マリー・ローランサンとモード

SPECIAL

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マリー・ローランサン美術館館長が語る、
ローランサン作品の魅力 その1

マリー・ローランサンの世界最大級のコレクションが、ここ日本にあることをご存知でしょうか? 現在コレクションを管理している、マリー・ローランサン美術館館長の吉澤公寿氏に、なぜローランサンの世界最大のコレクションが築かれてきたのか、その経緯とともに、ローランサンの作品の魅力や本展を楽しむためのポイントなどについてお話を伺いました。

世界最大級のコレクションが、日本に存在する理由とは

当コレクションは私の父、高野将弘によって築かれたものです。父は1922(大正11)年、長野県に生まれ、早稲田大学を卒業後、1952年に東京にタクシー会社「株式会社グリーンキャブ」を設立したほか、仙台市、水戸市や長野県下などにも関連会社20数社を経営してきました。戦後の日本の高度成長期に、文化的な嗜好で美術品に興味を持ち始めながら、その資産価値にも着目し、蒐集に力を入れていきました。

自宅に飾られていた絵画作品の中で、わたしが個人的に最も記憶に残っているのは、藤田嗣治の少女と東郷青児の作品群です。その他、織田広喜、長谷川泰子、原弘、森田茂、そして水野富美夫らによって描かれたものなど、父が蒐集した作品は、ローランサン以外にも、女性像を描いたものが多くありました。それらの収集の背後には、両親が、わたしを含め5人の男の子には恵まれたものの女子は得られなかったことで、「女の子」に対して憧れにも近い感情を抱くようになり、その思いが両親の絵画の選択にも影響したと考えられます。

両親は、1984年の訪仏時にパリ、サントノーレ通りのポール・ペトリデス画廊で、ローランサン亡命期1916年の傑作《鏡を持つ裸婦》を粘り強い交渉の末、購入していますが、うちの父は、まるで娘ができたような気がした、と言っていますので、余計に入れ込んで、ローランサンを集めていった、というわけです。

美術館設立のきっかけは、フランス大使館のアドバイスだった

その後、うちの父が、ある会社の更生管財人となり、1981(昭和56)年暮れに、会社更生法の適応を受けた株式会社ビラ蓼科の経営を引き継ぐこととなりました。その山岳リゾートホテルの経営に際して、顧客誘致のために何か目玉になるようなものを作りたい、ということで、ホテル敷地内の道路に面した小さな一画が空いていたので、その場所にローランサンの作品を飾ることを父が決めました。それが最初に作品を買い集めるきっかけとなりました。

当初は、サロンといった小規模な展示室をつくる程度の考えでしたが、ちょうど建築工事が終了し、展示室をお披露目する予定の時期が、偶然にも画家の生誕100周年にあたることが分かり、公開に際して「ミュゼ(美術館)」と名のるべきだと駐日フランス大使館からの助言を得たことで、マリー・ローランサン美術館の建築を構想しました。それが、父を世界最大のローランサン・コレクションのオーナーへと導く事となったのです。画家のメモリアルな年に、美術館と称して開館するからには、ある程度作家の人生を通観できる必要性があり、博物館法に準じた体制を整えるためにも、コレクションを自社のグリーンキャブに移管して、作品の補填を行うこととなりました。こうして1983年7月14日、重要な初期の自画像を含む油彩22点のほか、水彩や版画など、全体で46点のコレクションを公開するマリー・ローランサン美術館が開館しました。

蓋をあけてみたら大成功で、開館後、連日人が押し寄せる結果となりました。これは、リゾート地の美術館としては先駆けだったと思います。その頃、わたしはフランス文学科の大学生でしたので、フランス文学をやってるなら、ということで父からの命で、わたしも手伝うことになり、海外のオークションまで作品を買い付けに出向きました。当時は、ゴッホのひまわりを現在のSOMPO美術館が購入して話題になっていた頃です。ジャパンマネーが大きく動いていたその頃にわたしも海外のオークションで、ローランサンのいわゆる初期から晩年までの傑作といわれるものをほぼ買い付けて集めていきました。そういった経緯で総点数は、油彩油で98点のほか、水彩、版画、その他を入れると600点以上のコレクションにふくれあがりました。今世界中の美術館で回顧展を開催するというと、ローランサン美術館の所蔵作品がないとできないくらいのコレクション数となっています。

※マリー・ローランサン美術館は、1983年~2011年まで、長野県蓼科高原にて開館したのち、2017年~2019年まで東京・ホテルニューオータニに開館。現在はコレクションの公開はしていない。

マリー・ローランサン 《マドモアゼル・シャネルの肖像》 1923年 油彩/キャンヴァス オランジュリー美術館 Photo © RMN-Grand Palais (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ローランサンもシャネルも、
愛称は「ココ」
同じ年に生まれた二人の接点とは

1918年、第一次世界大戦が終結した後の1920年から30年ごろまで、パリには様々な人々が集まり「狂騒の時代(レザネ・フォル)」と呼ばれる時代を迎えました。当時、社交界の花形として君臨したポーランド出身のピアニストのミシア・セールの紹介によってシャネルは、自分と同じ「ココ」の愛称を持つ、大画家と称されていたマリー・ローランサンに出会います。シャネルはファッションデザイナーとしての成功の証にローランサンに肖像画を依頼し、ローランサンはシャネルの店の顧客となります。しかしシャネルはその強い個性から、ローランサンの描いた美しい肖像画の描き直しを要請します。それに対してローランサンは「シャネルはそれはとっても良い子なんだけれど、所詮オーヴェルニュの田舎娘よ。この田舎娘に、私は譲歩なんてしないでしょうね」とこの絵を画商のポール・ギョームに売却してしまいます。その後二人は時代を代表する女性としてマスコミに取り上げられ、社交界の華となります。

吉澤公寿氏プロフィール

1961年東京生まれ。私立暁星学園から立教大学文学部フランス文学科を卒業し、父親の高野将弘が経営するタクシー会社、グリーンキャブの役員に就任、学芸員資格を取得し、マリー・ローランサン美術館の担当となる。1998年フランス共和国文化通信省の実習生としてパリ第9大学で文化金融・経済・マネジメントの研修を修了。現在グリーンキャブ・クループの常務取締役、およびマリー・ローランサン美術館館長。パリ、スイス・マルティニ、台北、台中、ソウル、ニューヨークなどでのマリー・ローランサン展のコミッショナーを務め、国内の多くの展覧会にも協力をしている。2005年にフランス政府からフランス文化紹介の功績により芸術文化勲章シュヴァリエを叙勲されている。

取材・文 小林春日(アートアジェンダ) 撮影 各務あゆみ