ピオニエのメルヴェイユ ~夕暮れブイヤベースと船~

 溺れる者は藁をも掴むという。
 あたしは、運がよかったのだろう。掴んだのは藁みたいなか細いものではなく、太くて重厚な、ガラス扉の取っ手だったのだから。
 その場所は、小さな映画館だった。背の高いビルに埋もれるように佇む建物は、控えめだけど存在感があって、青いタイル張りの外観が、澄んだ空に溶け込むようにきれいだった。
 扉の横に貼りつけられた〈うみねこシネマ〉の文字は小さく、フィルムを象った看板も目立たないのに、あたしにはその独特の佇まいと重たそうな扉が、光に包まれているみたいに見えた。
 いつも眺めるばかりだったその扉をはじめて押したのは、ガイダンスの帰り道。風が強く吹いて、街路樹の葉を乱暴に散らしていた日だった。
 あの日、一瞬、呼吸の仕方がわからなくなった。
 服飾系専門学校生の生活は思っていたより忙しくて、課題や就職活動の波が容赦なく押し寄せ、はじめたばかりの独り暮らしはすぐに家事が滞った。数日眠らず必死に作り上げても、今の流行から少しずれているらしいあたしの作品には、全くと言っていいほど評価がつかない。好きで選んだはずの道が息苦しくなり、学内コンペを勝ち抜く同級生たちを羨んでは焦り、もがくたびに深い水の中に沈むようで、なにもかもうまくいかないと感じていた。
 どこか遠くに逃げ出したくても気力も体力もなくて、ふと目に留まったのが、映画館だった。
 足を向ける回数は少しずつ増えていった。うみねこシネマでやさしい闇に抱かれる時間は息継ぎのようで、あたしにも映画みたいなことが起こればいいのに、と夢を見れば、荒波の押し寄せる海にも戻ることができた。

 扉を開け、ほんのりと漂うバターの香りに鼻をひくつかせて、白黒のブロックチェックのカーペットを横切る。だんだんと濃くなる香りを胸いっぱいに吸い込みながら、黒い階段の脇にあるチケット売り場兼売店を目指す。そこには、双子みたいにそっくりな二人が、その顔に好奇心をたっぷりにじませて座っている。
「瑠璃ちゃん、そのからし色のワンピースとってもすてきねぇ。それも自分で作ったの?」
「靴下の色もいいわ。渋そうなぶどうジュースの色って、からし色と合うのね」
 若いひとはおしゃれねぇ、とショートボブの白髪を揺らしながら笑うのは、二人足して御年百五十歳の姉妹、優未さんと寧子さんだ。ビートルズとほぼ同世代だという二人はおしゃれ好きで、色鮮やかなニットやツイードを外国のマダムみたいに着こなしている。彼女たちこそ、この小さな映画館を切り盛りする二代目支配人であり、映写技師でもあった。学生料金を支払うたびに出す学生証で名前を憶えてくれたらしく、たびたび話しかけられた。
 二人の背後には、大きく引き伸ばしたモノクロ写真が飾られている。きらきらと光を反射する海と、戯れるように飛ぶ鳥たち。うみねこかと尋ねると優未さんは、さあねぇと首を傾げた。
「古い映画の一コマらしいの。なんの映画かもわからないけれど、鳴き声を聞いたらわかるでしょうねぇ。うみねこって、猫みたいな声で鳴くんですって」
 二人は物知りで、オートクチュール刺繡の勘どころやトリュフの探し方、京劇俳優の演技の秘密など、ふつうに暮らしていては知りようもないことまで、よく知っていた。
「なんでも映画から教わったの。おしゃれに恋の仕方、歴史文化から社会問題までね。映画は世界をのぞく窓なのよ。映画を観る私たちは、才能あふれる天才彫刻家や、幼い少女、独立運動家の心の内だって、感じ取ることができるでしょう?」
 二人のこだわりは、作品の選定にはじまり、丁寧に淹れたコーヒーと塩加減が絶妙なバターポップコーン、ロビーに置かれた海外製の真っ赤な電話ボックスや椅子にいたるまで、すみずみに行き渡っていた。シアター内の座席はもちろん、ロビーの片隅に並ぶさまざまなアンティークの椅子もとびきり座り心地がよくて、体のこわばりがほどけていく。
