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ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア | Bunkamuraザ・ミュージアム | 2013/3/9(土)-4/21(日)

学芸員によるエッセイ

「超人」ルーベンス 
その華麗なる人生と芸術

 アントワープの中心部、メアーと呼ばれる目抜き通りから一本脇道に入ったところに建つ「ルーベンス・ハウス」。現在、市立美術館として公開され、観光客で賑わうこの邸宅は、画家ルーベンス(1577−1640)が1616年頃から亡くなる1640年まで住み続け、大規模な工房を経営し、数多くの名作を生み出した場所である。ルーベンスの工房には、ヨーロッパ中の宮廷から注文が殺到していたのみならず、当時この邸宅は、ルーベンスがイタリアで収集した古代彫刻をはじめとする質の高い美術コレクションによっても広く知られ、多くの王侯貴族や知識人を魅了していた。イタリア・ルネサンス風のパラッツォをイメージして、ルーベンス自身がデザインを手がけたこの邸宅を訪ねたある医師は、制作中にもかかわらず、古典の朗読を聞き、同時に手紙を口述し、さらには訪問客の質問にも的確に答えたというこの画家のかなりの「超人」ぶりを、驚きをもって伝えている。
 画家としての才能はもちろんのこと、古典的な教養と温厚で社交的な性格を兼ね備え、誰からも愛され、深い信頼を得て活躍したルーベンス。では早速、彼の「模範的」ともいえる、順風満帆な人生を紐解いてみよう。

芸術の都イタリア

 1598年にアントワープで親方画家として登録されたルーベンスは、その2年後、古典美術の宝庫イタリアへと旅立った。当時フランドルの画家は一人前の画家として見識を広げるために、イタリアで修練を積むのが常であったが、ルーベンスはマントヴァ公の宮廷画家の地位を得て、なんとこの地に8年にもわたり滞在することになる。
 ルーベンスはローマを初めとするイタリアの諸都市を訪れ、古代およびルネサンス美術の作品を見て回り、それらを模写した素描や絵画を数多く残している。こうした視覚的源泉は、後にアントワープで手がける古典的主題の傑作《ロムルスとレムスの発見》などの作品において見事に結実している。さらにはヴェネチア派の巨匠ティツィアーノの豊麗な色彩表現にも大いに刺激を受けた。後年ルーベンスは、ロンドンを訪問した際に目にしたティツィアーノの婦人像を模写した作品、《毛皮をまとった婦人像》を描き、このイタリアの巨匠への変わらぬ敬愛を示している。

華麗なるアントワープ工房

 1608年、母の危篤の知らせを受けてアントワープに戻ったルーベンスは、当初はイタリアに再び戻る予定だったものの、アルブレヒト大公の宮廷画家に迎えられたことや、イサベラ・ブラントとの結婚などいくつかの要因が重なり、最終的には故郷に腰を据えることを決意し、大きな邸宅と工房を構えた。当時アントワープは、八十年戦争で大きな痛手を受けていたが、ルーベンスの帰国の直後、折しもスペインとオランダの間で12年間の休戦条約が結ばれ、都市の経済もようやく息を吹き返した。対抗宗教改革の旗手となったイエズス会の教会が各地で着工され始めると、ルーベンスのもとに祭壇画の制作依頼が殺到した。雄弁さと大いなる説得力を持って、生き生きと主題を物語る才に秀でたルーベンスは、観る者の心を否応なしに揺さぶる宗教画を次々と生み出し、美術を通じた民衆教化に力を注ぐイエズス会主導のカトリックの復権に大きな役割を担ったのである。
 ルーベンスは、この大規模な工房において、生涯に2000点とも3000点ともいわれる夥しい数の作品を生み出した。作品はその制作過程に応じて、いくつかに分類することができる。まずは油彩スケッチを含むルーベンスの自筆作品で、《復活のキリスト》に見られる観る者を圧倒する力強いキリスト像は、まさにルーベンスの真骨頂といえる。その他ルーベンスの構想に基づいて工房の画家たちが制作した作品、工房の画家が制作を担当し、最後にルーベンスが筆を加えて仕上げた作品、さらには《聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ》の作品のように、人気作品であったことから工房で何点も制作されていたレプリカ作品までその制作過程は幅広い。バロックの芸術理論では、あくまで画家の「構想」が重要視されており、修練を積んだ工房の画家たちはまさにルーベンスの「見えざる手」として忠実に彼の様式を実践した。若き日を過ごしたイタリアで、画家の構想を重視する制作の姿勢を体得していたルーベンスは、その理念のもとに、かなり効率よく量産体制で大量の注文をこなしていったのである。
一方、ルーベンス工房で助手として技を磨き、後に独立した画家として自らの個性を発揮していく画家も少なくなかった。なかでも後にイギリスの宮廷画家として活躍するヴァン・ダイクは傑出した存在であった。

