建国300年 ヨーロッパの宝石箱リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展

Topicsトピックス

2019.11.27 UP

【レポート】本展監修者・鈴田由紀夫氏による記念講演会:Part 1

2019年10月24日(木)、『建国300年 ヨーロッパの宝石箱リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展』の開催を記念して、本展監修者・鈴田由紀夫氏による記念講演会「磁器―西洋と東洋の出会い」が開催されました。その内容をダイジェストでご紹介いたします。

 

「どのように本展の陶磁器の出展作を選んだのか」―監修者ならではのお話を聞くことができました。

 


 

侯爵のコレクションへの思い

 

 

10月12日に放映された、本展のテレビ番組(テレビ東京)をご覧になりましたか。そこでは、国家元首のハンス=アダム2世侯がリヒテンシュタインのコレクションについて思いを語っていました。印象に残ったのは、「コレクションのおかげで我が国は生き延びることができました」というフレーズです。戦後、復興の最中で大切なコレクションを売却し、復興後にはそれらを買い戻したハンス=アダム2世侯。コレクションが一国を救うこともあるのだと感じました。

 

このテレビ番組で特に目を引いたのは、ファドゥーツ城の応接間に飾られた1700年頃の古伊万里の花瓶です。有田焼という磁器を通じて西洋と東洋が出会い、実用品として現役で活躍しているということがこの応接間から見て取れます。

 

リヒテンシュタインを訪ねて

 

この展覧会を開催するにあたり、私はリヒテンシュタイン侯国を訪ねました。リヒテンシュタインは多くの人にとって馴染み深い地とはいえないため、興味津々でした。リヒテンシュタインはスイスとオーストリアに挟まれた小国です。チューリッヒからは車で一時間半程度の道のりですが、道中険しくも美しいアルプスの山々を眺めながら移動し、リヒテンシュタインに到着しました。リヒテンシュタインは東西に6km、南北に25kmと世界で6番目の小ささで面積は小豆島ほどですが、ヨーロッパで最も裕福な国だと言われています。

 

リヒテンシュタイン侯国の陶磁器コレクション

 

この侯国のコレクションは本展に出品されたような名画をはじめ、優れた焼き物の数々でも知られています。リヒテンシュタインの首都であるファドゥーツにある中世の古城を訪れ、収蔵庫の棚から様々な候補となる作品を出してもらい、焼き物の借用について検討を行いました。ところがコレクションが多岐に渡ったため、どの作品を選択するかという課題に直面したのです。

 

日本で観られる名品に限定したころで面白みに欠けるため、西洋と東洋を繋ぐような作品が候補に挙がりました。中国陶磁、有田焼、ヨーロッパの焼き物の三種類を中心に、最初に目をつけたのは中国の1600年頃の焼き物でした。

 

中国・景徳鎮窯 《染付芙蓉手花文大皿》17世紀初め 磁器、青の下絵付
所蔵:リヒテンシュタイン侯爵家コレクション、ファドゥーツ/ウィーン © LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna

 

この焼き物を選出した理由は、本作がヨーロッパで人気を博した商品だったからです。その理由は定かではありませんが、日本で「芙蓉手(ふようで)」と呼ばれるデザインの特徴があるためだと考えられます。「芙蓉手」は芙蓉の花を真上から見て、豪華な花びらが開いた様子に由来しています。中国では太陽が輝くようなイメージに基づき、「開光(かいこう)」と呼ばれるデザインです。「芙蓉手」は皿を放射状に区画していくという基本的な構図の特徴があり、その区画した場所に変化に富んだ花などの植物の装飾が施された窓を作ります。このデザインは華やかで見栄えが良いことから、ヨーロッパの人々に広く受け入れられたと考えられます。

 

東洋の焼き物に金具がついたデザインもポイントのひとつです。東洋の焼き物はオリジナルの状態で輸出されましたが、この金具はヨーロッパ人によって付けられたものだからです。金具が付けられた理由は定かではありませんが、これらの焼き物は金具を取り付ける際に穴があけられました。

 

日本・有田窯 金属装飾:イグナーツ・ヨーゼフ・ヴュルト 《染付山水文金具付ポプリ蓋物》
磁器:1670-90年代 金属装飾:1775-85年 磁器:青の下絵付(染付) 装飾:鍍金されたブロンズ
所蔵:リヒテンシュタイン侯爵家コレクション、ファドゥーツ/ウィーン © LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna

 

リヒテンシュタインで施された装飾はヨーロッパ付けの金具の中でも一級品でした。非常に技術が高く立派なこの金具は、青銅(ブロンズ)に金メッキが施されたものです。西洋と東洋がコラボレーションした結果、この東洋の焼き物はこのような姿になったといえ、本展にふさわしい作品として借用することとなりました。この種の焼き物はリヒテンシュタインに多く所蔵されておりますが、どの作品を選択するかという議論の末、アカンサスを模したヨーロッパの唐草模様が描かれた作品が本展に出展されることとなりました。

 

ヨーロッパ人を魅了した芙蓉手は、1600年から1630年頃に制作されました。この種の芙蓉手が興味深い点は、輸出を検討していた有田が中国由来の作品をコピーしたことです。つまり、有田焼は中国を手本に熱心に研究を行い、オリジナルを乗り越えようとしたのでした。中国の人気商品を自分たちもヨーロッパに輸出するため、有田焼は模倣を試みたのです。残念ながら、有田の「芙蓉手」はリヒテンシュタインのコレクションに所蔵されていませんでした。なお、中国・景徳鎮の焼き物は、イランでもコピーされています。