 とくに好きなのは、一対の青いヴェルヴェット張りの椅子。身を沈めると、湯舟につかった時みたいな深い息がこぼれる。
 シアター内でも、あちこちからふうっとゆるむ息づかいが聞こえるたびに、誰かとそのひと息でつながっている気がした。同じ闇に包まれて映画の世界を旅すれば、言葉を交わさなくても、その場に居合わせたひとたちと、なにかを分かちあった気分になる。たびたび顔を合わせる常連さんもいて、地域に愛されている場所だと思っていたし、それはいつまでも続くものだと信じていた。

 季節が冬にまた一歩近づき、自動販売機のボタンがあたたかい赤ばかりになった日のことだ。
「次の上映で、閉館するの」
 優未さんがさらりと笑顔を見せたものだから、あたしはつられて微笑んでしまい、次の瞬間にとてつもなく後悔した。
「そんな顔しないで、瑠璃ちゃん。ずっと考えてきたことなの。これぞって思える作品が見つかったら、最後にしようって」
「私たち好みが違うものだから、もう十年近くも意見が合わなくてねぇ」
 やっと見つかったの、とうれしそうな彼女たちに、どう声をかけたらいいのかわからなくて、来てねという誘いに頷くのがやっとだった。
 学校よりも、映画館で過ごす時間の方が、ずっと多くなっていた。
 ガイダンスのあった日、あたしはたぶん、現実というものを知った。入学前、学校案内の華やかさと重ねた夢は、自分の未来そのものに思えた。だけど就職活動ガイダンスで、夢とは遠くて儚いものなのだと突きつけられた。学内コンペを勝ち抜けないあたしには、夢を語る資格すら与えられず、少ない選択肢から手の届く未来を選ぶ手順だけが説明された。考えれば考えるほど、うまく呼吸できなくなった。意識するほど息苦しくなって、学校を飛び出し、映画館に出逢った。
 ブランドを立ち上げたり、ショーを開催したりといった同級生の活躍を横目に見ながら、あたしは映画館をたよりに生きてきた。ここがなくなったら、どうやって呼吸を取り戻したらよいのか、想像すらできない。
 閉館を聞いた日に観た映画は、ほとんど覚えていない。断片的に残る映像の記憶はどれもにじんだり、歪んだりしていた。
 二人が最後の上映作品に決めたのは、イギリスのファッション・デザイナー、マリー・クワントのドキュメンタリー映画だった。棚一面に並んだ、布の質感を感じさせる真っ赤なチラシに、心惹かれ、胸がつかえた。
 最後の日、優未さんと寧子さんはいつもどおり、やさしい闇へ送り出してくれた。
 映画は、マリーの言葉ではじまった。
 ファッション史の授業で習ったことが、圧倒的な現実感を伴って、目の前に広がる。気持ちに直接響いてくる音楽と、あの空気を吸って生きてきた目撃者たちが親密な声で語る、生きたスウィンギング・ロンドン。六十年代イギリスに満ちた濃密な気配が、スクリーンのこちら側まであふれてくる。あたしとそう変わらない年頃のひとたちが新しい文化を生み出し、熱を持って受け容れられ、共鳴しあうのを、その場に吸い込まれたかのように体験した。
 マリー・クワントが切り拓く自分らしさの選択肢と自由が、世界を変えていく姿はまぶしくて、客席が明るくなってもあたしは動くことができなかった。
 ずいぶん時間が経っていたのだろう。気づくと、優未さんと寧子さんが、あたしの両隣に腰かけていた。
「終わっちゃったわねぇ。振り返るとあっという間」
「激動だったものね。世の流れも災難もこっちの都合なんて考えちゃくれないし、フィルムからデジタルに変わるときだって、大変だった。あっぷあっぷしながらも、なんとか続けてこられた」
 二人はなにも映っていないスクリーンを、いとおしそうに見つめていた。
「終わりよければすべてよしって言うじゃない? 大好きな作品で締めくくれて最高だったわねぇ。好きなものにはじまり、好きなもので終われたもの」
「………さびしくなります」
 ようやく絞り出した声は少しかすれた。寧子さんが、ふいにあたしの顔をのぞきこむ。
