鞄から取り出したたまごサンドは、ぺしゃんこにつぶれていた。
食べ損ねた昼食のパンは買った時の半分以下の厚みになり、フィリングは無残にもはみ出して、包装フィルムにへばりついている。短時間で手を汚さずに食べるのは難しそうだと判断して、僕はたまごサンドをそっと鞄に戻す。
わずかな休憩時間が終わろうとしていた。
舞台袖にスタンバイした出演者たちは、ストレッチしたり、体を小さく動かして振りをさらったり、小さな声でメロディや歌詞をなぞったりして、思い思いに心身のコンディションを整えている。客席側に設けたオーケストラピットからは、難しいパッセージや音階の練習など、さまざまな音が聞こえる。残響が少なく、生の音がすっと消えていくのは、ここがコンサートホールではなく、ミュージカル用に設計された劇場だからだ。すべての音はマイクを通り、音響システムから各客席へ届けられる。
僕はインカムを手に取り、各セクションに確認を済ませると、全体にアナウンスを入れる。
「舞台稽古、はじめます」
開演前の舞台袖は、夜明け前よりも暗い。
客電がすうっと落ちて、客席と舞台が濃厚な闇で結ばれる。楽団の奏でる音楽に耳を傾ける瞬間、僕たちはともに新しい世界につながる扉に手をかけるのだと思う。
やがて客席と僕らを隔てる幕がゆっくりと上がり、ふたつの世界が、つながる。
ミュージカルの醍醐味はひとつふたつには絞りきれない。洗練された歌とダンス、練り上げられたストーリー、華やかな衣装やこだわりの舞台美術に、贅沢な生演奏。緻密に設計された照明や音響、映像など、それぞれの高い技術が響き合って、約二時間半、ひとつの舞台を作り上げる。
劇場は多くのひとにとって非日常であるかもしれないが、そこで多くの時間を過ごす僕らにとっても、特別な場所だ。
舞台の上には、魔法が生きている、と僕は思う。
舞台袖で極度の緊張に震える出演者が、舞台に出た瞬間に別人のように輝き出すのを何度も見た。主演の白帆なつめさんにしてもそうだ。稽古場で何度も聴いていたのに、舞台で聴く彼女の歌は重力が増して、劇場内のすべてが引き寄せられていく気がした。
そう話すと、壱青さんは、ふん、と思いきり鼻を鳴らした。
「魔法? んなもん、あるわけないでしょうが」
客席に設けられた演出家用の机に肘をつき、長すぎる前髪の奥からつぶらな瞳を光らせて、びっしり書き込みされた台本をめくる。
「ロマンチストだね、紺堂くんは。百歩譲って魔法があるとしても、それは勝手にそこらへんを漂ってるわけじゃなくて、俺らが手塩にかけて作り上げるものだと思うよ」
演劇にオペラ、ミュージカルと幅広く演出するイッセイ・タカサカの名は海外でも知られていて、はじめて一緒に仕事をするのは、僕と白帆さんくらいのものだ。
壱青さんと白帆さんは世間的には「夢の初共演」と言われているが、ここではひそかに「悪夢の初共演」と囁かれている。芸術家肌で次から次に新しいことを思いつく壱青さんと、ストイックで生真面目な白帆さんはとことん意見が合わず、議論が長引いて、稽古が予定通り進んだ試しがない。
舞台稽古時間はかなり余裕を持たせたのに、それすら大幅に超過して、一幕を終えたのは、二幕終了予定時刻をさらに過ぎた頃だった。
壱青さんが、柔和な笑顔で丁寧に、無理難題をふっかけてくるからだ。
迷惑を被るのは付き合わされる出演者だけではない。心労の重なったプロデューサーの胃には穴があいたし、壱青さんの思いつきを形にしたり、一度作ったものを変更したりするスタッフ側も、作業に追われる。さきほども演出を大幅に変え、舞台美術にも飛び火して、直し時間の確保にてんてこ舞いしている。
