シュヴァリエのクラージュ~地鶏のコンフィ~

 ――相手のことが知りたい。
 ――だけど、聞けない事情がある。そんな時、どうします?
 春先に参加した演劇ワークショップでのあの言葉は、今の私の状況を予言していたんじゃないだろうか。
 カレーの香りが漂うキッチンで、電話を切るなりエプロンを外しはじめた妻の背中を見つめながら、私はあの言葉を思い出していた。
 智沙はせわしくカレーを皿によそって、テーブルに着くと同時に猛烈な勢いで食べはじめた。そんなに慌てなくても、と声をかけようか迷って、結局やめた。
「ちょっと出かけるね。ウォーキングの予定だったから」
「雨降りそうだよ」
「傘あるから」
 なにもそんな時に出かけなくてもと思うのだが、智沙は、食べ終えるなりスポーツウェアに着替えて出ていった。いつもより念入りな化粧のために、コアラのようなつぶらな瞳が一回り以上大きくなっていたのを、私は見逃さなかった。
 玄関ドアが音を立てて閉まるのを確認してから、ため息と一緒に吐き出す。
「予定があったんなら、どうして、生煮えなんだよ」
 カレー皿に小山のように横たわる丸ごとじゃがいもは、真ん中が生煮えで硬かった。煮込み時間の見積もりを間違えているに違いなかった。予定があったのなら、せめて小さく切りはしないか。だいたい、リビングとの境に吊るしたカレンダーには、予定がなにも書かれていない。百歩譲って忘れていたのだとしても、いつもの智沙なら、生煮えに気づきそうなものだ。
 きっとじゃがいもを食べなかったのだ、それだけ早く、家を出るために。
 あの電話のせいに違いない。
 呼び出されたのなら、なぜそうと言わないのか。
 理由を知りたいことは他にも山ほどある。スポーツウェアやシューズを一式新調したことも、念入りな化粧も、近頃なぜか若返って見えることも。
 聞いてみたい、聞けるものならば。

 妻が素っ気なくなり、会話が事務連絡ばかりになったのは、私の失言のせいなのだ。
 半年前、私たちは長いこと続けてきた不妊治療に終止符を打ち、家族二人で過ごしていくことを決めた。二人だけの家族だって、十分にしあわせな人生を送れるはずだと、そう伝えたかったのだが、言い方がまずかった。
「二人いれば十分だ。ひとの出逢いは足し算じゃなく、掛け算だと思う。足し算よりもっと世界が広がるよ」
 智沙はにこりともせずに、呟いた。
「そうね。一+一は二だけど、一×一は一のままだよ。広がらない」
 しまった、と思ったが一度出た言葉は取り消せない。あれこれ言い繕ったが甲斐もなく、智沙はことあるごとに、広がらない、とため息をつき、あまり笑わなくなった。話すことも減り、会話は最低限の予定の確認や調整ばかりになった。
 あれほど注意を払って生きてきたつもりなのに、私はまた失言したのだと思った。
 十五年ほど前、私は一人の若者の人生を狂わせた。
 高校教諭になって数年目、はじめての進路相談だったからか、やけに力んでしまい、失言で出願直前の生徒を迷わせてしまった。学年首位常連の優秀な生徒で、本人も保護者も医学部を志望していたし、学校側も期待をかけていた。彼の心変わりは保護者だけでなく校長も巻き込む大騒動になり、結局はもともとの志望先に進学したが、夏頃には大学を辞めてしまったと聞いた。
 教師はよき役者であれ、と説教をくらったのも、あの頃だ。教員免許更新講習で演劇ワークショップに参加したのも、それを思い出したからだった。

 ――相手のことが知りたい。
 ――だけど、聞けない事情がある。そんな時、どうします?
