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ロートレック・コネクション
愛すべき画家をめぐる物語
2009年11月10日(火)−12月23日(水・祝)
Bunkamuraザ・ミュージアム

展覧会紹介・ロートレックの交友関係

〜愛すべき画家をめぐる物語〜

 「僕はどこの流派にも属していない。僕には僕の居場所がある。やっぱりドガとフォランはすごいけど」。1891年に開催された「印象派と象徴派の画家たち」という展覧会に参加した際、こう言い切ったロートレックとは確かに独自な、極めて個性的な存在だったが、一匹狼ではなかった。それどころか、多くの仲間たちとの交流の中から、あの比類なき芸術を打ちたてるのである。もちろん画家の先輩や友人たちの存在は大きかったが、ロートレックをロートレックたらしめたのは彼らだけでなく、キャバレーの経営者から娼婦にいたるまでを含めた身近な人々であった。
 19世紀末のパリを駆け抜けた不世出の画家の物語。それは、そういった人々との様々なコネクションが奏でる夜想曲なのである。

伯爵の息子

 ロートレックといえば、パリの夜の街を思い浮かべる人も多いのではなかろうか。実際、よく知られた作品は、ベルエポックのショー・ビジネスに関連する主題を扱っている。
 しかしその宵っぱぐれも、もとは南仏アルビ生まれの、狩猟と馬を愛する少年であった。本名アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864−1901)。姓の綴りに小文字のde(ド)が入るのは貴族の印である。先天的に骨の弱かった少年は、11歳のとき低い椅子から落ちて左大腿骨を骨折、翌年右大腿骨を骨折し、足の成長が止まり、胴体だけが発達した後の姿がここで決まってしまう。しかし馬には乗れなくとも、馬の絵は描きつづけた。ロートレックはこの不幸な事故のある前から絵をよく描いていたのである。一時パリに住んでいたころ、父は息子に馬術と、動物画家プランストーのもとで絵を習わせ、息子もそれが気に入っていた。このパリの数年間はロートレックにとって比較的穏やかな時代だった。このとき知り合った親友モーリス・ジョワイヤンは後に彼の画商となり、健啖家であったロートレックが書き残した料理のレシピを整理集成することとなる。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
Musée Toulouse-Lautrec, Albi-Tarn-France

画塾での出会い

画家を目指すようになったロートレックが運命の地モンマルトルにやってきたのは、画塾があったからで、コルモンの画塾もやはりここにあった。当時はパリ郊外だった場末のモンマルトルは家賃も安く、芸術家たちの集う場所となっていた。二十歳のころにはここに引越し、仲間の画学生と界隈のキャバレーやダンスホール、カフェ・コンセールに通うようになる。当時の仲間には、アンクタンやベルナール、ドニそしてゴッホもいた。ロートレックに多大な影響を及ぼす日本美術との出会いは、当時浮世絵に夢中になっていたゴッホがきっかけであった。またベルナールを通じてポンタヴェンにいたゴーギャンと、平坦な色面の導入や、線描による本質的な形の探究などと言った共通の理念をもつことになる。
 一方、新しい表現方法を追い求めていたロートレックは、マネ、ドガ、フォランといった画家に対し、改革派の先輩として敬意を払っていた。1883年、母には「革命万歳!マネ万歳!印象主義の風がアトリエに吹く」と書き送っている。また言うまでもなくドガからは、踊り子や娼婦といった主題の選択において大きな影響を受けている。

