フィロゾフのエスポワール ~伊勢海老と帆立貝のメダイヨン~

「のん、社会科見学のしおり忘れてる! お弁当ちゃんと入れた?」
 持った持ったーと軽い返事に眉をひそめつつ、小走りに出ていく娘の背を見送り、片手でエプロンの紐をほどきながら、まだのろのろと目玉焼きをフォークでつついている篤司を急き立てる。乃愛は六年、篤司は二年。小学生の重ねる一年の違いは大きい。自分で支度を整える乃愛に比べ、篤司は朝食を終えてもカレンダーの読み方プリントをのんびり解いていた。追い立てるようにして、ようやく送り出した頃には、時計代わりにつけっぱなしのテレビが天気予報を告げだして、慌てて足を速めた。
 いつもより遅くなってしまったのは、お弁当作りに、予想以上に手間取ってしまったからだ。日頃給食に助けられている身では、慣れないお弁当作りが手際よくいくわけもなく、レシピの調理時間を参考に取り組んだものの、だいぶもたついてしまった。
 冷凍食品でも詰めとけば、という夫の廉太郎の言葉になぜかカチンときて、全部手作りにしてやると我を張ったのもいけなかった。素直にそうしていれば、洗い終わった洗濯物を干すのを諦めずに済んだかもしれない。後ろ髪を引かれるが、もう出なくては、とても間に合わない。
 自己ベストを塗り替えるほどの速さで化粧を済ませ、車に乗り込む。渋滞にさえ巻き込まれなければ、なんとか就業時間前に駆け込めるはず。
 エンジンをかけた瞬間に、スマホが鳴った。
 実家からだ。こんな時間にかかってくるのは珍しく、なにかあったかと背筋が冷えた。
《もしもし、桧和? ひーちゃん?》
 母の声は沈んでいた。私はデジタル時計を睨みながら、何分だったら話せるか、逆算する。
「ごめんお母さん、今出勤前なの。三分くらいなら大丈夫」
《ああ、忙しい時間にごめんなさいね。桧和、近々、帰って来られる?》
「なにかあった?」
《お父さんがね……》
 父はこの頃、物忘れがひどいのだという。昨日などは、妹の仁奈と隣町でばったり会ったのに、誰だかわからなかったそうだ。病院に連れて行こうとして、大喧嘩になったという。
 もう七分が経過していた。スケジュールを睨み、すでに埋まっている予定から、調整できそうなのをピックアップする。
「わかった、来週末なら行ける。その時に詳しく聞くね。じゃあまた」
 せわしく電話を切って、ハンドルを握る手に力を入れ、アクセルを踏み込んだ。

 父は、退職して数年になる。
 長年勤めあげた会社を退いてからは、趣味もなく、ボランティアや町内会の活動などに精を出すこともなく、会社員時代の同僚らとたまに会う以外は、なにもすることがないように見えた。
 以前、母に乞われて実家に帰った時も、朝からテレビをずっとつけたまま、新聞を隅から隅まで読むばかりで、どう扱ってよいか母も悩んでいた。体調や好みも変わるのか、手土産の天ぷら弁当もあれほど好きだったのに、油分が多いとあまり食べなかった。退職したら旅をしよう、あれをしよう、ここに行こう、なんて母とも相談していたのに、行動力も好奇心もすっかりしぼんでしまったらしい。いざ誘うと、俺はいいって断られるのよ、と母はいつも愚痴をこぼしていた。
 会社員時代の口癖は、ひとに求められるひとになりなさい、だった。
 その言葉どおり、なにごとにおいても仕事最優先だったからか、ふつりとそれが消えた父は、脆かった。
「お父さん、なにか新しいことでもはじめてみたら?」
 食後すぐにテレビに向かう背に話しかけても、聞いているのかいないのか、返事すらしなかった。
 仕事に人生を傾けていれば、なすべき仕事やこなすべきタスクはいつだって山のようにあるから、それが消えてしまえばどうしたらよいのかわからなくなるのかもしれない。
 私も似たようなものだから、父の気持ちも、わからなくはないのだ。
 出産で一時離職した非正規雇用者にとって、契約更新は死活問題。定められた業務以外にも、きちんと更新や再契約をしてもらうためにと、寸暇を惜しんで努力を重ねている。