「瑠璃ちゃん、ロビーの青い椅子、ひとつ使わない? 気に入ってくれてたでしょ。開館の時に父がヨーロッパから取り寄せたものなの。ここはなくなるけど、時々思い出して、映画を楽しんでくれたらうれしいわ」
 いい考えねぇと優未さんが小さく手を叩いた。
「好きなものは増えれば増えるほどあなたを強くする。たくさん出逢ってほしいわ、映画でもお洋服でも本でも」
 もしかしたら二人は、あたしがあまり学校に行っていないことに気づいていたのかもしれない。たくさん話しかけられたのは、気にかけてくれていたからだと、今になってわかる。遠慮がないわけではなかったけど、椅子に託してくれた二人の想いを、ありがたく受け取ろうと決めた。

 そこからの数日間は、散らかった部屋の掃除に明け暮れた。それはあたしが好きなものをひとつずつ確認する作業でもあった。独り暮らしのために揃えた家具や食器、デザイン画や作り溜めた服などがすっかり片付く頃には、優未さんの言葉のとおり、好きなものたちがあたしに力を与えてくれていた。あの椅子と、好きなものたちに囲まれていれば、もう少しだけがんばれるかもしれないと思えた。
 椅子を迎える日、あたしは久しぶりに一日中を学校で過ごした。受け取り時間が指定できず困っていたが、大家さんが引き受け、部屋に入れておいてくれるというのに甘えた。
 学校では、あたしがいてもいなくても、誰も大して気に留めない。みんな自分のことで精一杯だし、来なくなるひとだって珍しくもない。ここに限ったことではないけど、ひとは日々の荒波に呑まれて、簡単に溺れてしまう。
 昼過ぎに配達完了通知が届いてからは時間の進みが遅く、終業するなり弾かれたようにアパートに向かった。
 いつも閑静な住宅地は、繁華街のようにざわめき、ひとが多く、歩きにくかった。すぐ横をけたたましいサイレンが通り過ぎ、こめかみにぴりっと力が入った。よくないことが起こっているらしい。
 家々の隙間から、煙が見えた。風に混じり、なにかが焦げたような、ビニールが燃えたような、いやなにおいが届く。不吉な予感が繰り返し胸を打つ。大丈夫と何度も呟き、不安と心細さをなだめるようにして、喧騒のただなかへ分け入った。
 目の前の光景は、スクリーンの向こう側よりもずっと、作り物めいて見えた。
 煙を吐き出しながら大量の水を受けていたのは、あたしの住むアパートだった。ベージュの外観の半分ほどが禍々しい黒い影に覆われていた。二階端のあたしの部屋は、割れたガラス窓の向こうに、闇よりも暗い室内が見えた。
 泣けるほどの現実感はなかった。
 電話の向こうの母の取り乱した声も、あたしの無事をよろこぶ大家さんの姿にも、心が動かない。ひたすら冷えていく心の中で、無事なんかじゃないと静かに憤った。
 なくなってしまったのだ。あたしの好きなもの、大切なものは、すべて。

 窓外にはのどかな田畑が広がり、あれは幻だったんじゃないかと何度も思った。でも現実を裏付けるかのように、電車が終着駅に着く頃になっても、鼻の奥にはあのいやなにおいがこびりついていた。
 部屋はあらかたが燃えていた。一階端の部屋から出た火は、すぐ上のあたしの部屋に燃え移り、それぞれの隣室を巻き込んで消し止められた。住人はみんな留守で怪我人もいなかった。
 不幸中の幸いとわかっていても、よかったと素直に言えないのは、ひどいにおいのする真っ黒なその場所があたしの場所だとはどうしても思えなかったから。くすぶる燃えさしのどれがアパートの躯体で、どれがあたしの作り溜めた服や譲り受けた椅子なのかも、判別がつかなかった。小さな部屋に満ちていたあたしの好きなものたちは、暗い影に吞み込まれ、面影すらなくなっていた。
 実家に向かう電車を駅で待つ間、疑問符や悔しさ、やるせなさが渦を巻き、衝動的に、先に来た反対方向行きの電車に飛び乗った。
 こんな日こそ、映画館に行きたかった。いつか映画みたいな出来事があたしにも起こればいいのにと思っていたけど、望んだのはこういうことではない。