舞台監督である僕の仕事は、監督と名はついても、一般的な言葉のイメージとは違うかもしれない。映画監督よりも建築などの現場監督の役割に近い。仕事内容は多岐にわたり、劇場入りしてからは主にスタッフの統括と進行、安全管理などにあたる。搬入設営から公演終了後の撤収まで、現場実務の一切合切を取り仕切る役割上、各方面からの苦情や愚痴や鬱積した怒りは僕のもとに集まってきて、壱青さんのもとに届くのは稀だ。物怖じせず彼に盾つくのは、白帆さんくらいのものだろう。その白帆さんもまた、一筋縄ではいかない相手ときている。
舞台監督の仕事で特に重要なのは「時間」の管理だ。最大のミッションは「初日の幕を開けること」。常にそこを基準に、カウントダウンしながら、全体の進捗を確認して調整する。
僕は下手側の舞台袖にある舞台監督卓に戻り、照明や音響など各セクションと調整を済ました。さすがになにか腹に入れておこうかと、再び鞄からたまごサンドと水を取り出したところ、飛んできたものに虚をつかれた。スイカだった。
いや、正しくはスイカ模様のビーチボールだ。スイカやビーチボールを小道具に使う予定はなく、首を捻っていると、肩にぽんと手が置かれた。
「ごめんねー、それ、僕の」
その声で、水澤さんだとわかる。デミグラスソースのような声と評される白帆さんの相手役で、ベテラン俳優ながら気さくで無邪気で、とても自由なひとだ。
「ちょっと緊張が抜けなくてね、体をほぐしてたんだ。奈落でやってたら叱られてしまって」
「舞台まわりは危ないので、楽屋でやっていただけると」
「楽屋はねぇ、ほらあの、白帆さんの隣だから」
肩をすくめるところをみると、既になにかあったらしい。おおかた壁にでも打ち付けて、うるさがられたのだろう。
「そういえば紺堂ちゃん、これもらった? 楽屋前にあったんだ。お詫びにあげるよ」
水澤さんは衣装のポケットからごっそり紙切れを取り出して、一枚を僕にくれた。
「割引券ですか?」
「夜市やってるんだって、隣の百貨店で。夜の部終演後に超特急で身支度整えて走ってけば、一杯ぐらいありつけるかな」
「走って怪我でもしたら大変ですよ」
「だったら紺堂ちゃんも一緒に行こう。君バックヤードに精通してるでしょ。僕たちが協力したら最短距離で行けるじゃない」
「考えときます」
にこやかに水澤さんが立ち去ると、大道具からセットを見てほしいと呼び出しがかかった。たまごサンドと水を諦めて鞄に戻し、舞台の真下にあたる奈落を目指す。
客席から見える舞台は、舞台空間のほんの一部にすぎない。
左右にある舞台袖や舞台奥などの空間のほか、照明や舞台セットなどをバトンで吊りあげる上部の空間、舞台に昇降させるセリ機構を持つ奈落など、お客さまの目に触れない部分が、舞台を支えている。ほかにも、舞台を囲むようにあらゆる角度から照らすことのできる照明、どの席にいてもよく聴こえるよう設計された音響設備、演出効果を高める映像技術や、舞台に本当に雨を降らせることもできる特殊な水道設備など、魅力的な劇空間を作り上げるための技術の粋がここには詰まっているのだ。
劇場に足を踏み入れるたび、先人たちの知恵と工夫の結晶に、胸が熱くなる。
演劇と違いミュージカルでは、初日の幕が開いた後は、上演内容をほぼ変更しない。
舞台にかかわるひとびとにとって「初日の幕が開く」ことが、どれほど大きなことか。そのよろこびと重さを、僕らはそれぞれに抱えているのだと思う。
問題のセットに辿り着くと、塗装の一部が円くひび割れていた。先ほどの舞台稽古ではなんともなかったらしい。僕はスイカを思い浮かべて心の中でため息をつき、頭を下げながら補修作業可能なタイミングを相談した。
廊下に出るなり悲鳴が聞こえ、見れば衣装室から誰かが飛び出していった。室内をのぞくと、立ち並ぶ衣装の森の向こうからスタッフが現れ、すごい剣幕で僕に安全管理の徹底を訴えた。その手にはスイカが抱えられていた。げんなりとして舞台に戻ると、なにやら空気が張り詰めていた。
