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第23回 | Bunkamuraドゥマゴ文学賞

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第23回 Bunkamuraドゥマゴ 文学賞 受賞作品

恩田侑布子 著

『余白の祭』

(2013年3月 深夜叢書社)

選 考 松本健一
賞の内容 正賞:賞状+スイス・ゼニス社製時計
副賞:100万円(出席ご希望の方はパリ・ドゥマゴ文学賞授賞式にご招待)
授賞式 2013年11月8日(金)
同日開催される受賞記念対談に抽選で30名をご招待します。
受賞ないし選考委員への質問ないし感想を必ずお書きください。
出席者は応募者ご本人に限りますので、複数でご出席の場合は別々にご応募ください。
申込受付:受付終了しました
受賞者プロフィール
恩田侑布子(おんだ ゆうこ)

1956年静岡市生まれ。静岡高校時代に俳句と短歌を始め、毎日新聞の飯田龍太特選入選、高安国世入選を重ねる。早稲田大学第一文学部文芸専攻卒。種村季弘・池内紀・平賀敬らの「酔眼朦朧湯煙句会」、草間時彦捌の連句「木の会」の句座を楽しむ。現在「豈」同人、現代俳句協会会員、日本文藝家協会会員、SBS学苑俳句講師。家業・志戸呂焼心齋窯。句集に『イワンの馬鹿の恋』『振り返る馬』『空塵秘抄』。他に共著多数。

選評

「〈近代的自我〉の表現を超えて」/ 選考委員 松本健一

 新人賞でなく、よく出来た小説への賞でもなく、現在衰弱している文学シーンを刷新するような変革のエネルギーを秘めた作品を選びたい。――これが、Bunkamuraドゥマゴ文学賞の選考にあたってわたしが考えた選考基準だった。
 というのも、近代文学は基本的にビルドゥングス・ロマン――ふつう教養小説と訳されるが、正確には自己形成小説――の構造をもっているから、その「形成」された「自己」を見てくれ、つまり“look at me”(私を見てくれ)という性格をもっている。しかし、その私=近代的自我が社会を変え、組織を超えて存在するという文学幻想は、近代が成立した十八、九世紀ならいざ知らず、現代ではもはや容易に成立しない。
 そこで、近代的自我のなれの果てであるミーイズムは、私はこっちのほうが好き、あるいは私は「違いがわかる」という趣味のレベルに陥ちこむのである。これによって現代文学は、音楽やポップアートやアニメの後塵を拝するようになった。
 そういった現代文学の閉塞状況に風穴をあけるような作品が、恩田侑布子さんの『余白の祭』(深夜叢書社)という現代芸術論集・俳句論集だった。恩田さんが「余白」の思想いや美学として話題にしているのは、直接的には、俳句の世界である。つまり、〈近代的自我〉の自己表現の終わった「余白」の部分で、そのさきにどんな世界と時間がひろがっているかを伝えようとするのが、俳句だ、というのである。
 恩田さんは、戦後、日本の短詩型文学に衝撃を与え、いまもなお呪縛している桑原武夫の「第二芸術――現代俳句について」いわゆる俳句第二芸術論に対し、「俳人から評判が悪いこの論文がわたしは好きです」とのべる。それは、俳句(と短歌)が同好者だけの特殊な世界をつくり、その閉鎖的な人間関係のなかで楽しむ「芸事」になっている、という桑原の立論に基本的に同感しているからだ。「芭蕉の生涯の作一千句でさえ玉石混交です」とも。
 にもかかわらず恩田さんは、桑原の俳句第二芸術論は要するに〈近代的自我〉による自己表現論である、と反論する。それは、一方で、高浜虚子の「花鳥諷詠」論に打撃を与えることができず、社会や時代と関わらない「屋上庭園」の歌をうたわせることになった。また他方で、水原秋櫻子の「自我肥大」派つまり「自意識がひとり歩きをはじ」める前衛俳句の流れを生みだすことにもなった、と。
 恩田さんによれば、俳句は〈近代的自我〉の自己表現が終わったところに天籟(てんらい)を聴く芸術である。として、『荘子』にある「昭氏の琴」のエピソードに言及する。――昭氏は琴の名手である。昭氏は力いっぱい、その琴を奏でる。それは〈近代的自我〉の完成に等しい。しかし、昭氏が演奏をやめたあと、天空=宇宙は全き混沌=諧調に満たされる。これが天籟(宇宙の音)である。それゆえ、「昭氏の琴」は宇宙に満ち溢れる混沌の中の「小さな成功の一音」にしかすぎない、と。
 この『荘子』解釈は、昭氏はいちどに一曲しか奏でられない、という荘子論の権威、福永光司の解釈を超えてもいる。この恩田さんの『荘子』解釈に従えば、芭蕉の名句「閑(しずか)さや岩にしみいる蟬の声」も、岩にしみいるまでにひびく蟬の声(いわば近代的自我)のさきに存在する「閑(しずか)さ」を聴いたところに、芭蕉の偉大さ、そして俳句という芸術が存在することになる。
 それゆえ、恩田侑布子の現代芸術論は、自己一個の「身体」と「環境」すなわち大いなる宇宙をつなぐところに、俳句という芸術を位置づけることになる。
 これによって評価される種田山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」については、「茂みから墨染の山頭火がヌッと現れそうな迫力」を感じとるとともに、「分け入るごと」にひろがってゆく青い山つまり「いのちの流転するこの世の総体」をも読みとるのである。また、橋本多佳子の「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」については、「雪はげし」の現在と「抱かれて息のつま」った過去との、「はげしくぶつかり合」う二つの時間を読みとる。見事な読みである。