 家の中で育児と家事を両立させるだけでもなかなかの苦労なのに、子どもの学校のPTAや、習い事のお当番、子供会の役員など、なすべき役割は多々あって、できるかぎり多くのことをこなすには、隙間時間をいかに活用できるかが肝だ。
 隙を見つけては用事を詰め込むから、一日が過ぎるのは瞬く間。だけど、真っ黒になるほど書き込まれたスケジュールは、求められた居場所があるということでもあって、自分のことにまで気持ちも時間も回せなくても、私の人生が充実している証に違いなかった。

 二週間ほどして実家へ行くと、父はでろでろに溶けたアイスクリームみたいな顔で孫たちを迎え、ふたりを連れて、お菓子を買いに出かけた。
「お父さん、元気そうに見えるけど」
「そうなんだけどね。時々散歩に出かけるんだけど、どこに行ってたのか聞いても、いつもラーメン屋としか答えないの。五星軒なんて、歩いて十分もあれば着くでしょう? なのにだんだん帰りが遅くなってきて、何時間も帰ってこないこともあるし、買い物ついでにのぞいても、ラーメン屋さんにいないことも多いのよ。そう聞いても、覚えてないって言うの」
「なにか刺激があったらいいのにね。ほら、よく公園でお年寄りが集まってるじゃない? グラウンド・ゴルフだっけ?」
「最初に、仲間に入れてもらうのが、億劫みたい」
「公民館に住民サロンみたいなのあるよね。よく地域のお年寄りが話したりしてる」
「あそこのひとたちは病気自慢が多くて。お父さん、健康だから、悔しいらしくて。負けず嫌いだからねぇ」
 なんだかあべこべな話だが、共通の話題が見つからないと楽しくないのかもしれない。
「この間、仁奈と会った時もね、隣町の学習センターの前をうろうろしていたらしいの。仁奈が話しかけたら、最初は誰かわからなかったみたいだって。話してるうちにわかったらしいけど、どうしてそこにいるのかも答えられなくて、仁奈が車でうちまで送ってきたの。そのうち迷子になるんじゃないかと、心配で」
「でも病院は、行きたがらないんだね」
「そう。俺には必要ないの一点張りで。どうしたものかしらねぇ」
 玄関から父たちの声がして、私と母は声を潜めた。
 乃愛と篤司は、ここぞとばかりに普段は買わないようなお菓子をねだったらしく、ほくほく顔で帰ってきた。
「そうだ、じいじ、いいもの見せてあげる」
 乃愛はリュックから、社会科見学の写真を取り出して、茶卓に並べた。
「のん、足袋穿いたんだよ。お舞台にも上がったの」
 この間の社会科見学で、能楽堂に行った時のものだ。乃愛はじゃんけんを勝ち抜いて舞台での体験に参加できたらしく、得意満面で、父にお能の立ち方や構え、摺り足をやってみせる。父は目を細めてそれを見ていた。
「のんちゃんはすごいなぁ。じいじはこんな立派なお舞台に上がったことはないよ」
「上がれるよ、じいじも。今度のんと行こうね」
 そうかそうかと高い声を出してでれでれしている父は、いつもどおりの孫に甘いおじいさんに見えるのに、父の中で、目に見えないどんな変化が起こっているのか、不安になる。篤司の水族館見学の写真では、大水槽を泳ぐ魚の群れに、うまそうだなとコメントをして非難を浴びていたけれども、こんな他愛のない時間が、ずっと続くわけではないと思うと、心の内を木枯らしが吹き抜けるようだった。
 就職を機に家を出たのはもう二十年近くも前のことなのに、二階にある私の部屋には、昔の勉強机や本棚がそのまま残っている。本棚には、宝箱も残っていた。
 父の出張土産を収めた宝箱には、お土産のセンスがすこぶる悪い父が買ってきてくれた、やや不気味なうさぎのキャラクターが描かれたキーホルダーや、帆立貝に小さな貝をいくつもくっつけた謎の人形のようなもの、草鞋形の鉛筆削りなど、使えないけれども捨てられないものばかりが、溜められていた。目を合わせずにお礼を言い、妹と顔を見合わせたものだ。