舞台袖に集まったプロデューサーと出演者たちが、おろおろと舞台の方へ視線を送っている。ひと目見て、これはまずいとわかった。白帆さんと壱青さんがやりあっているのだが、壱青さんの顔からは、いつもの微笑みが消えている。
対する白帆さんの背中もいつにもまして反り返って見える。
「真面目な話をしているんです。ふざけないでいただけませんか?」
「俺も真面目に話してるんだよ」
それが壱青さんの怖いところなのだ。冗談にしか思えないような無茶を本気で言ってくる。
僕は舞台に駆け出して、二人の間に割って入った。
「あの! どうかされましたか」
白帆さんの険しい瞳が僕に向けられる。足がすくみそうなほど、熱を持った視線だ。これを始終受け止める水澤さんの緊張が抜けないのも無理はない。
「壱青さんが、一日を四十八時間にしろとおっしゃるんです」
壱青さんは、両手の平を上に向けて、なぜ理解できないのかとでも言いたげだ。
「時間は自在に伸縮するものだろ?」
「時計で計れる時間の話をしています」
どうやら二人の諍いの原因は、さきほど大幅に変わった演出についてらしかった。その変更に伴って、玉突き事故のようにあちこち影響が出る。稽古に入る前に、すべての状況を一度洗い直すべきだと白帆さんは指摘するが、壱青さんは先に進めたい。
時間の余裕はたしかにない。僕らに残されたのはあと二日で、三日後には初日を迎える。
「大丈夫でしょう、君たちなら」
「大丈夫かどうかをちゃんと確認したいんです」
二人の優先順位は違っていて、互いに一歩も引かないが、その間にも時間は刻々と進んでいく。幕を開けるためには、どちらにも与せず、どちらとも敵対せずに、なんとか和解してもらわなければいけない。僕は必死に頭を巡らせる。
「どうでしょう、お二人の気になるところに半分ずつ取り組むというのは?」
白帆さんから注がれる冷たい視線と、壱青さんのおそろしいばかりの笑みに、僕はたじろいだ。
「頭を冷やす必要があるな」
言い捨てるように壱青さんが舞台上手に消え、白帆さんは反対の下手側から舞台を立ち去った。演出家不在ならば稽古は続行不能だ。少なくとも壱青さんが戻るまでは中止せざるを得ない。
「監督さーん、火に油注いでどうすんだよ」
「これ以上稽古が延びて、直前まで変更が出たらとても対応できませんよ!」
「衣装、メンテナンス入っちゃっていいですか? このあと稽古ありませんよね?」
僕はあちこちに頭を下げながら、たまごサンドを思い出した。ぺしゃんこにつぶれ、惨めにはみ出したフィリングに、今は親近感すら覚える。
水澤さんは、こんなおっかない現場ははじめてだと身震いし、スイカを両手で抱きしめて楽屋へ戻って行った。
対応に追われる僕のもとに、白帆さんがいないという報せが届いたのは、十五分後のことだった。楽屋にも姿はなく、荷物もなくなっていた。青ざめたプロデューサーは、舞台横に祀られた神棚に熱心に手を合わせ、時折胃のあたりをさする。
このまま演出家と主演が決裂したら、稽古は進まず、舞台の幕も開かない。
僕が、なんとかしなければ。
スマートフォンと財布を尻ポケットにねじ込むと、僕は通用口目指して、走り出した。
*
こんな時にどこへ行くかわかるほど、僕は白帆さんを知らない。
だけど僕ならば、まっすぐ家に帰りたくなくて、気持ちが鎮まるまでぶらぶらするだろう。それには静かな場所よりも賑やかな場所が落ち着く。たとえば隣の百貨店のような。
とはいえ、地下から八階までの老舗百貨店の賑わいの中から、たったひとりの女性を捜し出すのは至難の業だ。考えてみれば僕は、白帆さんの私服姿だって見ていないのだ。
