで本展で使用のマネキンについて言及してきたが、単なる展示用のツールとして片付けてしまうには忍びないほどの、多大な労力が注入されていることをお分かりいただけたであろうか。たかがマネキン、どころか、これらのマネキンやテイラーダミーなくして、本展は成立しないのである。

Bunkamura ザ・ミュージアム
学芸員 岡田由里