 とはいえ、父が私たちのためにと、それなりに悩んで手に取ってくれたとわかるから、私たちも乱雑には扱えず、こうして名前ばかりの宝箱に収めてきたのだった。
 こういうことも消えていくのだろうか。
 いや、もしかしたらもう、覚えていないかもしれない。

 その翌週のことだった。
「じいじから、電話があったんだよ」
 土曜日の昼過ぎ、買い物から戻ると、篤司が得意げにメモを見せてきた。
 にがつにじゅうはちにち。
 たどたどしい平仮名で書かれたメモはかわいらしくて、頬がゆるむ。
「じいじね、二月の最後の日に、ママにどこか連れてってほしいんだって」
「ありがと。電話してみるね」
 父に連絡すると、二月末日に隣県の日本庭園に行きたいのだという。母から車の運転を禁止され、車の鍵と免許証を取り上げられたらしく、しきりにぼやいていた。
「大丈夫、その日は空いてるから」
 本当は乃愛の体操教室があるのだが、廉太郎はきっと送迎を交替して、父に付いていけるようにしてくれるだろう。父がなにかに興味を向けたことがうれしかった。
 母にこっそり連絡をいれると、母は父が出かけたがっているのは知っていたけれど、その理由や場所まではわからなかったらしい。このところラーメン屋さんへ外出することが増えたそうだ。一緒について行くと言うとすごい剣幕で断られるし、前よりも長い時間帰ってこないことも多い。いざという時のために、防災無線での迷子捜索の呼びかけ方法を調べているという。
 記憶は、簡単に、埋もれてしまう。
 日々の暮らしが忙しければ記憶に留めることができないし、父のようにゆるやかでも、どこかへ入り込んだまま引きずり出されずに、風化して消えてしまうのかもしれない。
 そうやって隙間がどんどん広がり、無くなっていくのは、怖かった。

 二十八日、実家に立ち寄り父を車に乗せ、日本庭園に向かった。
 助手席に父を乗せるなんて、運転免許を取ったばかりの頃、練習に付き合ってもらったとき以来で、緊張した。父も覚えているのかいないのか、助手席でじっと縮こまっている。話題にしようか迷ったけれど、覚えていないと言われた際の悲しさを取り繕う自信がなくて、口にできなかった。隙間時間で認知症のひとへの対応を学んだものの、付け焼き刃の対応がどれほど役立つのかは、わからない。
 敷地は広く、起伏に富んだ地形に作られた日本庭園にはいくつもの池があった。池と池を結ぶ遊歩道には、鮮やかな紅梅や、清楚な白梅が咲き、そばを通ると、ほんのり甘い香りがする。梅見客も多く、父の目当てもこれかと思ったが、父は梅には目もくれず、ずんずんと奥へ歩いていく。冬木立の続く庭園の先に、冴えた緑がのぞくと、父の歩みが速くなった。やがて松林に囲まれた奥の池が見えてきた。
 奥の池は半月形で、その直線部分に木造の建物がある。
 父は池の対岸の、開けた芝生広場に足を向けた。広場には、甘酒やぜんざいを売る昔ながらの茶屋の他に、水色と生成色の縞模様の小さなサーカステントがいくつも立ち並んでいた。
 池のほとりに仁王立ちする父に並ぶと、水面に浮かぶように、舞台が見えた。
 舞台正面の奥の壁には、青々と葉を茂らせる雄壮な松が描かれていた。板張りの渡り廊下と、四本の柱に支えられた立派な屋根がついたその場所は、乃愛の写真で見た場所によく似ていた。
「ここ、もしかして、能楽堂?」
 父は焦ったようにあたりを見回し、ポケットからなにかを取り出した。
「どうして誰もいないんだ」
 父の手元を覗き込むと、紙片に大きく書かれた文字が目に入った。チケットのようだった。
「……温習会?」
「出るわけじゃないぞ。まだ観るだけだ」
「まだ、って、お父さんもしかして」
「なにか新しいことをはじめろって言ったのは、桧和だろう。母さんには言うなよ」
 眉間に皺を寄せた父の頬は、赤くなっているみたいに見えた。
「でもお父さん、これ、日付が明日」
「なに?」