 辛いのに、哀しいのに、涙は出ず、泣けなかった。
 ゆっくりと電車が停まると、運転手のくぐもった声で、折り返しの発車時刻と、海岸まで徒歩五分ほどだと案内が流れた。海が近いらしい。発車までは四十分ほどあり、海を見て戻って来ても、間に合いそうだった。
 暮れはじめた陽が、はじめての町をなつかしい色で包む。いくつか道を横切ると、かすかに潮騒が聞こえはじめた。細い路地の先にちらちらと光が見えた気がして、足を止める。狭く起伏のある道の向こうに、陽の光を散らばす海が、細い帯のようにのぞいていた。
 入り江のようだった。路地を進むと、南北を切り立った崖に囲まれた、お椀のような地形が姿をあらわす。光は、その砂浜にもきらめいていた。イルミネーションを張りめぐらした塀が立ち並び、とんがり屋根の小さなサーカステントが六つばかり並んでいる。
 テントのそばに、妙な男がいた。大きな荷物の傍らで歩みを進めては戻り、まるでステップを踏むような不思議な足取りで、砂を踏みしめている。全身黒ずくめのそのひとと目が合った。彼は大袈裟な身振り手振りであたしになにか伝えようとするものの、フォークダンスのようなその動きからは、なにもわからない。
 声の届く場所まで近づくと彼は、猫のような瞳をくるくると回して、こどもみたいに邪気のない笑顔をあたしに向けた。
「泣きましたね」
 困惑するあたしの靴の下で、小さく、きゅっと音がした。
「泣き砂というそうです。鳴き砂、鳴り砂とも。英語ではミュージカルサンドと呼ばれるのだとか。私はうまくいかなくて。泣き方がお上手ですね」
 泣けないあたしが、泣き方で褒められるのは、変な感じがした。でも、あたしの分まで、砂が泣いてくれているのだと思うと、少しだけ心が安らぐ。二人で砂を踏みしめているうちに、鼻の奥のいやなにおいは薄らいで、少しずつ、潮の香りが強くなった。
 どこからかおいしそうな香りが漂ってくると、そのひとは急に表情を引き締めた。
「地元の方ですか? 日暮れ頃から開店します。よかったらいらしてください」
 立ち並ぶ水色の縞模様のサーカステントは、移動式のビストロなのだそうだ。彼はビストロつくしというその店のギャルソンだという。
「帰りの電車賃くらいしか、持ってなくて。実家に帰る途中なんです」
 気づいたら、反対方向行きの電車に乗っていたと話すあたしを、ギャルソン氏はじっと見て、指をぴんと立てた。
「もしお時間が許せば、少しだけ手伝っていただけませんか? お礼はささやかながら当店特製の賄いでいかがでしょう。腕自慢のシェフが新鮮な海の幸をたんまり仕込んでいますから」
 指さした先、北側の崖下には黒塗りのキッチンカーが停まっていた。むくむくとした大きなひとが、寸胴鍋をかき混ぜている。潮風に混じるおいしそうな香りが、あたしの胃を両手で抱きしめてきた。
 今夜は特別な催しがあるそうだ。簡単な自己紹介を済ませ、借りたギャルソンエプロンをつけると、くるぶしまで隠れた。
「お食事を届けていただくだけなので、仕事は難しくはありません。ただ、気難しくてお話好きな方なので、丁寧に接していただければと。困ったら私を呼んでください」
 渡されたバスケットには、シャンパンボトルと、お料理の入った密閉容器が積まれていた。
 届け先は、北の崖の中ほどに根を張った大樹の上。鳥の巣箱をそのまま大きくしたような、ツリーハウスだった。隠れ家めいた外観とは裏腹に、大樹までは手すり付きの階段が整備され、ツリーハウスにはこどもでも安全に登れそうだった。
 何度かノックしても返事はなく、ノブを回すと、開いたドアの隙間から、巨大な蝉が羽ばたきしているかのような音がした。

 部屋は暗く、正面の小さな窓に向かって、二台の機械が並んでいた。大きな羽音は、車輪のようなものをふたつくっつけた、その機械の片方から出ている。近づくと、先端から光が伸びているのが見えた。