モンマルトルが育てた画家

 モンマルトルの歓楽街抜きにはロートレックを語ることはできないが、ポスターや挿絵などの分野ですでに活躍していた先駆者がいた。スタンランやシェレである。ロートレックはこれらの画家との出会いを通じて、自らこの分野に取り組み、当時は低く見られていたポスター美術を「芸術」の域にまで到達させる。ロートレックが挿絵画家としてのデビューを飾ったのは1886年、モンマルトルの人気キャバレーの情報誌『ミルリトン』のために描いた挿絵であった。またポスター作家として広く世に知られるようになったのは、1891年、ダンスホール「ムーラン・ルージュ」のために初めて制作したポスター《ムーラン・ルージュのラ・グリュ》であった。当時の美術の本流で実践されていた前衛的傾向や日本美術の影響(ジャポニスム)などが織り交ざったそれらの作品は、独創性と芸術性において高く評価され、ロートレックの名を不動のものにするのである。
 しかしロートレックという天才を可能にしたのは、なによりもそのモンマルトルの歓楽街を支えていたスターたちであった。ロートレックを育てるのは、常に人なのである。イヴェット・ギルベールやジャヌ・アヴリル。破天荒にして個性豊かなこの連中は、ロートレックに霊感を与え創造意欲を刺激し、多くの傑作を世にもたらした。モンマルトルに取材した一連の作品は、現場の様子を伝えるルポルタージュであると共に、優れた肖像画として評価されるべきものでもある。的確な観察。モデルの性格を見抜き、特徴を最大限に捉えて描かれた肖像には、強い存在感と本物らしさが宿っている。
 またモンマルトルでの多くの出会いのなかで、特記しなくてはならない女性がいる。シュザンヌ・ヴァラドンである。1865年、洗濯女の私生児として生まれ、パリに上京し、いつしか画家たちのモデルとなる。ルノワールやシャヴァンヌ、そしてロートレックと、優れた画家たちの仕事に直に接するなかで、彼女も絵を描くようになっていったが、その才能を見出したのは1886年頃からしばらくの間同棲していたロートレックであった。なお、彼女が18歳で産んだ私生児が、モンマルトルのもうひとりの語り部である画家のユトリロとなる。

現代生活(モダニズム)の画家

 興味尽きぬダイナミックな街モンマルトルで、ロートレックはさらにその奥に入り込んでいった。1892年からは娼館に住み、社会の底辺に住む娼婦たちを観察し、格調の高い芸術に昇華させた。このように主題の点でも表現形式でも斬新だったロートレックの仕事は、次第に当時の前衛的なグループの注目を集めるようになっていった。
 そのなかで最も重要なのが『ルヴュ・ブランシュ』誌であった。雑誌の主宰者ナタンソン兄弟を通じて多くの人々と知遇を得るのだが、ボナールとは同様の主題とポスターへの興味を分かち合った。またこのサークルを通じてロートレックは画家ヴュイヤールとも知り合う。この画家の描く親密な室内の情景にはロートレックの影響を読み取ることができる。ロートレックが演劇の世界を知ることになるのもこの雑誌を通じてのことで、そこで出会った女優たちを作品に克明に写し取っていったのである。
 こうしてロートレックは多くの人との出会いを通じて、その多様な芸術世界を完成させるに至ったのである。
ロートレックの芸術をその時代というパースペクティブのなかに置きなおすことで、36年という短い生涯のなかで多彩な画家たちとの交流を通して独自の作風を確立していった、ロートレックの多様な面が浮かび上がってくることだろう。    

ロートレックとベル・エポックの画家たちの交友関係

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (Henri de Toulouse-Lautrec/1864‐1901)

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
Musée Toulouse-Lautrec, Albi-Tarn-France

19世紀末のパリを駆け抜けた天才画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。
南仏アルビで1000年以上の歴史ある貴族の家に生まれ、生まれつき虚弱な体質から、少年時代の骨折がもとで両脚の成長が止まるという不幸に見舞われます。幼少時代から素描の才能を示していたロートレックは画家になることを決意し、大衆文化に花開いた「美しき時代ベル・エポック」のパリへ。なかでも彼が住み着いたモンマルトルは、「ムーラン・ルージュ」をはじめとするダンスホール、カフェ・コンセールやキャバレーなどの娯楽施設が立ち並び、多くの市民や観光客でにぎわう歓楽街として栄えていました。そこでロートレックは、ダンスホールや劇場、娼館などに入り浸り、歓楽の世界に生きる人々の華やかな姿や悲哀を描き数々の傑作を残しました。その大胆で斬新な画面構成によるオリジナリティあふれる作品は、当時の画家たちに大きな影響を与え、また同時に、同時代を生きたマネ、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、ヴュイヤール、そしてボナールらとの交友が、ロートレック独自の作風を作り上げていきました。

ロートレックを巡る交友関係

1880年頃 モンマルトルにあるコルモンの画塾で、アンクタン、ベルナール、ドニ、ゴッホらに出会う
同時期、ゴーギャンとも知り合い制作においての共通理念を持つ
1885年頃 シュザンヌ・ヴァラドンと出会い、同棲する
1889年頃 敬愛するドガに出会う
1890年頃 ポスター・挿絵分野での先駆者スタンラン、シェレらと交流
*1891年ポスター《ムーラン・ルージュのラ・グリュ》制作
1892年頃〜 『ルヴュ・ブランシュ』誌の仕事を通じ、ボナール、ヴュイヤールら多数の知遇を得る

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