 松葉先生、と指名されたが、言葉に詰まった。なにしろ事情を聞けたあの進路相談の時でさえ、私は失敗したのだから。講師の植芝さんは、こう続けた。
 ――なってみるんです。その人に。そうしたら、少し気持ちがわかるかもしれない。
 三十代に届くかどうかという植芝さんは、演劇はコミュニケーション能力も磨いてくれると言った。想像力を働かせ、知識と経験を総動員して、自分と重なる部分を見つけてみればいい、と教わった。
 妻に「なってみる」としたら、どうだろう。
 智沙は世話好きで、人とかかわるのが得意だ。話好きで人なつこいから、誰とでもすぐ打ち解ける。言葉の通じない幼児や犬猫にも構わず話しかけるのだが、雰囲気が伝わるのか、なつかれることが多い。
 ああ、だから、私と話さなくなった分、どこかの誰かと電話で話しているのかもしれない。電話の相手が誰だか知らないが、敬語交じりの丁寧な口調から、古くからの友人や親兄弟ではなさそうだ。長くなる時はたいてい自室に行ってしまうから話の内容はわからないが、深刻そうな時も、楽しげな笑い声を立てている時もある。
 私だったらどうだろう。深刻な話も楽しい話も共有できるのは、家族や親族、同僚以外には、よほど親密な相手しか、思い浮かばない。
 電話や外出が増えたのは、ここ二か月ほどだ。夜道を歩くだけなのに入念に化粧するのだから、誰かと会っているのは間違いない。化粧が変わったと口にしようものなら、私が変わらなさ過ぎると反撃をくらうのも目に見えている。なにせ髪型も体形も、年相応にくたびれた以外は、学生時代からそう変わらない。だからというわけでもないだろうが、心なしか、私への態度もよそよそしくなった。
 それらの事実からおぼろげに浮かぶ疑念を口にしてしまったら、私たちは家族ではいられなくなるだろう。
 それを直視する勇気は私にはなくて、年度末や新年度の繁忙期を言い訳に、向き合うことを避けてきた。

 ビールを片手にリビングに移動し、職場から持ち帰った書類をコーヒーテーブルに広げると、深い緑色の封筒が滑り落ちた。
 裏に返すと、劇団マーブルフラワーのハンコの下に、植芝さんの名が記されている。お時間あればぜひ、とだけ走り書きされた手紙に、演劇祭のチケットとチラシが同封されていた。あの明るく朗らかな植芝さんが、本気で演技したらどうなるのだろうと、興味が湧く。
 カレンダーに予定はない。演劇祭と書き加えていると、玄関が開く音がした。
 今日は早かったらしい。
 ウォーキングから帰ってくる時間はいつもまちまちだ。なかなか帰らない日もあれば、目を赤く腫らしてすぐに帰宅する日もある。どうしたのか聞いても、智沙は大丈夫としか答えない。そういう時、どうするのが正解なのだろうか。そっとしておくべきか、夫として緊密にコミュニケーションをとるべきか。
 リビングに入ってきた智沙と目が合って、咄嗟にチケットを差し出した。
「おかえり。もらったんだけど、どう?」
 智沙はしばらく考えてから、首を左右に振った。
「この日、大事な予定があるの。ごめんなさい」
 カレンダーには、予定は書かれていなかった。
 どんな予定かと聞いたところで、またはぐらかされるだろうか。
 だが、もしも私の疑念が的を射ているのなら、聞いてしまえばやぶへびになる。だから彼女も話さないのかもしれない、今のところは。
 それを話す時は、きっと私たちの関係が大きく変わる時なのだろう。
 智沙の一連の変化は、どうしても、ひとつの考えに辿り着く。
 彼女は、浮気しているのではないだろうか。

 植芝さんの劇団は、廃校になった小学校で上演するらしい。
 チラシによれば、演劇祭期間は、市内のいくつかの劇場や教育文化施設の他、旅館などでも、演劇が行われるという。プロ、アマチュアそれぞれの劇団の他、地元高校の演劇部なども参加して、シェイクスピア劇やミュージカル、舞踊劇、宮沢賢治作品の翻案劇など多彩な舞台が観られるそうだ。
 大きな写真入りで扱われているところをみると、劇団マーブルフラワーは目玉企画のひとつらしい。