 父は慌てて紙片を顔に近づける。日付は、二月二十九日になっていた。
「ごめんなさい、私のせいだ。篤司のメモに気を取られて、ちゃんと確認しなかった。お父さん何度も二月末日って言ってたのに」
 篤司はカレンダーの学習で、月ごとの日数を覚えるのにだいぶ苦労していたから、ようやく覚えた二月から、四年に一度の二十九日がこぼれてしまったのかもしれない。あるいは、忘れっぽくなってしまった父が、二月末日を二十八と言った可能性だってある。どのみち、温習会は、今日は行われない。
 父は、落胆ぶりを必死に隠そうとして、泣いているような、怒っているような顔になった。
「いや、やむを得ん。誤解を生む言い方をしたのは俺だ。甘酒でも飲んで帰るか」
 父は重たげな足取りで、歩き出した。昔は見上げていた背中が、小さく見えた。

 いつの間にか広場には、イルミネーションがともっていた。広場を囲む木々や、小さなサーカステントの入口を、光の粒が飾っている。水色と生成色のしましまのテントは、絵本から飛び出してきたみたいで、かわいらしい。
 甘酒茶屋はすでに店仕舞いをはじめていて、父は顔をしかめながら、テントのそばに立つ黒板に近寄った。
「おい、横文字で甘酒はなんて言うんだ?」
「ここ、フランス料理みたいだよ? 甘酒はないんじゃない?」
 ビストロつくしという、期間限定のビストロらしい。見渡してみると、隅の方に黒塗りのキッチンカーが停まり、中でシェフらしき白い調理服の男のひとが、踊ってるみたいに楽しげに料理しているのが見えた。
「……食べていくか?」
「いいよ、大丈夫」
「口止め料だ。母さんには言うなよ」
「お父さん、食べられるの?」
「なにを言う、フランス料理のテーブルマナーくらい、俺だってわかる」
「そうじゃなくて、フレンチって油分が多いんじゃない?」
「ラーメンとそう変わらんだろ」
 どうなんだろうか。止める間もなく、父はテントから出てきた黒服のギャルソンに、声をかけた。
「おふたりさまですか?」
 ギャルソンはあたりを見回し、キッチンカーの方を見た。
「奥のテントが空いております。すぐにご案内できますよ」
 私たちは、キッチンカーの近くにある、一番奥のテントに案内された。
 先に中をのぞいた父が、たじろいだ。パイプ椅子と屋外用の簡易テーブルなどの簡素なものを想像していたのに、肩越しにのぞくと、イルミネーションに飾られた入口の向こうには、きらびやかなシャンデリアが輝いていた。
 室内のあちこちに吊られた大小のランタンが、うっとりするような数々のアンティーク家具を照らし出す。そのひとつには漆塗りの工芸品も飾られ、足下の絨毯には金糸銀糸の花鳥模様が施されて、青い炎のゆれるストーブも、赤いヴェルヴェットのソファも、庭園の中とは思えない、まるで別世界のようだった。
「夢でも見てるようだな。そういやさっきの給仕係、猫のような顔つきだったな。化け猫じゃないだろうな」
 父は、テントの入口から、さきほどのギャルソンを盗み見る。ちょうど池を挟んで、能舞台に描かれた松が見えた。
「化かされたってわかるなら、お料理食べた後がいいな」
「違いない」
 父は笑ってメニューとワインリストをめくっていたけれども、全部まとめて、私に突き出してきた。
「桧和の好きなもんを頼め」
「え、お父さんの食べられるのにしようよ」
「桧和はそうやっていつも、自分を後回しにするだろ?」
 言葉に詰まった。
「自分の好きなものをきちんと選んだ方がいい、見失わないように」
「そんなことないよ、大丈夫。好きにやってるよ」
「俺もそうだった。仕事でも家庭でも、まわりを優先してがんばってるんだろ。まあ、現役時代はそういうものだからな。仕事でもいろんな役割の面をつけて、しゃかりきにやってきたが、いざその面を外したら、自分本来の顔がわからなくなってた。俺と言えるものが、なにも残ってなかったんだ」
