マリー・ローランサンとモード

COMMENTARY

章解説

1 狂騒の時代レザネフォルのパリ

Section 1Paris in the age of “Les Années folles”

1920年代パリ―それは戦争の惨禍を忘れるかのように、生きる喜びを謳歌した「狂騒の時代」。かつて平和と繁栄を享受していた戦前の古き「良き時代」への回帰を願いながら、一方で過去と決別し新たな歴史の創造へ向かったこの時代、キキ・ド・モンパルナス、ジョセフィン・ベイカーなど新しいスターたちに導かれるように、祝祭的、芸術的、知的興奮がモンマルトルからモンパルナスへと広がりました。

この熱気渦巻くパリに、確かな足跡を残した二人の女性がいました。マリー・ローランサンとココ・シャネルです。奇しくも1883年という同じ年に生まれ、美術とファッションという異なる分野に身を置きながら、互いに独自のスタイルを貫いた二人は、まさに1920年代のパリを象徴する存在でした。社交界に属する優美な女性たちの「女性性」を引き出す独特な色彩の肖像画で、瞬く間に人気画家に駆け上がったローランサン。一方、シャネルの服をまといマン・レイに撮影されることはひとつのステータス・シンボルとなっていきました。その写真の多くは後に『ヴォーグ』などの雑誌に掲載され、オートクチュールに身を包んだ女性たちは、時代のファッションを作り上げていくことになります。

ローランサンが描く
社交界の女性たち

マリー・ローランサン 《マドモアゼル・シャネルの肖像》 1923年 油彩/キャンヴァス オランジュリー美術館
Photo © RMN-Grand Palais
(musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

マリー・ローランサン 《ピンクのコートを着たグールゴー男爵夫人の肖像》 1923年頃 油彩/キャンヴァス パリ、ポンピドゥー・センター
Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / image Centre Pompidou, MNAM-CCI / distributed by AMF

マリー・ローランサン 《黒いマンテラをかぶったグールゴー男爵夫人の肖像》 1923年頃 油彩/キャンヴァス パリ、ポンピドゥー・センター
Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / image Centre Pompidou, MNAM-CCI / distributed by AMF

マリー・ローランサン 《ヴァランティーヌ・テシエの肖像》 1933年 油彩/キャンヴァス ポーラ美術館

マリー・ローランサン 《わたしの肖像》 1924年 油彩/キャンヴァス マリー・ローランサン美術館 © Musée Marie Laurencin

2 越境するアート

Section 2Collaborations of Artists

1920年代のパリを語るうえで欠かせないキーワード「越境」。そこにはふたつの意味が込められています。ひとつには国境を越えること。スペインからピカソ、アメリカからはマン・レイなど、世界中から多くの若者がパリに集まり、その才能を開花させています。故国の伝統とパリの国際性。そのふたつが見事に融合した時、独自でありながら普遍性を備えた、彼らだけの表現が可能となったのです。

そしてふたつめは、ジャンルを越えること。美術、音楽、文学、そしてファッションなど、別々の発展を遂げてきた表現が、新たな総合的芸術を生み出すために、垣根を越えて手を取り合いました。その代表的なもののひとつがセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ「バレエ・リュス」です。フランスを中心に活躍したこのバレエ団は、「越境」の持つふたつの意味を体現する、まさに1920年代パリを象徴する存在でした。ローランサンとシャネルも、その活動に参加することで表現の幅を広げ、新たな人脈を形成する糸口をつかみました。ブルジョワ芸術であった舞台の世界に、ピカソやブラックなど前衛芸術家の才能を引き寄せたこともバレエ・リュスの成果のひとつですが、その陰にはジャン・コクトーなど、前衛と社交界をつなぐ重要な存在があったのです。