 最寄駅からは、丘の上の廃校に向かう無料送迎バスが出ていた。くねった坂道をのぼるバスの窓外は、市街地から新緑に包まれた山と田畑へと、回り舞台みたいに移り変わった。
 廃校はお祭りらしく華やかに飾られ、敷地を囲うフェンスのそこかしこに、風船が括りつけられていた。フェンスに沿って、小さなサーカステントやキッチンカーも並んでいる。校庭の特設ステージでは汗だくの劇団員たちが舞台装置の設営を進め、揃いのTシャツを着た演劇祭スタッフが客席のパイプ椅子を並べている。
 そのまわりでは派手な衣装のピエロが子どもに風船を配り、逃げられたり、泣かれたりしていた。ピエロはその都度、全身でおどけるものだから、次第にあちこちから子どもたちがまとわりついて、後をくっついて歩くようになる。
 そうなるとピエロは、親を手招きして、木造校舎の一角にある臨時店舗へ誘導し、ソフトクリームや草餅、サンドウィッチを紹介してみせて、休憩用の空き教室を指さす。子どもたちの関心はあっという間に食べ物に移って、ピエロは小さく手を振りステージへ駆け戻る。たいした商売上手だと、思わず笑ってしまった。
 すれ違いざま、ピエロは私の横でぴたりと足を止め、顔をのぞき込んできた。絡まれてはたまらないと慌てて歩みを速めて、体育館を目指す。
 目当ての舞台は、体育館を改築した劇場で上演されるという。目玉企画だけあって、席はほぼ埋まり、空席を見つけるのが一苦労だった。席には演目のあらすじや配役と、俳優の写真を掲載した簡易パンフレットが置かれていた。ワークショップ時とはまるで印象の違う、表情を引き締めた植芝さんが、そこには写っていた。
 上演される「みんな我が子」という作品は、二十世紀を代表する劇作家アーサー・ミラーの代表作のひとつらしい。
 幕が開くと、こざっぱりとした一軒家とその裏庭の、平和な風景が広がっていた。
 新聞を手にした初老の男が植芝さんだと気づき、目を瞠った。明るく朗らかな青年の面影は感じられず、立ち歩く姿も声色も、私よりずっと年かさの、落ち着いた男としか思えない。
 変幻する彼の表情を見つめているうちに舞台に引き込まれ、自分も隣人として彼らの庭の片隅に同席し、はらはらと事の成り行きを見守っている気持ちになる。
 徐々にあぶり出されていく家族の秘密と、全身全霊で男を生ききる植芝さんにいつの間にか意識が同化して、私は追い詰められる男の人生に深く入り込んでしまったように錯覚する。お前はどうなのだ、どうするのだと、自分自身にも厳しい問いを投げかけられている気がして、鼓動が重く体に響いた。
 芸術は時に、なにげなく過ごす日々を一気に塗り替えるような、鋭い切っ先を突きつけてくる。
 幕が閉じ、拍手がこだまする中、私は椅子から立ち上がることもできなかった。
 観客を出口で見送る植芝さんは、あの朗らかな笑顔で挨拶してくれたのだが、大きななにかが体の奥で脈打ち続けていて、どうにも落ち着かない。
 舞台上の空気を引きずったまま外に出ると、夕雲がいつもよりずっと赤く見えて、ひどくのどが渇いているのに気づく。
 その時、視界の端で、なにかが弾けたかと思われた。
 サーカステントとその周囲に、一斉にイルミネーションが灯ったところだった。

 フェンスに絡まるイルミネーションが、枝垂れ桜のように光の枝を伸ばして、くすんだ水色と生成色のサーカステントを照らしていた。
 六つほど並んだテントの端には、黒塗りのキッチンカーが停まり、黒服のギャルソンが行き来している。ワインボトルを載せた銀のトレイが、イルミネーションを反射してきらりと光った。飲食店らしい。私は、その光に吸い寄せられるように、店の黒板に近づいた。
 ビストロつくし、という店だ。
 フランス語らしき料理名はよくわからないが、メニューには名残の春野菜と走りの夏野菜が肩を並べていて、季節の変わり目なのだと感じた。最後に小さく書き添えられた、数量限定のスペシャリテあります、という一言に心惹かれる。だが、観劇後はすぐ帰るつもりで、夕食は家で食べると智沙に伝えてしまっていた。
「飲み物と、軽いつまみくらいじゃ、迷惑だろうな」
「いえいえ、よろしければどうぞ」