店内は冷房が効いているのに、競歩のような速度で歩き続けたせいか汗が噴き出て、こんなことならあのたまごサンドを食べておくべきだった、と切に思う。体に力が入らず、三階を過ぎたあたりから脚が重くなり、階を上がるたびに体のあちこちが軋んで、八階を歩き終える頃には、めまいがした。
事態はさらに悪化して、壱青さんも劇場から消えたと連絡が入った。体を二分割して捜しに行ければと考える自分に、壱青さんの無茶が伝染ったらしいと知る。熱のあるひとなのだ。不可能を可能にする方法をいつも考えている。
白帆さんを見つけられず、諦めてエレベーターの前に立つと、夜市のポスターが目に入った。
ポケットに手を突っ込み、水澤さんからもらった割引券を取り出す。楽屋前にあったのなら、白帆さんもこれを見ている可能性は、ないだろうか。開いたエレベーターに乗り込み、僕は、屋上階のボタンを押した。
ゆっくりと開いた扉の先は、別世界だった。
夜空と街の夜景を背に、屋台とキッチンカーが立ち並ぶ。大小のテーブルが空間を埋め尽くし、その頭上を色とりどりの提灯や電球が飾る。屋上庭園は異国情緒あふれる巨大な夜市に様変わりしていた。いろいろな国の言葉で書かれたメニューや貼り紙が示すように、店員も集うひとたちも多国籍で、湿気と熱気を孕んだ夏の宵の空気さえもこの場所の魅力を増す舞台装置のように思える。
中央に据えられたステージでは生バンドが小粋なジャズを奏で、その奥のイルミネーションに飾られた一角には、ブルーグレーと淡いクリーム色の縞模様の小さなサーカステントがいくつも並んでいた。
ビアジョッキやグラスを傾けるひとびとの間を縫って白帆さんを捜すが、さすがに疲れてきたらしく、足はもつれ、体全体に砂が詰まったように重く感じる。
立ち止まると、隣に佇む黒塗りのキッチンカーから、おいしそうな香りと、調子はずれの鼻歌が流れてきた。中で白熊のような大きな背中が、バンドの演奏する「Tonight」に合わせて、フライパンを揺らしていた。ジャズのスタンダードナンバーはブロードウェイミュージカルから生まれたものも多く、つい口ずさみたくなる気持ちがよくわかる。
あんなふうに機嫌よく作られた料理はどんな味がするのだろう、と一歩踏み出した瞬間、強いめまいに襲われた。
なにかがおかしかった。冷や汗が噴き出してきて、体の軸が定まらず、変だなと思っている間に、あたりの光量がすうっと落ちていく。誰かが客電を落としたんだな、と意識と体がふんわりした瞬間、腕を強く掴まれた。
猫だ、と思った。
背の高い、目を光らせた黒猫が、抱き留めるようにして僕をのぞき込んでいた。彼はすばやく僕の腕の下に潜り込み体を支えると、こちらへとやさしく囁いて、すぐそばのサーカステントに導いた。
シックな色合いのテントには、ひんやりと心地よい空気が満ちていた。
夢を見ているのだと思った。そうでなければ、ひどく肌触りのいいソファも、テント内に広がる空間も、説明がつかない。テントの中はシャンデリアと大小のランタンで飾り立てられ、ヨーロッパアンティークらしき家具が威厳たっぷりに据えられて、まるでよくできた舞台セットのようなのだ。こんな空間が劇場以外にあるわけはない。
とりわけ目を惹くのは白いクロスのかかった楕円のテーブルで、中央にはみずみずしい緑の葉と、星を散らしたような青い小花が飾られていた。
僕をソファに横たえて、黒猫は冷たいタオルを首のうしろに押し当てる。
「少しずつでいいので、飲んでください」
黒猫の差し出したグラスの中身はえもいわれぬほど甘く、こんなにおいしい飲み物があるのかと、夢に感謝を覚える。おいしいと伝えると、彼は顔をしかめた。
「それ、経口補水液です。体調がよい時にはとてもおいしいとは言えません。ところが脱水症状を起こしかけていると、この上なくおいしく感じるんです。ゆっくりでいいので、全部飲みましょう」