 自分本来の顔なんて、あるだろうか。仕事はもちろん、母や妻、娘の顔の他、廉太郎の奥さん、のんママ、あっくんママなど自分の名前すらいらない顔まで、面をつけかえるように役割を果たすばかりで、素のままの自分の顔など、置き去りにしたままだ。
「たまにはちゃんと、自分の好きなものに手を伸ばしとけ」
 そんな風に気遣ってくれるのがありがたいものの、照れ臭くて、顔を隠すようにメニュー表を立てた。
「じゃあ、この、スペシャリテっていうのが気になる」
 父はギャルソンを呼び止めて、どんなお料理なのかたずねた。
「スペシャリテは、お客さまのためだけに、当店のシェフが腕によりをかけてお作りするお料理です。本日のスペシャリテは、フィロゾフのエスポワールでございます」
 それをふたつ、と父が注文する。
 ギャルソンはテントを出るなり、頭上に腕を伸ばして手のひらを合わせ、左右にゆれた。その姿は、風にゆれるつくしを思わせた。

 外は暗くなり、空も舞台も松林も、夕闇に溶けていた。
「旬のいちごのフルーツシャンパンをお持ちいたしました」
 フルートグラスの底に沈んだいちごは、冬枯れの庭にぽつりと咲いた椿の花みたいだ。
「こちらは、前菜の盛り合わせでございます。左上から、玉ねぎのスープ、カブのムース・蟹のタルタルのせ、ナスとポークリエットのグラティネ、ブルーチーズとくるみのポテトサラダ、ブロッコリーブレゼと金時ニンジンのラぺでございます」
 父とグラスを合わせて、フルーツシャンパンに口をつけると、いちごの甘い香りが華やかに広がった。私の分はノンアルコールのスパークリングワインだけれど、シャンパンの満足感がきちんとある。父は、うまい酒だと言って、おかわりをした。
 玉ねぎのスープからあたたかくたちのぼる湯気に、胃がきゅっと締め付けられる。丹念に炒めた玉ねぎから引き出された自然な甘さに、体がよろこぶのが最初のひとさじでわかる。なめらかなカブのムースをスプーンですくい、蟹のタルタルと一緒に口に入れると、蟹の身の繊細な甘みと爽やかな酸味、カブの大らかな甘みが、互いを引き立てた。
 ナスを器にしたグラティネにはこんがりと焼き色がつき、切り分けるとチーズが伸びた。
口の中でほどけるポークリエットの塩加減が絶妙で、ナスのとろける食感とコクのあるチーズが加わると、これだけでワイン一本くらい空けてしまえそうだ。そこに少しブルーチーズとくるみのポテトサラダを添えて食べれば、個性と個性がぶつかり合って、また別の味の世界が広がる。素材の味を活かしたブロッコリーのブレゼと、金時ニンジンのラぺがほどよく舌を休めてくれ、次のひとくちを楽しませてくれた。
 料理に合う辛口のロゼワインを選んでもらった父も、たいそう機嫌よく食事を楽しんでいた。
「ねえ、お父さん、お能を習いはじめたの?」
「まだ入門したてだ。桧和に言われてから、何度か舞台を観に行って、稽古場にも行ってみたんだが、なかなか勇気が出なくてな。でもこの間、のんちゃんが言ってくれたろう、じいじもお舞台に上がれるよって」
 乃愛のあのひとことが、父の背を押してくれたらしい。
「昔から好きだったの?」
「まだ若かった頃、転勤した支社に、能楽研究会があってな。誘われて見学に行ったんだ。能楽師の先生が教えに来てくれていたんだが、かっこよくてなあ。先生が謡ったり舞ったりすると、空気の密度と透明度が変わったみたいで、時を忘れたよ」
 熱のこもったまなざしから、父がいかにその場を堪能したかがわかる。しかしその直後に祖父が倒れ、急な転属が決まって、習うことはできなかったそうだ。
 日々の暮らしではいろいろなタイミングが複雑にからみ合い、やりたいことに、まっすぐ手を伸ばせない時だってある。それは私も身に沁みて思うことでもあった。
「私、お能って、観たことないかも」
 歴史の授業で、観阿弥・世阿弥親子が作り上げたと習ったくらいだ。
「お能はいいぞう。『道成寺』に『葵上』、『高砂』もいいが、『清経』に『羽衣』、『土蜘蛛』も」