 独り言への返事に驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐそばに、あのギャルソンが立っていた。
「この地域の食材にシェフが魅せられまして、前菜も多くご用意しています。お酒に合うものを見繕ってお出しできますよ。お飲み物も、おすすめの旬のフルーツシャンパンをはじめ、取り揃えております」
 その言葉に釣られ、私はイルミネーションが額縁のように飾る入口から、サーカステントの中へ足を踏み入れた。

 ここも舞台の一部だろうかと見紛うほど、現実離れした空間が広がっていた。
 シャンデリアが華やかな光を放ち、凝った模様の織り出された分厚い絨毯が敷きつめられ、優美な装飾の施された棚やスタンドライトが並ぶ。部屋のあちこちに飾られた大小のランタンが室内をやわらかく照らし、白いクロスをかけた楕円形のテーブルには、白と紫のあじさいに似た花が飾られていた。つややかな光沢のある一人掛けソファひとつとっても、価値あるものだとわかる。
 ギャルソンが引いてくれた椅子に腰かけると、入口のイルミネーションごしに、校庭のステージが見えた。幕のない舞台に照明がつくと客席には静けさが広がり、俳優の張りのある声が響き渡る。
 はじまったのは、シェイクスピアの「夏の夜の夢」らしい。たしか、いたずらな妖精が惚れ薬で恋人たちを混乱させる、賑やかな喜劇だ。
 ほどなく、妖精に負けず劣らず軽やかな足取りで、ギャルソンがテントにやってきた。
「お待たせいたしました。甘夏のフルーツシャンパンです」
 淡いオレンジ色の三日月がいくつか、金色の液体に沈んでいる。
 続いて並べられた前菜の充実ぶりは想像以上だった。野菜を中心に、少しずついろいろな種類が、彩りよく盛り合わせてある。
「左上から、ソラマメのフリット、チーズのグジェール、白と緑のアスパラガスのミモザサラダ、サーモンのエスカベーシュ、タケノコとナスのロティ・ブルゴーニュ風でございます」
 聞きなれない言葉にたじろいだが、グジェールというのは甘くないシューの皮だとか、エスカベーシュは洋風南蛮漬けだというふうに、わかりやすく説明してくれ助かった。
 最後にパン籠に入ったバゲットを置き、ごゆっくりどうぞ、とギャルソンが背を向けるなり、甘夏シャンパンを口に含んだ。
 細やかな泡がのどを心地よく刺激し、柑橘の香りがそよ風みたいに通り過ぎる。みずみずしい果肉を噛めば、ほろ苦さと甘酸っぱさが溶け合いながら広がった。
 前菜は、どこから手をつけようか迷ってしまう。悩み抜いてつまんだソラマメは、薄い衣の下にのぞく翡翠色がきれいで、独特の香りとほくほくした食感がたまらない。甘くないシュー菓子はほの温かく、濃厚なチーズの香りがあふれる。白と緑のアスパラガスを覆う毛布のような黄色いものは、粒状にした卵の黄身だそうだ。ミモザの花に見立てられた卵黄は、ドレッシングによく馴染み、アスパラガスの甘みを引き立ててくれる。
 サーモンに添えられた赤玉ねぎとパプリカは目にも鮮やかで、酢の効いた味わいとほろりと崩れるサーモンの身が混ざり合って癖になりそうだ。焼き目のついた細身のタケノコは、香りは穏やかだがえぐみがなく、歯応えがいい。とろりとしたナスとの取り合わせは見事で、エスカルゴバターとも呼ばれるニンニクやパセリを使ったブルゴーニュ風バターの濃厚な味わいを力強く受け止めている。

 困ったことにここの料理は、食べれば食べるほど、腹が空いてくるようだ。早々に退散しなければ、こんこんと湧き出る食欲に勝てそうにない。
 帰りのバスの時刻を調べようとスマートフォンを取り出すと、智沙からメッセージが届いていた。
《ごめんなさい。予定が長引いていて、夕飯には間に合わなさそうです》
 状況を想像して、一段と重く鼓動が響いた。返事を打つ指先が冷たくなって、うまく力が入らない。
《わかった。大丈夫。食事は外で済ませます》
 なにが大丈夫なものか。本当は、怒りとも悔しさとも情けなさともつかない気持ちがあふれそうで、たまらないのだ。
 いつまで気持ちを押し殺して、平気なふりをすればよいのだろう?