黒猫はてきぱきと僕の体温を測り、グラスを満たして、未開封のペットボトルと一緒に手の届く場所に並べ、タオルを換えてくれた。
「熱はありませんし、症状も軽そうです。少し休めばよくなるでしょう。眠るのが一番です」
飲まず食わずで、動きすぎたのかもしれないとぼんやり思う。重い瞼を閉じると、ざわめきや音楽が少しずつ遠のいていった。
目覚めた時には、重力が半分になったのかと思うほど体が軽くすっきりとして、経口補水液はちゃんとまずかった。朦朧とした僕を介抱してくれたのは黒猫などではなく黒服姿の給仕係だったが、驚くべきことに舞台セットのようなテントは夢でも幻覚でもなく、本物だった。ここはビストロつくしという飲食店だそうで、どうやら僕はこの忙しそうな時間帯に、図々しくも席をひとつ占領していたらしい。礼と詫びを伝えると、黒猫給仕は首を横に振った。
「どうぞお気になさらず。困った時はお互いさまと言いますから」
とはいえ世話になったのだから、一杯くらいは飲んでいこうとメニューを見せてもらう。飲み物リストだけを見るつもりが、試しに開いた料理のメニューはどれもおいしそうで、とくに一番下に書かれたスペシャリテに、心惹かれた。
「そちらは当店のシェフが、お客さまだけのためにお作りする特別料理です。本日は、トルバドゥールのパシオン。出来上がるまでどんなお料理になるか、私にもわからないのです」
ゆっくり食事する余裕などないと、一度はメニューを閉じたが、次にいつ食事にありつけるかもわからない。また倒れるよりはここで食事を済ませておく方が、賢明に思えた。
「スペシャリテをお願いします。あとこの、旬のフルーツシャンパンを」
黒猫給仕はテントを出ると、数歩進んだところで立ち止まった。足を肩幅に開いて頭上に腕を伸ばし、手を組んで、左右に揺れる。それは風に揺れる植物を表す踊りのようでもあり、ゆったりとした動作がなにか不思議な儀式のようにも見えた。
このまま白帆さんと壱青さんを見つけられなければ、稽古は継続できず、僕ひとりが劇場に戻っても、なんの役にも立たない。これまでにも何度か最悪の事態を考えたことはあるが、今日ほど身近に感じたことはない。なにより、楽しみにしてくれているお客さまを裏切るのは、胸が痛む。
いつの間に入ってきたのか、黒猫給仕が銀のトレイを手に、僕をのぞき込んでいた。
「お加減悪いですか?」
「違うんです、仕事のことで」
「大事な場所であればあるほど、悩みますよね。その憂い、少しでも小さくなるとよいのですが」
静かに並べられたフルートグラスと、豪華な一皿に、目を奪われた。
「こちらは白桃のフルーツシャンパンでございます。お料理は、左上から、トマトの冷製ポタージュ・バジルのグラニテ添え、ナスとエダマメのタプナードサラダ、イカのフリット、夏野菜のピクルス、生ハムとチーズのババロアです」
三日月のような白桃はほんのりピンク色を帯び、立ちのぼる金の泡によく映える。シャンパンに溶け込んだ桃の香りが軽やかに弾け、果肉にはシャンパンが滲み込み、互いの魅力を高め合っている。
少しずついろいろな前菜が盛り合わされた皿は、名曲ばかりを集めたガラ・コンサートのように華やかだ。
ショットグラスに入った赤いのは完熟トマトの冷たいスープで、上に飾られたバジルのシャーベットの香りと混じり合い、体の奥底に眠っていた食欲を起こしてくれる。緑の葉とエダマメの陰からオリーヴのうまみを吸い込んだナスが顔を出す。サラダをまとめるタプナードの独特の風味に誘われて、あっという間にグラスは空になり、白ワインを注文した。
さくさくと軽い歯触りの衣に包まれたイカのフリットが白ワインによく合い、これっぽっちではなくボウル一杯ほども欲しくなる。見た目も歯応えも楽しい夏野菜のピクルスの酸味が口の中を引き締めてくれ、生ハムとチーズのババロアが舌の上でなめらかにほどける。