 そこからも「松風」「野宮」「敦盛」「井筒」「石橋」と、父の口からはいくつもの曲名が飛び出し、止まらなかった。
「狂言も楽しいしなぁ」
「ちょっと待って。もしかしてラーメン屋に行くって言って、お能を観に出かけてた?」
「まあそういうことだ」
「仁奈と隣町で会った時は」
「あそこに稽古場があるんだ。見学だけでも申し込もうか迷ってる時に見つかって、ひと違いを装ったんだが、無理だった。仁奈のやつ、母さんには黙っててくれとあれほど頼んだのに、言い付けおって。大騒ぎになった」
「なんだあ、もう! みんなすごく心配してたんだよ?」
 みんな父の物忘れを心配して、あれこれ気を回していたと告げると、父は目を丸くした。
「お、俺はまだそんなに老いぼれちゃいないぞ」
「覚えてないって言うからだよ。お母さんにもちゃんと話してあげてよ」
「だめだ。母さんに言うのは、俺があそこに立つ時だ」
 父は、びしっと能舞台を指さした。
 その時、誰もいない舞台から、笛の音が聞こえ出した。

 能楽堂の周囲には篝火が焚かれ、生き物のようにゆれる炎が、舞台を照らし出していた。
 箱を掲げたひとが、橋掛かりと呼ばれる渡り廊下のようなところを、一歩ずつゆっくりと歩いてくる。その後ろには、厳かな金色の装束に身を包んだひとや、年若いひと、黒い装束のひとが続く。
「『翁』だ」
 父の声は熱を孕んでいた。
「特別な曲なんだよ。まさかこんなところで観られるとは」
 能楽は神事から発展してきたという。
 その名残をとどめるのが「翁」で、お正月や祝賀など、特別な機会に演じられる、儀式的な演目なのだそうだ。先頭の箱には翁の面が収められていて、金色の装束を身に着けたシテ、すなわち主役が翁、若いひとは千歳、黒装束は狂言方が務める三番叟という役だという。
 翁の前に箱が置かれると、大勢の烏帽子装束に身を包んだひとたちが現れ、羽ばたくようにして袖を重ね、それぞれの座についた。松の木の描かれた鏡板の前に楽器を抱えた囃子方。舞台の右側には地謡。この、笛に小鼓、大鼓、太鼓と謡が、いわば能楽のオーケストラに当たると父が説明してくれる。松の左下に控える後見は、装束や小道具の補佐の他、主役であるシテに万一のことがあった際に直ちに代役を務める、重要な役割なのだそうだ。
 強く吹き鳴らされる笛の音と、一定のリズムを繰り返す鼓は、呼びかけのようで、心がゆり起こされていく。
 翁の謡がはじまると、その声にどうしようもなく惹きつけられた。
――とうとうたらりたらりらたらりあがりららりどう
 ひとの声とは、こんなにも広がりを持ち、ふくよかで、静かに漲るものなのだろうか。話すのとも歌うのとも違う独特の音色が、耳に心地よく、呪文のような言葉の意味はわからないのに、そのうつくしさが心に響いてくる。
 地謡が加わると、音は重厚感を増した。かけ声と鼓が夜を震わせ、笛の音がかぐわしい香のように満ち、朗々とした謡が漲って、体の芯に届く。
 力強い千歳の舞の間に、翁は舞台上で面をかけた。白い眉と髭のついた、老人の面だ。
 やがて翁が扇を手に中央に立つと、舞台の重力を一身に集めたように思われた。距離さえも超えて、翁面の柔和な面差しと、すべてを慈しむような穏やかな笑みが、あたたかく伝わってくる。
 すべての楽の音が止み、翁が世をことほぐと、舞台の背景は松ひとつきりだというのに、謡の言葉に心の内のイメージが引き出されて、実際には見えぬ鶴が舞い、亀が池を泳ぎ、瀧の水のゆたかに流れる景色が、舞台に立つ翁の姿に、重なって見えるように感じる。
 天下泰平、国土安穏を祈願する翁は、舞台に留まらず、世の中を無数の見えない糸でその場に手繰り寄せ、そのすべてを担って、重みのある一歩を、踏み出したように感じた。
 その見えない糸は、私にもつながっているようで、ぐいと舞台に惹きつけられたまま、謡や囃子の楽の音が作り出す一体感に心地よく包まれるままに、心の深いところが共震する。