 このまま気づかない夫の演技を続けた先に、しあわせは訪れるのだろうか。
 見るともなく舞台に目をやれば、いたずらな妖精が目標とは違う男に惚れ薬を使っていた。
 舞台を縦横無尽に駆け巡る妖精は、生命力にあふれ、心底いたずらを楽しんでいるように見える。惚れ薬に浮かされた男は「あの人の騎士になる」と叫んで、恋人とは別の女を追いかけていき、燃えるような恋の情熱がこちらにまで伝わってくるようだ。
 舞台上で彼らが見せる感情の純度は高くて、宝石のようにきらめいて見える。
 輝くいのちの熱量に息を呑み、焦がれ、魅了される。
 本当の心と演技にはどれほど隔たりがあるのだろう。生身の感情を剥き出しにして舞台に立つ彼らは、ひとさじの真実を見せているように思えてならない。
 私の偽りの態度と、彼らの姿を、同じ「演技」という言葉で表してはいけない気がした。

 シャンパンの最後の一滴を飲み干すと、どこからともなくギャルソンがやってきて、飲み物のメニューを見せてくれた。このもやもやした気持ちを、すぐにでも酒で洗い流したかった。
 もしも私たちの人生に場面転換があるのなら、それはそう遠くないのかもしれない。ゆっくりと長いため息がこぼれた。
「種類が多いですよね。宜しければお好みに合わせておすすめしますよ。劇団マーブルフラワーの舞台はご覧になりましたか? ぶどうジュースの場面がありましたでしょう。大人のぶどうジュースみたいな赤ワインはいかがです?」
「ああいや、すみません、個人的なことで」
「なるほど。その憂い、少しでも小さくなるとよいのですが」
「人生っていうのは、いったい何幕構成なんでしょうね」
「七幕だそうですよ」
 具体的な数字が飛び出すとは思わず、驚いてギャルソンを見上げた。彼は気高い猫のように背筋をぴんと伸ばして、朗々と声を張った。
「『この世界すべてが一つの舞台、人はみな男も女も役者にすぎない。それぞれに登場があり、退場がある、出場が来れば一人一人が様々な役を演じる、年齢に応じて七幕に分かれているのだ』……と、かのシェイクスピアは申しております」
 ギャルソンはかつて舞台俳優だったという。とすると彼もまた、人生を場面転換したのだろうか。
「生きていると悩みは尽きませんが、私の経験からすれば、人生の幕は、思わぬところで唐突に変わるようです。自分の手で変えることも、なにか別な力が働いて変わってしまうことも、あります。どちらの場合でも、あとになってみれば案外悪くない変化もありますよ」
「自分の望む変化と違う場合でも、ですか?」
 かつての失言の数々がもたらしたものを、悪くないとは言えない気がする。
 だから踏み出せないのだ。また失言して意図せず苦しめることも、未来を思わぬ方向に差し向けることも、おそろしく感じる。
 ギャルソンは、猫のように目を細め、口元に笑みをたたえた。
「どんな未来が訪れるかわからないから面白いのが、人生劇場じゃありませんか。よろしければ、試してごらんになりますか? 当店のスペシャリテは、お客さまのためにシェフが心を込めておつくりする一品。でき上がるまでどんなお料理になるのか、わかりません。本日はシュヴァリエのクラージュでございます」
 予想のつく未来でなく、未知の領域に手を伸ばすのは不安だが、料理くらいならば、少しの冒険を面白がれるだろうか。
「いただいてみます、そのスペシャリテ」