ローランサンの作品さながらのバレエ『牝鹿』
ニジンスカ、プーランクら多彩な個性が集結

マリー・ローランサン 《牝鹿と二人の女》 1923年 油彩/キャンヴァス ひろしま美術館

コクトー、ピカソ、シャネルによる
当時の流行を詰め込んだ海辺のバレエ『青列車』

『青列車』 ニジンスカ、コクトー他
舞台写真:バレエ・リュス公式プログラム/1925年より
兵庫県立芸術文化センター、薄井憲二バレエ・コレクション

アール・デコ博覧会

Expo Art Déco 1925

「越境」にはもうひとつ、芸術価値の平等という意味も込められています。絵画や彫刻などの純粋芸術に比べ、工芸や染色、ファッションなどの装飾美術は、一段低い扱いを受けていました。その状況を打破すべく1925年にパリで開催されたのが、現代産業装飾芸術国際博覧会、いわゆる「アール・デコ博」です。諸芸術の平等という理念のもと、芸術と生活を繋ぐため「アンサンブル」という展示方法を用いたこの博覧会。パヴィリオン「フランス大使館」では、アール・デコを代表する装飾家アンドレ・グルーが手掛けた「大使夫人の部屋」の室内装飾に調和するローランサンの作品が提供され、大きな話題となります。ニコルの夫であるアンドレ・グルーとの家族ぐるみの親しい付き合いは、ローランサンが室内装飾の世界へと関心を深める大きな後押しとなりました。

マリー・ローランサン 《鳩と花》 1935年頃 油彩/キャンヴァス(タペストリーの下絵)マリー・ローランサン美術館 © Musée Marie Laurencin

マリー・ローランサン 《鳩と女たち(マリー・ローランサンとニコル・グルー)》 1919年 油彩/キャンヴァス ポンピドゥー・センター所蔵、パリ装飾美術館に寄託
Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / Jacques Faujour / distributed by AMF

3 モダンガールの変遷

Section 3Rise of Modern Girls

1920年代、新しい女性たち、“モダンガール”が登場します。第一次世界大戦を契機とした女性の社会進出、都市に花開いた大衆文化、消費文化を背景に、短髪のヘアスタイル、ストレートなシルエットのドレスをまとった女性が街を闊歩しました。彼女たちは欧米各国に出没し、アジアまでも波及し世界的な現象となります。 こうした身体の解放や服飾の簡素化は、すでに世紀末やアール・ヌーヴォーの時代から進行していました。特に1910年代にはポール・ポワレが、コルセットから解放されたエキゾチックなスタイルを提案し、賛否両論を巻き起こします。やがて1920年代に入ると、ポワレの優雅なドレスよりもより活動的、実用的な服装が打ち出され、中でもココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレスは時代を代表するスタイルに。さらにマドレーヌ・ヴィオネがバイアスカットを駆使したドレスで注目されるなど、他のデザイナーたちも競ってモダン・ファッションに取り組み、女性服を大きく変革しました。

世界恐慌やファシズム台頭による不安な情勢から、1930年代には復古調のロングドレスや装飾が復活します。パリ・モード界でも、シュルレアリスムに影響された装飾デザインのエルザ・スキャパレッリが時代の寵児となり、ファッション雑誌はマン・レイなど気鋭の写真家を起用して斬新な表現や躍動感ある女性像を提示しました。モダンガールもまた時代の息吹を吸って、どんどん変化していったのです。

1910年代
ポワレのファッション

ジョルジュ・ルパップ 《ポール・ポワレの夏のドレス 『ガゼット・デュ・ボン・トン』誌より》 1913年 ポショワール、紙 島根県立石見美術館

ポール・ポワレは1906年に発表したハイ・ウェストのドレスによってコルセットから女性を解放したことでモードの改革者と位置づけられます。ヘレニズム(古代ギリシャ)、オリエント(中近東、日本、中国など)から影響を受けたエキゾチックな彼のファッションは、版画技法を駆使したポショワール画が見事に表現しています。こうした革新的な手法によるイメージ戦略も相まって、ポワレは瞬く間にパリのモード界を席巻しました。

※亜鉛や銅版を切り抜いた型を用いて刷毛やスプレーで彩色する西洋版画の一種

1910-1920年代
帽子ファッションの流行

ガブリエル・シャネル 《帽子》 1910年代 神戸ファッション美術館

ココ・シャネルは帽子デザイナーとしてそのキャリアをスタートしました。1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。続いて1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店すると、ホテル・リッツの裕福な客層がシャネルの帽子店を訪れるようになります。ローランサンの絵画に描かれているように、帽子は重要なファッションアイテムでした。

1920年代
モダンガールの登場

ガブリエル・シャネル 《デイ・ドレス》 1927年頃 神戸ファッション美術館

「ポワレが去り、シャネルが来る」、これはジャン・コクトーの言葉です。複雑で東洋的、演劇的な要素の多いポワレのドレスよりも、人々は短いドレスを夢見るようになります。1926年、アメリカのファッション雑誌ヴォーグで発表されたシャネルの「リトル・ブラック・ドレス」はまさに新しい時代の到来を告げるものでした。ユニフォームのようなニュートラルなドレスに、ジュエリー、スカーフなど、それぞれの女性が好きなように装飾を与えることができる、まさに「新しいエレガンスの方程式」を打ち出したのです。