 翁が世をことほぐ間、舞台端でひとりだけ、ひっそりと背を向けている黒装束のひとが気になったが、翁と千歳が立ち去ると、彼は舞台を踏み締めたり跳んだりと躍動的に舞い、黒い面をかけて、鈴を手にした黒い翁となった。
 音のためだろうか、鳴らすその動作のためだろうか、シャンと鈴が振り下ろされるたび、金色の粉のようなものがこぼれ落ちるように見えた。篝火の火の粉がたまたま重なって見えただけなのかもしれない。けれどもその光景はきれいで、いつまでも見ていたいと思った。
 舞い終えた黒い翁が面を箱にしまうと、舞台からはひとが去り、再び静かになった。
 観ていただけなのに、私の背筋が、ぴんと伸びていた。
 空気が清らかになったようで、遠くまで見通せるほど、視界が開けた気がした。
 舞台の上には、描かれた松の他にはなにもない。けれどもそこには、ひととひとの生み出す、濃密で凝縮した世界があった。
 なにもないからこそ、無限に広がる、ゆたかさが。
「うまく言葉にできないんだけど、すごく、すっきりした」
 私の拙い感想に、父は得意げに頷いた。
「お能はいいぞう。六五〇年以上前のひとたちと、同じものを観て、同じように心を動かしてるんだぞ。すごいことじゃないか。あまたの武将たち、歴代の将軍たちと同じにだぞ」
 父は我がことを誇るみたいに、小鼻をふくらませる。そのままひくひくと動かしたかと思うと、テントの入口から、ギャルソンがするりと入ってきた。

「お待たせいたしました。本日のスペシャリテ、フィロゾフのエスポワールでございます」
 差し出された器には、鮮やかな黄色の泡をまとった円筒形のなにかが、浮島のように佇んでいた。肌はところどころ紅や白がのぞき、てっぺんには金の粉がちりばめられ、まるで、あの鈴から振りだされた祝福が載っているようで、気持ちが華やぐ。
「お料理は、伊勢海老と帆立貝のメダイヨンでございます。フィロゾフのエスポワールとは、哲学者の希望とのこと。どうぞごゆっくり、お召しあがりください」
 ナイフを差し入れるのを何度も躊躇ってしまうくらい、その一皿はきれいで、そのままそっと飾っておきたいようだった。
 勇気を出して切り分けると、伊勢海老と帆立貝が、上下に重なっていた。軽やかな泡は口に入れれば儚く消えて、ほのかに薫る。ぷりぷりとした伊勢海老も、噛めばほろほろほぐれる帆立貝も、こんなに味わい深かったろうかと、目を見開かされる。合わせて食べれば、うまみと甘さの濃淡が、少しずつ奥行きを変えながら響き合った。
 こんなふうに、ひとくちの輪郭をじっくり味わうことなんて、しばらく忘れていた気がする。
「帆立貝といえば、昔お前たちに、貝細工の人形を買ってきたことがあったなあ」
「お父さん、覚えてたの?」
「もちろんだ。何度もありがとうって言われたからな。宝箱なんて作って入れておくほどよろこばれて」
 どうも記憶に食い違いがあるようだけれど、黙っておこう。思い出はうつくしい方がいい。
「お口に合いましたでしょうか」
 テントの入口から、おずおずと声がした。大きな体のシェフが、指先をもじもじと弄びながら、のぞき込んでいた。
「たいへんおいしくいただいています。それに、まさか『翁』が観られるとは思いませんでした」
 父の言葉に気をよくしたのか、シェフは口角をあげて、すぐ隣にやってきた。
「すばらしかったですねぇ。先ほどの舞台の翁は、面をかけると神さまに変身したようでしたね。伊勢海老は長寿を意味する縁起もの、帆立貝の別名は海扇と言います。その昔、年老いたひとは、世の理を知る賢人と考えられていたそうですし、能楽の表現を削ぎ落として本質に迫るさまは、哲学にも似ていると思いましてね。フィロゾフのエスポワール、哲学者の希望と名付けて、扇を手に、天下泰平と世の希望を祈り舞う、翁になぞらえました。希望は、見えるものじゃなくて、見つけるものだと思うんですよ、私はね」
 父はシェフの言葉に大いに頷いた。