 ギャルソンは、苦手なもの、食べられないものを丁寧にメモしてテントを出ると、急に両腕を天に向かって伸ばした。大きく伸びをするように、手を組み、そのまま左右にゆっくり揺れる。しばらく揺れたあとは何事もなかったかのように、歩き出した。
 その不思議な仕草が、妙に目に焼きついた。

 舞台の上では、惚れ薬に惑わされた面々が元の鞘に収まり、大団円を迎えていた。
 幾度も繰り返されるカーテンコールで、いたずら妖精を演じた俳優がとりわけ大きな喝采を浴びる。
 演じきった満足感をかげろうのように立ちのぼらせる姿に見惚れていると、ふうっといい香りがして、ギャルソンが姿を現した。
 骨付き肉が目の前に置かれると、空腹が何倍にも膨れ上がった。
「お待たせいたしました。シュヴァリエのクラージュ、騎士の勇気と名付けられた一品でございます。お料理は地鶏のコンフィ、滋味あふれるお肉をディジョンマスタードでお召し上がりください」
 骨付き肉というのは、どうしてこうも心躍るのだろう。添えられたクレソンとハーブの小枝、櫛形切りのフライドポテトが、黄金色の焼き目をいっそう香ばしく見せる。骨を持ってがぶりと食らいつきたいのを、大人らしい分別で抑え込むが、フォークとナイフを使うのがまどろっこしい。
 ナイフが皮目にあたると、パリッと小気味いい音がした。肉はやわらかく、フォークだけでも難なくほぐれる。口当たりはしっとりとして、肉を食べている充実感がしみじみ心を満たす。まろやかなマスタードの風味をまとうと味の雰囲気は変わり、どれほど食べても飽きることがない。
 合わせて選んでもらったブルゴーニュのピノ・ノワールは渋みも少なく穏やかで、料理にやさしく寄り添ってくれる。カリカリとほくほくのバランスが絶妙なフライドポテトや、ぴりりと刺激のあるクレソンを、地鶏と交互に食べると、一羽くらいぺろりと平らげられそうな気がする。

 夢中になってフォークとナイフを動かしていると、テントの入り口から小さな咳払いが聞こえた。
「お楽しみいただけていますか」
 白いコックコートに大きな体を包んだシェフが、その体躯に似合わないほど小さな歩幅で中に入ってくる。もごもごと挨拶を口にしていた彼は、ソースもきれいに食べきり、ハーブの小枝ばかりが残った皿を見た途端、機嫌をよくした。
「今日は地鶏のいいのが手に入りましてね。フランスでは雄鶏は勇気の象徴なのです。そのハーブはタイムと言って、中世には持ち主に勇気をもたらすと信じられていました。貴婦人が絹のスカーフに縫い付けて、騎士に贈ったそうですよ」
「そう簡単に勇気が持てたら、いいでしょうけれどね」
「ええ、簡単ではなかったでしょうね。だからこそ何度も、大切な存在を想ったのかもしれません。急に火がつくのではなく、じりじり蓄えた熱が、ある時勇気に変わるのではないでしょうか。今日のお料理、コンフィと同じです。低温の油で長時間煮込むうちにじりじり変化して、ある時とびきりおいしくなるんですよ」
 今日私は舞台の上にも、そういう姿をいくつも見たのではなかったか。
「舞台を観てこの憂き世では誰もがなにかと戦う騎士じゃないかと思ったんです。皆、大切ななにかを守るために、勇気を出して戦っているのだろうと。現実に立ち向かう騎士への敬意とささやかな応援の気持ちを一皿に込めました」
 勇気があれば、立ち向かえるだろうか、私も。
 舞台に目をやる私に、シェフは頬をぷっくり盛り上げて、微笑んだ。
「芸術というのは、きれいなもの、うつくしいものばかりではありません。自分を根源から揺さぶる、厳しくも大事な問いを与えてくれることもあります。もしかしたら正解もなく、知りたくても、ヒントも聞けないようなことも」