 

陶器と磁器の違い

 

ここで話を変えて磁器と陶器の分類について言及すると、磁器の定型は「白いこと」「硬いこと」そして「光にかざすと少し透けて見える(指の跡や模様が見えることもある)こと」です。磁器の見分け方にはこれら3つの条件が揃う必要があります。ちなみに、陶器は「ボトボト」という音がするのに比べ、磁器は軽くたたくと「キーン」という音が鳴ります。白い陶器は見ただけでは磁器と見分けにくいことがあります。

 

オランダのデルフト焼の見かけは磁器とよく似ています。マヨリカ焼きなどの影響から、オランダではヨーロッパの中でも焼き物の生産が16世紀末頃からいち早くはじまりましたが、残念ながら磁器は独特の原料が必要なため、それらは全て陶器でした。しかしながら、オランダは同時代に高い技術を有していたため、有田焼よりも巧みに中国の作品をコピーしたと言えます。そのことを物語るかのように、ある文献によれば、当時デルフト焼は「オランダの磁器」と呼ばれたようでした。

 

磁器生産の歴史

 

 

世界の磁器生産について振り返ってみると、第一に7世紀と14世紀の中国にさかのぼります。中国の隋時代に当たる7世紀は、「白磁」と呼ばれる白い焼き物のはじまりでした。次に、14世紀の元の時代には青い模様が付けられるようになり、この時代に「染付」とよばれる技法が完成しました。日にかざすとほとんど不透明なものがあることから、第二の磁器の生産地がベトナムで正しいかどうか異論はあるものの、見かけが中国の染付と非常に類似していることは確かです。第三の生産地は朝鮮です。なお、日本で最初の磁器生産は、1610年代(1616年頃から)に有田焼からはじまったと言われています。

 

世界史的にヨーロッパにおいて最初の磁器が生産されたのは、有田焼から100年ほど後のドイツのマイセンでした。中国の焼き物がそれ以前から人気を博していたのに対し、有田焼の多くはこの100年間に多く販売されました。この100年間の内、最初の50年間は輸出できるほどのレベルではなかったため中国が優勢でしたが、1650年頃から中国が明から清へと移行し鎖国状態になったことから、中国磁器の輸出品としての仕入先が止まってしまいました。このような時代背景があり、中国の磁器生産が停滞している間に有田焼が世界市場に進出することとなったのです。1650年頃から約60年間は「有田の春」でしたが、マイセンの生産がはじまると、次第に有田焼の販売は落ち込んでいきました。この頃になると、デルフトでは既に磁器を模した陶器が作られるようになっており、一定水準の需要もありました。

 

 

しかしながら今回注目すべき点は、ヨーロッパで第二の磁器の生産地はどこかということで、それがウィーンなのです。日本で最初が有田、ヨーロッパで最初がマイセンということはよく知られていますが、ウィーンについてはあまり注視されることがありません。特にマイセンの知名度は日本では高く、値段的に有田焼よりも高く設定されている場合が多い。オーストリアのウィーンで磁器生産がはじまったのは1718年のことであり、つまりドイツのマイセンからわずか10年後のことでした。そのはじまり方は少々曖昧であり、マイセンの陶工を無理やり説得し引き抜いたとされており、あまりフェアであるとは言い難い。しかしこのことは、ウィーンがそれほどまでに技術を欲していたということを意味しています。

 

連れて来られたこの陶工は翌年マイセンに逃げ帰ったとされ、このようなシビアなやり取りがあったことから、産業スパイが事業をはじめるような事例として興味深いものがあります。このような経緯ではじまったオーストリアの磁器工房でしたが、本展ではその名品の多くが展示されており、ウィーン窯の素晴らしさを堪能する機会となっています。

 

(左)オランダ・デルフト窯 《陶胎染付唐人物文瓶》17世紀末-18世紀初め ファイアンス焼、青絵付
(右)オランダ・デルフト窯 《陶胎染付花鳥釣人文蓋付壺》18世紀 ファイアンス焼、青絵付
所蔵:リヒテンシュタイン侯爵家コレクション、ファドゥーツ/ウィーン © LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna

 

また、オランダのデルフト焼もリヒテンシュタインのコレクションに含まれていたため、磁器を模した陶器に関する説明に有効だろうという理由から借用を依頼しました。見た目は完全に中国の焼き物のコピーであり、当時有田を含め中国磁器の多くがコピーされていたことを物語っています。両作品は共に中国風であるが、左の作品は白が少し濁って見えます。透明感というのが磁器の特徴ですが、右の作品と比較すると左の作品の白色はどろっとした不透明感がありますね。この白味の出し方は、錫釉(すずゆう)という白く濁った不透明なガラスを全面にかけることによって、中身が多少茶色味を帯びた粘土であっても白く見えることを可能にするのです。錫釉はヨーロッパ、特にイタリアを中心に生産されたマヨリカ焼などの陶器に白色を出すために用いられました。そのためこのデルフト焼は、マヨリカ焼の系譜を受け継いでいると言えます。

 

Part2はこちら