 光は南側の崖にまっすぐに届き、真っ白な矩形を描いていた。ぼんやりと浮かび上がる長方形は、次第に輪郭をはっきりさせ、羽音とともにふつりと消えた。
 その光景に見惚れていたあたしは、声をかけられるまで、機械の間にひとがいることに気が付かなかった。
「関係者以外立入禁止なんだけど」
 そのひとの目は丸眼鏡の奥で、真新しい裁ちばさみみたいに光っていた。ごま塩頭も頬から顎に延びる髭も、短く刈り整えられていて、いかにも気難しそうに見える。
「あ、あの、お食事を持ってきました」
 頭を下げつつも、視線はついつい機械に吸い寄せられる。ふたつの車輪に巻き付いているのは、フィルムではないだろうか。
「もしかして映写機ですか?」
 刃物めいたまなざしが急にやわらいだ。きっと映写技師さんなのだろう。
「〈暗い部屋〉には、似合いでしょう」
 このツリーハウスのことだろうか。たしかに暗い。南の崖を向いたものの他、西にも窓があるが、真っ黒なカーテンが引かれていた。技師さんはその横の小さな作業台に食事を置くように言った。
 添えられたメモに従って、グラスに輪切りの黄色いキウイを入れる。シャンパンの栓を抜けずに苦労していると、肩越しに手が伸びてきて、小気味よい音を立てた。グラスにシャンパンを注ぐと、技師さんは無言のうちに黒いカーテンを開けた。
 部屋はたちまち茜色に染まった。
 空と海が夕焼けに包まれている。
 海に溶ける太陽があまりにもきれいで、窓から目を離せなかった。
 小さな太陽みたいなキウイごと一気にシャンパンを飲み干し、技師さんはあたしをまじまじと見た。
「あなたはこの仕事に就いてどのくらいになるの?」
「今日だけのお手伝いなんです」
「だと思った。エプロンはサイズが合ってないし、シャンパンを開けられない給仕には、はじめて会う。本業は? 学生さん?」
「はい。……続けられるか、迷ってますけど」
 うみねこシネマも、好きなものもない今、もし溺れてしまったら、あたしはもう二度と浮上できなくなるかもしれない。想像することすら、怖かった。
 技師さんは、にいっと口の端を吊り上げる。
「ちゃんと生きてるってことだ。時代は常に変わるから、人生は迷路だらけだ。考えもしなきゃ、迷うことすらできないもんだよ。人生の先輩として言えることはね、映画を観るといいってことくらいだ。映画は、世界をのぞく窓だから」
 その言葉を、どこかで聞いたことがある気がした。
 あたしが並べるお料理を、技師さんは次から次へと平らげて、グラスを何度も空にした。おいしそうな料理にお酒が進むのは無理もないが、仕事はこれからだろうに、ボトルはもうすぐ空になりそうだった。酔っているせいなのか、技師さんはよくしゃべった。
「時代と真っ向から組み合って変化してきた芸術って、他には思いつかないよ。もとはカメラ・オブスクラ、〈暗い部屋〉って呼ばれた、穴を開けた箱。そこから写真が生まれ、連続撮影できるようになり、投影技術と結びついて、映画が生まれる。それからもタフに繊細に、変わる世の中を映しながら、変化し続けてる。変化は生き物の特権だよ。映画は常に今を生きてるんだ」
 技師さんは立ち上がって、フィルムを見せてくれた。モノクロの画面には何が映っているかよくわからなかったけど、黒と灰色の濃淡の上に、白い点が星のようにまたたいていた。
「今じゃほとんどデジタルだけどね。好きなんだ、フィルムが。映画が光と影でできてるって、思い出させてくれるから。ちっぽけな箱に開けた針穴からでも、光は射し込んで、像を結ぶ。それがいくつも連なって、画になるんだ」
 技師さんはグラスをぐいと飲み干すと、おかわり持ってきて、とシャンパンボトルを差し出した。ラベルにはノンアルコールと書かれていた。

 夕闇の海辺に佇む、イルミネーションで飾られたビストロつくしは、映画の一場面のようにきれいだった。ギャルソン氏がテントのひとつから顔を出し、手招きする。入口をイルミネーションで縁どったテントをのぞき込み、思わず声が出た。