「そんな時、どうします? あなたなら」
 シェフはハムのような両腕を組んで体を揺すり、しばし考えていた。
「考えます。食べながら。飲みながら。そして、その時々の出逢いに、なにかを感じながら。答えに辿り着くかどうかはわかりませんが、何度も。そうやって問うこと、考えることも、心の栄養になるはずです。心が満ち、お腹も満ちたら、それは世界で一番おいしい料理なんじゃないかって思うんですよ、私はね」
 智沙のため、自分のために、なにができるのかを思うと、心が定まる気がした。
「出さなくてはですね、勇気」
「いつでも出せますよ。雄鶏もタイムも召し上がったでしょう。人は食べるものでできているんですから」
「シェフ、そろそろ調理場にお願いします、新しい注文が入っていますよ」
 ギャルソンが姿を見せると、シェフは慌ててキッチンカーへ戻っていった。私に向き直ったギャルソンは、お連れさまがいらしています、と妙なことを告げた。
「お客さまは、松葉さま、とおっしゃいますね?」
 返事の終わらぬうちに、ギャルソンの背後から、いたずら妖精が姿を現した。
「やっぱり! やっぱり松葉先生! 風船配りをしている時にお見かけして、そうじゃないかって思っていたんです。全然変わりませんね」
 風船を配っていたあのピエロらしい。だが、俳優の知り合いは、植芝さん以外にはいない。
「僕のこと、覚えてませんか? ああ、こんな化粧じゃ、わかるものもわからないか」
 いたずら妖精は、ポケットからタオルを取り出して、ごしごしと顔を擦った。はげた化粧の下の笑顔は、少し大人びた、あの十五年前の生徒、種村くんのものだった。
「いつか会えたらって思ってました。あの時、先生が僕の道を開いてくれたお礼が言いたくて」
「狂わせたと思っていたよ、ずっと。医学部、辞めてしまったらしいじゃないか」
「誰かが決めたしあわせより、自分が決めたしあわせの方が、ずっといいですから。先生が言ってくれたじゃないですか、人生の舞台は、いい大学だとか難易度の高い資格だとか、一部の企業だけにあるわけじゃない、って」
「そのせいで、代々開業医を務める君の一族と君を、大いに混乱に陥れた」
「そのおかげで、僕は自分の人生の舞台を見つけられた」
 音もなく滑り込んできたギャルソンが、二人分のデザートとコーヒーを並べてくれる。
「本日のデザートは、ライチのグラニテと、ウィークエンドシトロンです」
 私たちは十五年ぶりに向き合った。彼は文学部に入り直し、学生時代から演劇を続けて、劇団を興したのだそうだ。
 ライチの氷菓子はさっぱりと甘く、白い砂糖衣にくるまれたケーキは、ほんのりとレモンの香りがした。合間に流し込むエスプレッソは苦くて、どの人生にも、酸いも甘いも苦いもある、と思えた。どれも思い通りにならないかわりに、こんな驚きに出逢えることもある。
 だからこそ人生劇場という舞台は、面白いのかもしれない。
 にこやかに立ち去る種村くんの背中は、頼もしく見えた。

 帰り着いた家には、電気がついていた。
 ここでどんな結末を選ぼうと、互いに本心を偽って過ごすよりは、ずっといいはずだ。正解はないのかもしれないが、問い、考える機会が、私たちに変化をもたらしてくれるだろう。どのみち話すなら、早い方がいい。たとえもう家族でなくなるのだとしても。
「ただいま」
 大きく声をかけると、リビングから、智沙が顔をのぞかせた。まだスポーツウェアから着替えていないところをみると、彼女も帰ってきたばかりなのかもしれない。