「シャネルのリトル・ブラック・ドレス」 『ヴォーグ』1926年10月1日号掲載 文化学園大学図書館

1930年代
フェミニンへの回帰

マドレーヌ・ヴィオネ 《イブニング・ドレス》 1938年 島根県立石見美術館

1930年になると、復古調のロングドレスや装飾が復活します。シンプルなファッションよりも女性らしさが求められ、スカート丈は長く、女性的な曲線が好まれ、花柄などのモチーフも多く見られるようになります。ファッションの動向に呼応するように、1920年代末頃からローランサンの作品には、鮮やかな色彩が見られ、真珠や花のモチーフが多用されるように。30年代にはそれまであまり用いられなかった黄色や赤に挑戦し、色彩の幅を一層広げていきました。

ローランサンが描く帽子の女たち

1910年代にローランサンが描いたファッショナブルな人物たちには、帽子、スカーフ、ネックレス、リボンなどのモチーフが繰り返し現れるようになっていきます。ローランサンの母親は、婦人服の裁縫と刺繍を生業とし、女手ひとつでローランサンを育てましたが、母親との生活は画家としてのローランサンの趣向にも大きな影響を与えたと言われています。ローランサンが幼い頃から憧れていた「女性的な世界」のまさに体現ともいえる彼女の作品世界において、とりわけ20世紀の女性のファッションに欠かせない「帽子」に注目してみると、デザイナーたちとの親密な交流を通して、豊かな展開が見られるようになっていきます。

マリー・ローランサン 《ばらの女》 1930年 油彩/キャンヴァス マリー・ローランサン美術館 © Musée Marie Laurencin

マリー・ローランサン 《羽根飾りの帽子の女、あるいはティリア、あるいはタニア》 1924年 油彩/キャンヴァス マリー・ローランサン美術館 © Musée Marie Laurencin

小さいとき、私は絹糸が好きでした、
真珠や、色のついた糸巻きなどを盗ったりしました。
そういうものをうまく隠しておけると思い込んで、
ひとりでこっそり眺めていたものです

マリー・ローランサン

エピローグ ローランサンの色彩パレット

Epilogue. Laurencin’s palette

1983年から30年以上にわたりシャネルのデザイナーを務めたカール・ラガーフェルド(1933-2019)。ローランサンからインスピレーションを受けた彼は、その巧妙で透明感のある色彩を自身のデザインに取り入れました。2011年の春夏オートクチュール・コレクションでは、ローランサンの色使いから着想を得たことをラガーフェルド自身が公言しています。それは画家の初期の色調で、「ピンク、消え入るような淡いグレー、そしてもっと抑えた筆致で、更に黒の点も加わった」もので、まさにローランサンの描く人物像のイメージそのもの。ココ・シャネルのクリエイティブな遺産を受け継いだ現代のファッションに、女性性を追求したローランサンの世界観がよみがえった瞬間でした。

私が好きなのは初期の頃のココ・シャネルだ。
反抗的で気まぐれで、
温水器が爆発して見事な髪が焦げたからと、
オペラ観劇の初日に髪を切った彼女。
愉快なときの茶目っ気。彼女の知性が大好きだ。
私は自分のコレクションをデザインするとき、彼女のことを思い浮かべる。

カール・ラガーフェルド

カール・ラガーフェルド、シャネル
2011年春夏 オートクチュールコレクションより
《ピンクとグレーの刺繍が施されたロング・ドレス》
2011年 パリ、パトリモアンヌ・シャネル
© CHANEL

シャネルはスタイル。
ファッションは移り変わるが、スタイルは永遠

ココ・シャネル

マリー・ローランサン 《ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン》 1922年 油彩/キャンヴァス マリー・ローランサン美術館 © Musée Marie Laurencin

出典:第3章の言葉 マリー・ローランサン・著、大島辰雄・訳「夜の手帖」六興出版、1977年
エピローグ、カール・ラガーフェルドの言葉 P・モーリエ、J.C.ナピアス・編集、小沢瑞穂・訳「CHANEL 自分を語る」さくら舎、2022年