 なんの映画に迷い込んだかと戸惑うような空間だった。シャンデリアと無数のランタンが輝き、円筒形のストーブには青い炎がゆらめいている。金糸銀糸の綾なす厚手の絨毯や、アンティークの家具が行儀よく並ぶ。そこにしっくりと収まっていたのは、うみねこシネマのあの椅子によく似た、青いヴェルヴェットの椅子だった。
「あちらはお任せを。開店前の慌ただしい中ですが、賄いをどうぞ」
 ギャルソン氏はシャンパンボトルを受け取り、料理の前にあたしを座らせた。白いクロスのかかった楕円のテーブルには、技師さんに届けたのと同じ、おいしそうな料理が一皿に盛り合わされていた。キウイの入った背の高いグラスに、気泡をきらめかせながら淡く色づいた液体が注がれる。
「お仕事前ですから、ノンアルコールのシャンパン、正しくはスパークリングワインです。完熟キウイとお楽しみください。お料理は左上から、きのこのコンソメ、季節野菜のミルフィーユ、牡蠣のムニエル・トリュフ風味、秋ナスのキャビア風ポム・スフレ添え、さつまいもと栗のクロケットでございます。あたたかいうちに、どうぞ召しあがれ」
 軽やかな足取りで、ギャルソン氏はテントを後にした。
 弾けながらのどを伝う爽やかさに、キウイの甘酸っぱさがにじんで、食欲を掻き立てる。
 湯気ののぼるきのこのコンソメは、デミタスカップに少しばかりなのが惜しいほど、幾種類ものきのこのうまみがひとつに溶け合い、舌をよろこばせる。色とりどりの断面がきれいな季節野菜のミルフィーユは食べるのがもったいないくらい。ぷりぷりとした牡蠣には焼き色がつき、これがトリュフの香りなのだろうか、口に入れると複雑な味と香りが絡み合った。ボールのように膨らんだポテトチップ、ポム・スフレは見た目もかわいらしく、ナスのキャビア風のまろやかさとの食感の対比が楽しい。ひとくちサイズの小さなクロケットからは、自然な甘みのクリームがとろりと流れて、口中に広がる。さつまいもと栗を味わいで確かめれば、頬がゆるんだ。
 お腹も満ち、仕事に戻ろうとするのを、戻ってきたギャルソン氏が押しとどめる。
「もう少々お待ちください。シェフが瑠璃さんのために腕を奮っていますから。本日のスペシャリテは、ピオニエのメルヴェイユ。すぐにお持ちしますよ」
 ギャルソン氏は、テントを出ると大きく伸びをして、体を左右にゆっくりと揺らした。

 ほどなく届けられたスープ皿には、夕暮れの海が浮かんでいた。
 両手でそっとすくいあげてきたみたいに、海老やムール貝が盛り付けられている。
「ピオニエのメルヴェイユ、お料理は、夕暮れブイヤベースでございます。新鮮な海の幸をどうぞご堪能ください」
 鼻先をくすぐるのは、浜辺に漂っていた、あのおいしい香りだ。
 白身魚や帆立貝が心地よさそうに浸る夕暮れ色のスープを、滴らせながら口に運ぶ。
 ほんのひとさじで、全身に、ゆたかな海がめぐった。
 海老や魚介類の豊潤なうまみが、さざなみのように寄せては返し、味わいが余韻を引いて消える。そのうまみをたっぷりとまとった幅広の麺が、海の幸の下にはひそんでいた。
「お食事中、失礼ながら」
 入口から届いた声は潮騒と溶け合い、大半が耳に届かなかった。白い調理服姿のそのひとの手には籠が握られていて、なにかを届けに来たのだとわかる。シェフ氏は、食べかけのスープをのぞき込み、頬をぷっくり盛り上げた。
 クリームパンのような大きな手が、スープ皿の縁に、小ぶりなパンを添える。
「大海原に漕ぎ出すには、これがあった方が、安心ですから」
 それは、小さな船に見えた。
 ぴんと張った月桂樹の帆に風を受け、出航を待つ船のように。
「ピオニエとは、開拓者や先駆者のことです。どんな分野でもそうしたひとたちは、迷うことも多いでしょう。ブイヤベースは、私ら料理人を迷わせる料理でもあるんです。同じ名の料理でも、中に入れるものは店や家庭によって違いますから。南仏マルセイユでは、ブイヤベース憲章なるものを制定して本格派を認定していますがね、それでもみんな自分ちのが正統派だと言って、譲らずに好きなものを入れる。メルヴェイユは驚きって意味ですよ。迷いながらも好きを貫いてあれこれ試すから、おいしい驚きに出逢えるんです」