こんなにも気持ちが浮き立つのは、久しぶりだ。舞台に比べれば、料理を味わう時間は格段に短いが、うれしさや驚きを味わう楽しさは、ブロードウェイやウエストエンドの上質なミュージカルにも通ずる。
やがてステージから、耳慣れたフレーズが聞こえはじめた。
歯切れのよいリズムに、ゆったり上下するベースライン。ピアノと管楽器が奏でる、メインテーマ。大好きな舞台の代表曲に、僕も指でリズムをとりたくなる。
CMにも使われていたから、よく知られているのだろう。テントの入口から見えるひとびとも、指先や足でリズムをとっている。
あの中に舞台を観たことがあるひとはいるだろうか。もしいるのなら、グラスを交わし、語らいたいくらい、好きな作品だ。
舞台なら、ここで男性コーラス、と強く思いすぎたせいだろうか、どこからか歌声が聞こえてきた。
視線を走らせると、長テーブルの端で男がひとり立ち上がり、歌っていた。ワンフレーズごとにあちこちの席から立ち上がるひとは増え、ぱらぱらと手拍子が起こりはじめた。女性たちも加わり、ハーモニーが夜市全体に広がっていく。
全員が帽子を被っている以外は服装もバラバラで、Tシャツにデニムのカジュアルなひとから、お店のユニフォーム、スーツ姿など、見た目はごくふつうのひとと変わりない。
だが、違う。
踏み込むステップ、帽子を小道具として扱う仕草、そしてなによりその発声は、たゆまぬ鍛錬の賜物のはずだ。彼らは障害物をものともせず、軽やかにステップを踏みながら列をなし、テントの入口が切り取る風景を横切って消えた。
たまらず立ち上がり、僕はテントの外へ出て、彼らを追う。
ステージの前に一列に並んだ彼らの帽子は、いつの間にか金色のシルクハットに変わっていた。高らかに歌い上げられる「One」のメロディと息の合ったダンスに、夜市の客たちは手拍子でひとつになって、心を重ねている。どの顔にも笑みが浮かび、胸が熱くなる。
なんてしあわせな風景なのだろう。
歌声は、ひとが最初に触れた、音楽であったろう。
舞や踊りは、ひとが捧げる、祈りの形であったろう。
時代がどれほど変わっても僕らは芸術の大きな腕に抱かれてそれぞれの生命を旅する。国や民族、文化が違っても、もっと個人的な、それぞれのくらしの背景が違っていても、ひとはこうして同じものに心を震わせることができる。
そんな舞台を、僕も届けたい、と強く思った。
嵐のような拍手の中、彼らが退場するのと同時に、ステージ上には金のシルクハットを被った女性が颯爽と現れ、舞台「コーラスライン」の公演を案内した。彼女は心なしか、黒いキッチンカーの方へウインクしたように見えた。
テントに戻ろうと振り向くと、すぐ後ろに、壱青さんが立っていた。さらに、僕の隣のテントから顔をのぞかせていたのは。
「白帆さん!」
僕らはそれぞれ、この店に辿り着いていたらしかった。
互いに顔を見合わせる僕らを、通りかかった黒猫給仕が、不思議そうに見つめた。
*
「まさか壱青さんと紺堂さんがいるなんて。テントの中なら誰とも遇わないと思ったのに」
黒猫給仕の計らいで、二人は僕のテントにやってきて、三人でテーブルを囲んだ。
「白帆さんがいなくなってしまったと聞いて、捜しに来たんです」
「え? 私の楽屋に夜市の割引券を置いたのは、紺堂さんじゃなかったんですか? てっきり、『頭を冷やす』手配をしてくださったのかと」
「僕じゃありません。壱青さんですか?」
「俺でもないよ。俺はプロモーションを観に来いと呼び出されたんだ。さっき公演案内してた女性がいたろ? 稽古中だと言ったら割引券を山ほどくれたから」
それが楽屋前に置かれて、誰かが白帆さんの楽屋に置いたらしい。そういえば、割引券を詫びがわりに配っていたひともいた。