松本健一(まつもと けんいち)

歴史家、麗澤大学教授。評論、評伝、比較文明論など多方面で活躍中。『近代アジア精神史の試み』でアジア太平洋賞、『日本の近代1 開国・維新』で吉田茂賞、『評伝 北一輝』(全5巻)などで司馬遼太郎賞、同書で毎日出版文化賞を受賞。他に『海岸線の歴史』『砂の文明 石の文明 泥の文明』など多数がある。

受賞の言葉

綠潭(りょくたん)から / 受賞者 恩田侑布子

 「暑かったでしょ」
灼けたみかげ石に、一杯の水をざぶんとかけた。寝転がっていた母が振り向く。紅とベージュの小柄のアッパッパーからはみだした白い二の腕が伸びて、吸いつくように水を飲んだ。鼻の頭がびっしりと汗ばんでいる。アルマイトの柄杓(ひしゃく)ひとすくいの水。時は一挙に押し寄せる。時間は殺到する。何処に行こうとして。
 寺には四、五羽のアヒルがいる。池へ降りるささやかな土の階段をおともする。グゥェッコ。グゥェッコ。尻をふりふり黄色い趾が一段ずつ、はんこのように着地する。時はアヒルに押し寄せてこない。いっしょにきれいに進んでいる。
 『余白の祭』は、十六年の間に書き溜めた散文集である。登場する人は、芭蕉、山頭火、蛇笏などの俳人から、釈尊、荘子、ダンテ、志ん生など、こころの中に深く根を生やしてしまった人ばかり。秀(ほ)つ枝(え)まで見はるかすことの叶わない大樹たちだ。わたしの十六年など、大木のこぬれの花の香にうたれたに過ぎない。千年樹の森は、苔を敷いてさらに奥へと続いている。一冊の本にしてカタがついたのではなく、逆にうなる蟬時雨を抱えこんでしまったようだ。
 「いばらの道が楽しいんじゃないか」
現代美術家の多い酔眼朦朧湯煙句会では、大いに励まされた。自由を手放して、なめらかに高速道路を走っても、なんにも味わえない。小さな賞にも縁がなかったが、生きて書いていられれば幸せ。そう思っていた矢先である。広々した文学の場で賞をくださる方がいるという。お会いしたこともない松本健一先生とのつながりは、『余白の祭』純粋一冊。四一三頁が鵲(かささぎ)の橋になって星空に架かる。なんてキレイな賞だろう。わたしを駿河の山中から掘り出してくださったことに、どう感謝したらいいのだろう。
 Bunkamuraのレストラン、ドゥマゴパリの本家は、パリのサン・ジェルマン・デ・プレにあるカフェドゥマゴだと、事務局から教わる。不思議な名前ドゥマゴは、店頭に飾られた「二人の中国人形」のことで、その含意は、気まぐれ、休息、放心、饗宴、快楽など、謎めいて多層的という。気に入った。要するにわけがわからない渾沌なのだ。
『荘子』の渾沌は、南海から儵(しゅく)、北海から忽(こつ)という時の人がやってきて、渾沌のおもてなしのお礼にと、おためごかしの七つの穴を与える。渾沌は死んでしまう。わたしのなかの渾沌も縮んでいないだろうか。アジア全体を見渡す文明思想家でもある松本先生から、「現代文学の閉塞状況に風穴をあけ」よ、という選評を戴いた。畏れ多いと思うたじろぎを、燈明のエネルギーに変えて、照らされて歩いていこう。渾沌は風の親分、風穴の盟友にちがいないから。
 発表までは、いままで支えてくれた方々にお礼をいいたくても言えない。大好きな川遊びを思い立つ。むらぎもをほどく淵を求めて、大井川の接岨峡(せっそきょう)へと山越えする。川が大きく蛇行する山裾に、綠潭(りょくたん)が現われる。臙脂(えんじ)の吊橋が線のような影を落とす。家族は河原で鉄板焼きに余念がない。わたしはさっそく川に身をしのばせる。蛙泳ぎしながら両手で分ける水には、満山の青が溶け込んでいる。足のつかないゆるやかな潭。時のみなもとに向って、時の未来に向って泳ぐ。山奥の空気に染まるまで身をゆすいでいる秋(あき)茜(あかね)。子どもの頃から、苦しいときも淋しいときも受け止めてくれたふるさとの山河に、水の中からお礼を言った。驟雨が来る。銀色のなゆたの流星が降り注ぐ。
 これからも、十五の時に出逢った初恋の男、『荘子』に惹かれていくのだろう。俳句から見た唯識、日本文化、美術など、学びつつ書いていきたい。みずからを思えばすぐわかる。人間は弱くて愚かだ。百年生きたとしても命は短い。はかないことの価値。弱さと愚かさの価値を発見していこう。ジャンルの垣根を越えて、ひっかき傷くらいの小さなことばで、どこまでも飛び込んでゆきたい。

   石抛る石は吾なり天の川  侑布子