印象派への旅 海運王の夢 バレル・コレクション

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2019.05.28 UP

【レポート】千足伸行氏による記念講演会

2019年5月16日(木)、展覧会『印象派への旅 海運王の夢 バレル・コレクション』の開催を記念して、美術史家・千足伸行先生の講演会「印象派の世紀:フランスとその周辺」が開催されました。その内容をダイジェストでご紹介いたします。

 


 

 

ヨーロッパの近代絵画とバレル・コレクション

 

本展のタイトルは『印象派への旅』。印象派ではなく、その周辺で活動した芸術家たちの作品に重点を置いている展覧会です。

「印象派の絵画は世界的な人気がありますが、もちろんヨーロッパの近代絵画は印象派だけではありません。本展は、印象派の他にも面白い画家たちがいるんですよ、ということを広く皆さんに知っていただく展覧会です」

 

 

この素晴らしいコレクションを築いたのは、19世紀後半から20世紀前半にかけてスコットランドのグラスゴーで活躍した海運王、ウィリアム・バレルという人物でした。彼のコレクションの形成には、バレルが生まれ育ったグラスゴーの土地柄が大きく関わっていました。

 

「グラスゴーは産業革命をけん引した、イギリス随一の海港都市。とても活気のある新興都市で、そこには事業に成功し巨万の富を築いた“ニューリッチ”と言われる人々がたくさんいました。彼らは自ら稼いだお金を様々なものにつぎ込みましたが、そのなかには、バレルのように美術品の収集にお金を使う人もいたのです。こうした新興の美術コレクターが好んで購入したのが、リアリズム以降のわかりやすい近代絵画でした」

 

名もなき人々を描く、リアリズム絵画

 

「リアリズム」とは、日本語では「写実主義」と訳されます。

 

「“写実”ですから、“リアリズム絵画”とは、基本的には見た通りのことを客観的に描いた作品をいいます。しかし、どこを切り取るかが問題でした。フランス革命以降、絶対王政のような古い体制は過去のものとなっていましたから、年代もののワインを飲み、キャビアを食べているような貴族の生活を描いても意味はない。それよりも多くの人が共感できる、農民や労働者、洗濯女など名もなき人々が、新しい民衆の時代の象徴として描かれたのです」

 

そうした特徴を、本展でわかりやすく観ることできるのが、オランダの画家たちの作品です。

 

「たとえば19世紀にハーグで活躍した、ハーグ派の画家たち。彼らはリアリズムの一派で、素朴な民衆の生活をよく描きました。田舎の質素な食事の風景を描いたヨハネス・ボスボームの《食卓の家族》は、まさにそういった作品の典型ですし、《荷馬車による薪運び》も、村の人々の日常の仕事を描いています。この絵を描いたアントン・モーヴは、ゴッホに絵の手ほどきをした人ですね。またハーグ派の画家には、ヤーコプ、ウィレム、マテイスのハーグ三兄弟と呼ばれるマリス家の兄弟がいるのですが、その中でもマテイスは、ほのぼのとした情緒的な作品を描くことに定評がありました。本展では自然と親しむ子供を描いた《蝶》という作品を観ることができます」

 

また川で洗濯する女性を描いた作品はウジェーヌ・ブーダンの《トゥーク川土手の洗濯女》などがあります。この「洗濯女」というモチーフは、後にゴッホの有名な《跳ね橋》や、ゴーギャンの《アルルの洗濯女》などで描いています。

 

オペラからインストゥルメンタルへ、正装からジーンズへ

 

このような絵画の傾向は、音楽や服装にたとえるととてもわかりやすくなります。

 

「たとえばルネサンスやバロックなどの古典絵画は、ギリシャ神話や聖書の内容を知らないと理解できない作品がありますが、リアリズム以降の絵画は、そういった教養がなくても何を描いているのかわかります。音楽にたとえるなら、前者は物語の筋書や歌詞を知らないと楽しむことが難しい壮大な“オペラ”、後者は、歌詞がなく短くて耳に心地よい“インストゥルメンタル”と言えるでしょう」

 

また服装では、物語の構図を練り上げ、完璧に仕上げられた古典絵画はフォーマルな正装、一般の民衆の姿をラフなタッチで描いたリアリズムや印象派の作品は普段着の絵ということもできます。

 

「当初、印象派の作品がなぜあれだけ叩かれたかというと、彼らの素早い筆致が手抜きをしているように思われたからです。きちんと仕上げていない作品を公衆の前に発表することは、結婚式やお葬式にジーンズを履いた人が現れたような違和感があり、それが保守的な画家や評論家をカンカンに怒らせたのでした」


印象派を準備したブーダン

 

その印象派を準備した重要な画家がウジェーヌ・ブーダンです。ノルマンディの海岸風景をよく描いた彼は、若きモネに戸外制作の楽しさを教えた画家としても知られています。

 

 


「モネはブーダンから、水や空、雲の描き方を教わりました。クールベは、空を描かせたらブーダンの右に出る者はいないと言ったそうですが、《トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー》も、空や雲の描写が見事です。しかしその下のナポレオン三世のお后ウジェニーなどは顔もわかりません。おそらく傘をさしかけられている女性と思われますが、ブーダンにとって個人を描き分けることは大した問題ではなかったのですね。それよりセレブ御用達だった避暑地の開放的な雰囲気をどう伝えるかが大切だったのです」

 

実は考え抜かれた構図を持つ、ドガの《リハーサル》
 

本展の最大の見どころであるドガの《リハーサル》は、その不思議な構図に注目が集まる作品です。

「《リハーサル》は、まさに印象派まっただ中の絵。バレエの稽古場の様子をスナップショットのように切り取っていますが、画中の人々が絵の中のポーズをずっととっているわけではありませんから、やはりドガが構図を綿密に考えて再構成した作品ということができるでしょう。そうしたなかで興味深いのは、画面中央に大きな空間が空いていること。通常、画面中央は一番大切なことが描かれる部分ですから、本作は、絵画の伝統を意識的に崩した作品と言えるのです」

 

 

 

ちなみにここに描かれているバレリーナの卵たちは、皆貧しい家の子どもたちでした。彼女たちは、オペラ座を年間予約している紳士たちの愛人になることもしばしばでした。

 

ル・シダネルの詩情、セザンヌの近代

 

20世紀初頭、後期印象派や象徴派といった特定の画派に属さず、詩情あふれる独自のスタイルを確立したル・シダネルも興味深い画家のひとりです。

 


 

「ル・シダネルの作品は、《雪》と《月明かりの入り江》が出品されています。人のいない静まり返った中庭や街の一画などを好んで描いたル・シダネルの作品は、内省的で心象風景ともとれることから、彼やその作品を“魂の画家”とか“魂の風景”と言う人もいます。絵と鑑賞者との間で、静かな対話が生まれてくるような作品です」

 

一方、モチーフにいっさいの意味を持たせず、色と形の組み合わせでどう描くかを模索したのがセザンヌです。

 


 

「本展では《エトワール山稜とピロン・デュ・ロワ峰》という、セザンヌの故郷エクス=アン=プロヴァンスの風景を描いた作品が展示されています。ここでセザンヌは、作品を説明する文学的な要素をいっさい排除し、彼が感じた自然を、色の調和とか、全体のバランス、リズム感などで表わしています。先ほど私は、リアリズム以降のヨーロッパの近代絵画は、歌詞のないインストゥルメンタルと言いましたが、そういう意味では、セザンヌの絵が最も近代化された作品といえるでしょう」

(取材・構成/木谷節子)