「その感動を六五〇年以上も、変わらず受け継いでいるんですな。演じる側も、観る側も」
 心を動かし、残したいと強く感じたひとたちが、その思いをたすきのように継ぎながら、芸術に時を超える力を与えてきたかと思うと、胸が熱くなる。
 シェフは気をよくしたのか、頬をぷっくりと盛り上げて笑った。
「そういうすばらしい芸術に心が満ち、お腹も満ちたら、それは世界で一番おいしい料理なんじゃないかと私は思うんですよ。憂きことの多い世の中を乗り越えていける、力になるんじゃないかと。この憂き世の片隅で、あなたも私も、がんばっているではありませんか。そういう気持ちを込めて、メダイヨン、メダルの形に、したのです」
 あのうつくしい一皿は、ささやかなメダルであったのだ。
 憂き世を生きる、私たちへの。
 シェフは、照れ臭そうに体をゆする。
「だけど、あのにっこりしたおじいさん神さまに、あれほど縁起よく天下泰平を祈ってもらいましたから、きっとうまくやっていけるような気がしませんか?」
 テントの入口からひょいと顔を出したギャルソンが、小さく咳払いをした。
「失礼。オーダーを乗り越えていく力もつけていただきたいのですが」
 シェフは肩をすくめると、逃げるようにキッチンカーへ戻っていった。
「デザートをお持ちいたしました。薔薇のソースのクレームダンジュと、フランナチュールでございます。クレームダンジュの別名は、神さまのごちそうというそうです。エスプレッソとともにお楽しみください」
 白い小さなボールのようなクレームダンジュは、ふんわりとして口どけがよく、あっさりした上品なチーズケーキのようだった。透明感のある赤い薔薇のソースの香りが、体と心をゆるめてくれる。小さなタルト型に入ったフランナチュールは、黄色く円い姿が、満月のようだ。プリンのタルトだと父が言った。カスタードの飾り気のない味わいがしみじみおいしくて、エスプレッソのほろ苦さとよく合った。
 このお料理だって、おいしい、と感じたいつかどこかの誰かの手から、たすきがつながり、今私の目の前にあるのだろう。
 シンプルだからこそ、そのものの味わいがくっきりと際立つ。
 そんなふうに新鮮に感じられるのは、父に付き合ったおかげで、ぽっかりと空いた予定のおかげかもしれなかった。予定通りにはいかない、ぽっかりと空いた隙間のような時間は、いつもだったら無駄だと思ったかもしれない。ぎゅうぎゅう詰めの毎日を駆け抜けるだけでは、そこにひそむ大きな広がりとゆたかさの、特別な味わいには、気づかなかったかもしれない。
 一度きりの生で、同じものに同じように心を震わせることの、特別さにも。
 父は、にやりと笑った。
「これで今日から桧和も共犯だな。母さんには絶対言うなよ」
「いつまで言わないつもりなの」
「俺があそこに立って『高砂』を謡うまでだ」
 指さした先、能舞台の篝火は消え、もう誰もいなかった。
「早めにお願いします」
「今から練習すれば、金婚式には間に合うはずなんだ」
 父が頑なに母に秘密にしているのには、そんな理由があったらしい。
 それでは、こっそり告げ口するわけにもいかないではないか。
「困るなあ。みんなが心配しないように言い訳考えよう? お父さんがあの舞台に立つ時は、見に来るよ、お母さんを連れて、みんなで」

 テントから出ると、池の水面に満月がゆれていた。
 見上げれば、黒いキッチンカーのちょうど真上に、きれいな月が浮かんでいた。
 キッチンカーの前で、白い調理服のシェフと黒服のギャルソンが、深々と礼をしている。
 きっとうまくやっていけるような気がしませんか、と囁いたシェフの声と、翁の面のやさしく包み込むような笑みが、思い返された。
 金色がかった月は、空に浮かぶ小さなメダルのようでも、一枚のお皿のようでもあった。
 なにも載っていない、だからこそ、なんでも載せることができる、一皿。
 そのゆたかな広がりを感じて、私は大きく息を吸い込んだ。