専門画家との技の競演

 さてフランドル美術では、17世紀になると絵画のジャンル化が進み、各分野の専門画家たちが登場する。こうした絵画がジャンル化されていく背景にも、歴史画におけるルーベンスの精力的な活動がある。一芸に長じた画家たちは、ルーベンスとわたりあうよりも、得意分野の専門画家として活躍する道を選び、ルーベンスとの共同制作を行ったのである。とりわけ静物画や動物画を得意としたフランス・スネイデルスは、卓越した描写の技でルーベンスの良き共同制作者となった。ルーベンスが最晩年にスペインのフェリペ4世の依頼でその王宮のためにスネイデルスと共作した狩猟をテーマとした連作中の1点《熊狩り》では、2人の画家の手になる人と熊との迫力溢れる戦いの場面において、それぞれの個性溢れる描写を堪能することができる。

複製版画の制作

 さらにまた、画家ルーベンスの構図をはるか彼方まで広く知らしめ、世界的な名声の確立に大きく貢献した、彼の絵画に基づく複製版画の存在も忘れてはならないだろう。自身の構想を正しく伝えるため、ルーベンスは自らの監督のもとで、複製版画の制作に乗り出したのである。その制作過程は、通常、工房の助手がルーベンスの油彩画に基づき版画の下絵となる素描を制作し、その素描はルーベンスの厳しいチェックを経て版画家により版刻された後、試し刷りの段階でも、ルーベンスが必要に応じて訂正の指示を出すという徹底したものだった。こうしていくつもの工程を経てできあがった複製版画は極めて高い質を誇っている。アントワープ大聖堂にある有名な三連祭壇画の中央場面をフォルステルマンがルーベンスの監督下で制作した《キリスト降架》では、ルーベンスの傑作が白黒の版画に見事に再現されている。その鮮烈な色彩によっても、後世の画家に強い影響を与えたルーベンスであるが、こうした版画作品からは、この画家の線描の確かさと構成力の素晴らしさもまた、改めて実感せずにはいられないのである。

平和と家族への思い

 1621年にアルブレヒト大公が亡くなった後、ルーベンスはイサベラ大公妃に仕え、秘密裏の政治交渉を行う外交特使の任を命じられ、画家としての名声と特権を生かして各国の王室を飛び回り、和平交渉に臨んだ。愛妻を亡くした1626年以降はその悲しみを紛らわせるかのように、さらに外交にエネルギーを注ぎ、スペインとイギリスの和議の成立に貢献したのである。この外交活動によりルーベンスの名声はいっそうヨーロッパ中に鳴り響くことになった。1630年、再びアントワープに戻り、制作に没頭するようになったルーベンスは、エレーヌ・フールマンと再婚し、公的な注文をこなしながらも、穏やかな晩年を送った。二度の結婚を通じて8人の子供をもうけたルーベンスは、家族の肖像を数多く残すなど、非常に家族思いの人物でもあった。とりわけ子供への愛情深い眼差しは幼子イエスや天使の愛らしい姿にも垣間みることができる。

 17世紀に最も影響力を持った画家として不動の地位を築いたルーベンス。本展は様々な観点から、彼の多彩な芸術活動に迫る試みである。実際、ルーベンス工房の華々しい活動によって多くの若者たちの才能が磨き上げられ、結果としてアントワープでは豊かな芸術活動が営まれた。豊麗な色彩で彩られた力強いドラマティックな表現と溢れるばかりの生命への讃歌—本展はこうした、まさにバロックの神髄といえるルーベンス芸術の魅力を心ゆくまで堪能するまたとない機会となるだろう。加えて、「超人」ルーベンスと共生しながら、専門分野で高い技量と個性を発揮した画家たちの見事な「名脇役ぶり」も、本展の見逃せない魅力のひとつなのである。

Bunkamuraザ・ミュージアム 学芸員 廣川暁生