 料理についた仇名のような言葉には、そんな意味が込められていたらしい。
 好きなもの、と口にすると、胸が疼いた。
「あたしの好きなものは、もう、なくなってしまって」
 火事に遭って、と口にした途端、鼻の奥がしびれ、スープの海がぼやける。ハンカチに手を伸ばす前にもう、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出ていた。自分で発した言葉なのに、身を切り裂くようで、あたしは無言で、涙を流し続けた。
 やさしい声が、潮騒に重なった。
「いちばん大事なものは、残っているじゃありませんか」
 シェフ氏は、船ですよ、と囁く。
「あなたの心が動いたこと、思い出してみてください。これまで出逢ったおいしいもの。すてきだと感じたこと。ひとつやふたつじゃないでしょう? そうやってあなたの中に蓄えた形のないものは、消えちゃいませんよ。映画だって、フィルムからデジタルへ、物から形のないデータに変わっても、肝心の中身は変わりません。それがあなたの船です。大海の荒波に漕ぎ出す時の支えに、きっと、なるはずですよ」
 うっすらと息苦しさが襲ってくる。かつて、呼吸がうまくできなかった恐ろしさが、喉元に張り付いているようだった。
「目指す先がわからなければ、船はどこへも行けませんよ……」
 シェフ氏は、線のような目をいっそう細めて、大丈夫、と力強く言った。
「あなたはあなたの人生の開拓者ですよ。未来を切り拓いているから、迷うんです。迷ってもいいんです。たとえ迷っても、どこかへ向かえるって、すごいことです。凪いだ海ではどこへも行けない。変化は、怖いかもしれませんが、特権でもあります。そういえば、監督と話をされたそうですね?」
 あたしが首を左右に振ると、ツリーハウスで会ったはずだとシェフ氏が言う。あのひとは、技師さんではなく、映画監督だったらしい。今日は監督自らが企画した上映会なのだそうだ。
「気難しい方ですから、手こずったでしょう。私もいつも気合が足らぬ覚悟が足らぬと説教されまして。ですが、カメラ・オブスクラの話には、感銘を受けました。暗い部屋にも光は射し込み、像を結ぶはずだと。暗ければ暗いほど、ささやかな光も感じられるはず。あの方には映画、私には料理が、その光でした。あなたにも、感じる光があるはずですよ」
 促されるまま、パンをちぎり、ブイヤベースに浸して口に運ぶ。噛むごとにスープが心の底にしみわたり、じんわりとぬくもりを残すようで、深い息がこぼれ落ちた。
 あたしは、ツリーハウスから見た光の四角形を思い出していた。ぼんやりとした四角形が、やがて輪郭をはっきりと描いた、あの姿を。

 入口を照らしていたイルミネーションが、ふっと消えた。
 シェフ氏はあたしを立ち上がらせ、青いヴェルヴェットの椅子をすすめた。腰かけると、座り心地もあの椅子に似ていて、体のこわばりが少しずつほどけていく。
 その位置からは、正面に、南側の崖が見えた。ただ、その姿は先ほどまでとは変わっている。ごつごつと切り立った表面は、つるりと滑らかな布に覆われていた。
 横に立つシェフ氏が、お、と小さく声を漏らす。
 崖の中腹に、きっぱりとした白い四角形が浮かび上がった。数字のカウントダウンに続いて、白黒の映像があらわれる。
 海が映っていた。
 きらきらと光を反射する海と、戯れるように飛ぶ鳥たち。
 うみねこシネマに飾られていた、あのモノクロ写真と同じ景色が、輝いていた。鳥たちは、猫が甘える時のような声で鳴き、空と波の間を縫うように飛び交っていた。