「なにはともあれ、壱青さん、白帆さんとこうしてお話しできる機会が持ててよかったです。初日の幕を開けるために、建設的に話し合いましょう」
だが議論はどこまでも平行線を辿った。
「よりよい方法を思いついたら、取り入れないのは、創造性への背徳だよ?」
「それを舞台上で実現できるかどうかは俳優の鍛錬あってこそではないですか?」
「時間は有限なので、まず今できることを決めませんか」
彼らは互いに譲らず、歩み寄りの気配すらない。
頭を抱えているところに、黒猫給仕が料理を携えて、するりと滑り込んできた。
白帆さんは鶏のオリーヴ煮、壱青さんはブッフ・ブルギニョン、それぞれの料理に合わせてワインが注がれる。
そして、僕の前には、マッシュポテトの上に載った大きなソーセージが置かれた。添えられたクレソンの茎と比べると、その太さが際立つ。
「お待たせいたしました。本日のスペシャリテ、トルバドゥールのパシオンでございます。吟遊詩人の情熱と名付けた一皿、自家製のソーセージにアリゴを添えました。あつあつのうちにどうぞ召し上がれ」
太いソーセージにはこんがりと焼き目がつき、フォークを刺すとぷつりと小気味のいい音を立てた。ナイフを添わせれば透明な肉汁があふれ出し、マッシュポテトをつやつやと光らせて、クレソンの緑に映えた。口に入れると、粗挽き肉のほどよい弾力が食欲を掻き立てる。
アリゴというのは、フランスの郷土料理でチーズ入りのマッシュポテトのことだそうだ。スプーンですくうと驚くほどよく伸びた。持ち上げたスプーンが鼻から眉、頭上を越えても、搗き立ての餅のようにまだ伸びる。かすかに感じるにんにくの香りとなめらかなマッシュポテトに、滋味深いチーズの味わいが溶け込んで、手を止められない。なにより面白いのは、その粘り強さだ。この料理は温度が大切で、冷めると伸びなくなるという。料理の熱がアリゴをどこまでも伸ばすのだ。
僕らも似ているかもしれない。
かかわるひとびとの熱が集まった作品ほど、不思議とお客さまのもとへそれが届くように思う。
もしかしたら僕に必要なのは、時間を優先して壱青さんと白帆さんに和解や妥協を促すことではなく、むしろ彼らの熱を守ることではないのか。
さきほどのパフォーマンスに感じた、心を交わし合える舞台を届けたいという思いは、作品への熱と粘り強さから生まれるのではないか。
僕は肚を括って、居住まいを正した。
皿に置いたスプーンが音を立て、壱青さんと白帆さんが僕の方を見る。
「お二人に、譲歩するおつもりが全くないのはよくわかりました。それで結構です。もしお二人の言うことを両方とも叶えるなら、どうすればそれが実現できますか?」
熱弁をふるう僕の耳に、小さな咳払いが聞こえた。
「お取り込み中にすみません」
テントの入口に大きな男がのっそりと立っていた。あの白熊のような料理人だった。彼は僕らの皿をのぞき込むように首を伸ばし、うれしそうに目を細めた。
「お楽しみいただけましたか。自分で言うのもなんですが、今日は特別おいしくできたと思うんですよ。ご覧になりましたか、さきほどのすばらしいダンスと歌! ミュージカル、ご覧になったことはあります?」
僕らは思わず顔を見合わせる。白帆さんが、大好きです、と微笑みを返すと、白熊料理人は何度も首を縦に振って、熱く語った。
「歌やダンスやお芝居だけじゃありません、素敵な舞台美術や衣装、照明、音響、生演奏。多くのひとたちが心をひとつにして作り上げるなんて、すごいことですね。うちは二人だけの店ですが、心をひとつにするなんて難しくて仕方ありません。それぞれ考えの違う人間同士が心を重ねるって、大変なことですよ。彼らは作品世界を旅しながら、私ら見る側を歌や踊りに乗せて、その旅に引き込んでくれる。いわば現代の吟遊詩人、トルバドゥールだと思うんです」
