山田和樹 マーラー・ツィクルス

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2014.12.17 UP

Column:2 マーラーの交響曲とファンファーレ

前回のコラムでは、マーラーの交響曲においてその響きを豊かにする様々な要素について概観したが、今回はマーラーの交響曲に特徴的な要素の「ファンファーレ」に注目してみたい。

彼の交響曲の多くの場面に、ファンファーレを想起させる動機が現れる。私はそれを「マーラー・ファンファーレ」と呼んでいる。これは他の作曲家の交響曲にはほとんど見られない特徴だろう。しかもそれは、何の脈絡もなく唐突に表れることが多く、マーラーの交響曲の劇的な世界を作り出す要因の1つにもなっている。ではマーラーの交響曲においてファンファーレはどのような役割を果たしているだろうか。

交響曲第1番の第1楽章では、冒頭部分でファンファーレが劇的な効果を持っている。ここでは、木管楽器やホルンがピアニッシモでゆったりとした旋律を奏でるが、その中で異質なものが闖入するかのごとく、トランペットが舞台裏からファンファーレを奏でる。また、同じ楽章の終盤では短調によるグロテスクな旋律が続く中、あたかもその流れを変えるかのように突如力強いファンファーレが鳴り響き、曲は一転して明るくなるのである。ファンファーレの効果というべきだろう。そして同じ個所は終楽章の最後でも再び現れる。

軍隊のラッパを思わせる第1番とは対照的に、第3番のファンファーレは全く異なる世界を描く。それが前回も紹介した第3楽章のポストホルンのテーマである。交響曲第3番の第3楽章はスケルツォで、風刺の雰囲気に満ちた音楽が支配的となるが、その中でポストホルンのテーマは性格が全く異なっている。舞台裏で鳴り響くこの旋律は、静けさの中で牧歌的な雰囲気を持っているのだ。ある研究者はこのメロディを「孤独な音が森の中をあてどなくゆっくりと流れていく」と評している。

そしてそれと似た雰囲気のファンファーレは第7番の第1楽章にも見られる。この楽章の中盤では夜の静けさを思わせる神秘的な雰囲気の中で、ファンファーレが静かに鳴り響く。それは第1番のような唐突に挿入されたものではなく、曲の雰囲気の中に見事に溶け込んでいる。

さらに、ファンファーレが死のイメージと結びついている例もある。それが交響曲第2番と第5番、そして第9番である。

交響曲第2番はよく言われるように死と復活を描いた作品である。そして終楽章の冒頭ではトランペットとトロンボーンが分散和音を力強く吹く。この旋律を「恐怖のファンファーレ」と呼ぶ研究者もいる。そしてその伴奏として高音楽器がフォルティシシモで荒々しく和音を鳴らす。この和音はマーラー自身「死の叫び」と呼んでおり、さながら悲鳴のごとく響く。恐怖の叫びを表した「耳障りな」和音と短調によるファンファーレの組み合わせに、当時の聴衆はいかに衝撃を受けたことだろうか。

また同じように「死」と関連性を持っているのが、第5番第1楽章のトランペットの主題である。この主題はいわゆる葬送行進曲である。その旋律はマーラーの曲の中でも特に有名で、初めて聴く人どこかで聴いたような印象を持つ人もいるかもしれない。あのベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭主題の音形を逆にしたような感じである。

そして晩年に書かれた交響曲第9番も、「死」の世界とは無関係ではない。特に第1楽章は明るくもなく陰鬱でもない、人生の諦観を思わせる空気に包まれている。そのような中、曲の後半では、葬送行進曲のごとくファンファーレが鳴り響く。しかもその葬送行進曲は第5番のように荘重なものではなく、えも言われぬ神秘的な暗さの中であてどなく漂うように響く。

以上のように、マーラーの交響曲の中でファンファーレが果たす役割やもたらす効果は曲によって様々である。しかしなぜ、マーラーは初期から晩年に至るまでファンファーレを交響曲の中に用い続けたのだろうか。マーラーが幼いときに過ごしたボヘミアのイグラウという街で兵舎から聞こえたラッパの音の影響であると指摘する研究者もいる。もしそうであるならば、子供時代の音楽体験の反映を通して自らのアイデンティティを示す、いわば自己刻印としての意味をファンファーレに与えたかったのかもしれない。そしてそれが曲ごとに様々なコンテクストで様々な性格で現れているのである。

ただいずれにしても、それらのファンファーレは曲の中で「異質なもの」として現れ、聴き手をあっと驚かせるマーラー流の仕掛けとなっていることには違いないだろう。マニアックな話ではあるが、このような所に目を向けるのもマーラーの交響曲の楽しみ方の1つではないだろうか。

(文・佐野旭司)