「映画は、光と影でできていますね。光はそれだけでは輝くことができません。影があるから光の存在に気づくことができる。光も影も両方があるから、心が動くんですよ。私は思うんです。すばらしい芸術と、おいしい料理があれば、どんな影に包まれても、光を見失わずにいられるんじゃないでしょうか。そんな料理は世界で一番おいしいんじゃないかと」
 映像には時折、雨のような光の筋が現れた。フィルムについた傷なのだとシェフ氏が教えてくれると、静かな感慨が、波紋のように広がっていく。
 映画では、傷さえも、光になるのだ。
 まばゆいばかりの光の雨の中、鳥たちが大きな声を上げて、一斉に飛び立った。

「間もなく開店しますよ。準備は万全でしょうね?」
 テントの入口からギャルソン氏が顔をのぞかせると、シェフ氏は飛び跳ねるように出ていった。椅子から立ち上がろうとするあたしを、ギャルソン氏はまたも押しとどめた。
「瑠璃さんはデザートの試食をなさってください。これも立派なお仕事ですから。本日のデザート、メルヴェイユのパルフェです。エスプレッソとご一緒にお楽しみください」
 ギャルソン氏は、椅子横のコーヒーテーブルに、銀のトレイごと小さなコーヒーカップと小ぶりなパフェらしきものを置く。
 脚付きグラスにこんもりと盛られた白いクリームと、その表面を覆うようにたっぷりかけられた削りチョコが、甘い香りを放つ。ビスケットを添えたその姿はかわいらしかった。
「メルヴェイユには、素晴らしいという意味もあるんです。その名を持つフランス・ベルギーの伝統菓子をパフェに仕立てました。パフェの語源パルフェは完璧という意味ですが、フランスのパルフェはもっとシンプルで、アイスクリームに冷たい果実を添えたものだそうです。港が変われば料理も変わります。私どもなりの、素晴らしく完璧なデザートにしてみました」
 スプーンを差し入れると、さくっと小さな音がした。口に含むと、なめらかなクリームの中に、さくふわしゅわっと、不思議な食感がある。知っているようなはじめてのような口当たりに驚くあたしを、ギャルソン氏が楽しげに見ていた。不思議な食感の正体は、メレンゲだという。掘り進めると、キャラメルがけナッツのカリカリとした歯触りと、ドライフルーツの甘酸っぱさが加わり、まさに完璧という感じがした。
 甘くとろけた口をエスプレッソの香ばしさが引き締めてくれると、あたしの頭も冷静さを取り戻し、このお店には、本当は手伝いなんて必要なかったんじゃないかと思えてくる。
 お料理だって、賄いにあんなに手間暇かけたものを作るだろうか。お客さま用に準備したものだったんじゃないだろうか。もしかしたら、このデザートも。
 わざわざたずねるのも野暮に思えて、形にならない思いを、あたしは感謝とともに胸に深く抱きしめた。
 かわりに聞いてみると、この椅子は、監督が昔の知人から譲り受け、ビストロつくしに委ねたのだそうだ。店には、今日はじめて、並べたという。映画は世界をのぞく窓だというあの言葉は、優未さんと寧子さんから聞いたのではなかったか。
「ご実家へはもう迷わずに帰れそうですか?」
「はい。船を、教えてもらえましたから」
 あたしは、椅子のなめらかな青い布地に手を滑らせた。
 場がなくなっても、形がなくなっても、あたしの中に積もった想いやつながりは変わらない。
 そして、好きなものは、増えれば増えるほど、あたしを強くする。
 ギャルソン氏は満足そうに頷いた。
「もしも迷った時には、おいしいお料理を。できればあたたかいお料理を召しあがってください。では、次の電車の時間まで、こき使わせていただきますよ?」
 いたずらっぽく瞳を光らせるギャルソン氏に続いてテントを出ると、空には、星が光っていた。

 宵闇の覆う空に、いくつもの、ささやかな光がまたたいている。
 かつて星の光をたよりに大海原を航海したひとがいた。
 あたしは、あたしの光と船をたよりに、漕ぎ出せる。
 崖の中腹には、真っ白い四角形が映っていた。
 その光の中に、あたしの映画が動き出すひそやかな気配を、感じていた。