たしか料理に、そんな名前がついていた。
「トルバドゥールの語源は一説によると、生み出すひと、らしいです。きっとミュージカルの舞台には、そんなひとばかりがいるのでしょうね。情熱を持ったひとたちが。そうそう、ご存じですか? 隣の劇場で、もうすぐ新しいミュージカルがはじまるそうですよ」
壱青さんが白帆さんと僕を交互に見て、白熊料理人に笑いかける。
「きっとそこにもいるよ。そういう熱い連中が、たくさん。舞台の表にも裏にもね」
白熊料理人は、すばらしい、と声を上ずらせて頬をぷっくり盛り上げた。
「世の中ってやつには憂いが多いですがね。すばらしい芸術と、おいしい料理があれば、憂き世を乗り越えていける気がするんです。心が満ち、お腹も満ちたら、それは世界で一番おいしい料理なんじゃないかって、思うんですよ」
テントの外から、白熊料理人を呼ぶ声がした。
「お客さまのお邪魔はそのくらいに。注文がたんまり溜まっていますよ」
白熊料理人はカーテンコールみたいに大袈裟な礼をして、いそいそとテントを後にした。入れ替わりに訪れた黒猫給仕は、僕らの前にデザートを並べる。
「本日のデザートは、ベリーのエクレアと、ヌガーグラッセでございます」
エクレアにかじりつくと、カスタードクリームとともに挟まれたブルーベリーやラズベリーから果汁がほとばしり、甘酸っぱく広がった。
エスプレッソにたっぷりの砂糖を加えて、壱青さんが僕に問う。
「どういう心境の変化? 両方するには時間がないんじゃなかった?」
「気づいただけです。初日の幕を予定通りに開けることと、最高の初日の幕を開けることとは、違うかもしれないって。もちろん両方が重なるのが一番いいですが。壱青さんも白帆さんも、最高を目指しているんでしょう?」
白帆さんはエスプレッソを一気に飲み干した。
「それは、最高の演出家がいるんですから。その思いを最大限に実現したいですよ」
「それは俺も、最高の役者とスタッフが揃ってるんだから、存分に力を引き出さなきゃ、失礼だろ?」
「そうと決まれば、一刻も早く劇場に戻りましょう。存分にぶつかってください」
手早くヌガーグラッセを口に放り込む。ピスタチオとナッツの入った氷菓子は、冷たくもふんわりと軽い口当たりが雪解けを思わせ、ナッツ類の香ばしさと洋酒の香りが余韻を残す。
会計を済ますと、黒猫給仕が僕に耳打ちした。
「シェフからの伝言です。アリゴには友情のリボンという別名があるそうですよ」
礼を言い、僕は先を歩く二人の背中を見つめた。熱と熱がぶつかり合えば、さらなる熱が生まれるだろう。思いを重ねるひとが増えれば熱はより高まり、アリゴのじゃがいもとチーズみたいに分かちがたく結びついて、どこまでも伸びていくのかもしれない。
僕らの他には誰もいない劇場前の広場を歩きながら、僕はある曲を思い出していた。舞台「コーラスライン」の終盤で、愛のためにしたことに後悔はないと歌う曲だ。コーラスラインとは、主役とその他大勢の出演者を分ける、一本の線のこと。物語を舞台から社会に置き換えると、ひたむきに日々を生きる僕ら自身の物語に思えてくる。
今から僕らは、これまでよりも大きな困難に立ち向かうのかもしれない。だけど僕も、悔いはないと言える自分でありたい。
僕は、舞台には、やはり魔法があると思う。舞台のこちら側の熱が客席に届き、お客さまひとりひとりの熱に温められて、劇場全体を包み込んでいく。その時僕らは、互いに共鳴して、心を響かせ合う。
白帆さんが、夜空に向かって、オープニングナンバーを歌い出す。
その瞬間、わかった。
魔法は、舞台だけにあるわけじゃない。誰かが情熱を燃やす場所に生じるのだと。
真っ暗闇の中で今、目に見えない幕が開き、世界をつないでいく。