 決心が鈍らないうちに、急いで切り出した。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
 智沙は目を見開いて、実は私も、と応じた。
 いよいよ、決戦の時らしい。
 そういえば、長引いた大事な予定とはなんだったのだろう。もしかしたら話し合うどころか一足飛びに、離婚を切り出されるのだろうか。
 なんにせよ、もう後戻りはできない。大きく息を吸って、覚悟を決めた。
「君の話から聞こうか。……同じ話かもしれないし」
「もしかして、気づいてたの?」
「うすうすね」
 智沙は小さくため息をつき、眉をひそめた。
「気を使ってきたつもりだったの、心配をかけるから。でも、わかっていたなら、話は早いね。会ってもらえる?」
「えっ、いるのか、ここに?」
 さすがに浮気相手が自宅にいることまでは想像していなかったが、いまさら引くに引けない。めまいを覚えながら、リビングに消えた智沙を追う。
 ふと思い出し、店でギャルソンがやっていたように、手を組んで背伸びをした。そのまま左右に揺れてみる。それから、腹のあたりに手を当てた。ささやかな勇気が、ここに入っているはずなのだ。
 一歩を踏み出し、リビングに入った。
 だが、ソファにもどこにも、想像したような人影はない。智沙はテレビの横にしゃがんで、私に背中を向けたまま、話した。
「あなた言ってたでしょう、ひとの出逢いは掛け算だって。一×一は一だけど、できることが少しずつ増えてお互いに一より大きくなれば、少しずつでも広がるでしょう。だから」
 振り向いた智沙は、バスタオルを手にしていた。
 そのバスタオルが、もぞもぞと動く。やがてタオルの隙間から、大きな耳と目が飛び出して、おもちゃみたいな高い音で鳴いた。ふわふわの茶色い仔猫だった。
 私は言葉もなく、仔猫と智沙を何度も見た。
「この子、土壇場でご縁が途切れちゃって。あちこち探したけどどうしても引き取り手が見つからなくて」
「じゃあ今日の大事な予定って」
「保護猫譲渡会」
「電話の相手は」
「保護猫ボランティアの仲間」
「急なウォーキングは」
「地域猫を保護したり、捕獲して避妊手術を受けさせたり、引き取り手を探したり。今の時期は仔猫が多いから、急な出動も多くて」
「なら、最近若返ったのは」
 智沙は、声を立てて笑った。
「いろんな世代の人がいるから。若いメンバーの子に、流行のメイクを教わったの」
 体中から力が抜けて、私はソファに倒れ込んだ。地域猫の保護活動だったとは。
「どうして黙っていたんだ」
「仮にも命とかかわるんだもの、自分でも続けられるかわからなかったから。でも意外と性に合うみたい。大変なこともあるけど。あら待って、じゃあ、あなたの話って?」
 もう解決済みだと受け流して、指先で触れてみると、仔猫はやわらかくて、温かかった。
 仔猫に話しかける智沙を見つめる。明日は久しぶりに、一緒に買い物にでも出かけよう。猫に必要なもののリストでも作って。
「名前、考えないとな」
 私たち家族の、次の一幕が、はじまるらしい。

◆ 参考文献 ◆

  • 『アーサー・ミラーⅢ みんな我が子 橋からのながめ』アーサー・ミラー/倉橋健訳/早川書房
  • 『シェイクスピア全集4 夏の夜の夢・間違いの喜劇』シェイクスピア/松岡和子訳/筑摩書房
  • 『シェイクスピア全集15 お気に召すまま』シェイクスピア/松岡和子訳/筑摩書房