客電(客席の照明)がまだついている状態で、堤真一のお面を付けた池田鉄洋と、小泉今日子のお面を付けた明星真由美が登場。ユルい笑いを取りながら、これから始まる舞台について解説する。いわく「ふたつの物語が交互に、あるいは混合して上演される」「大事なセリフや、時にはシーン丸ごとが欠損している」──。
 観客を煙に巻くかように、こうして『労働者M』は始まった。確かに物語はふたつ。ひとつは、自殺志願者の相談に乗る善意の仕事を表向きの看板に掲げながら、その相談者に布団や宝石を高価で売りつけている、現代日本のある会社。もうひとつは、土星人との戦争に勝利するも、混乱と貧困が蔓延してしまった未来の地球のどこかの収容施設。そしてやはり解説通り、セリフの一部が聞こえなかったり、途中のシーンが省略される。
 が、その手つきはオープニングの脱力具合からは程遠い。「話のつながりが見えてきた」と思う鼻先で、読みかけの本のページをビリビリ破くように、話をカットアウトする。でなければ、肝心な出来事が終わったところからカットインする。この乱暴さを“やり逃げ”と見る向きもあるかもしれないが、それは違う。逃げるどころか、これは作・演出のケラリーノ・サンドロヴィッチが今まで以上に足を踏み出して突き出した“意志表明”だ。
 そんなKERAの乱暴さを魅力的なものにしたのがキャスト。革命を志して権力の中枢に潜入したのに、革命以外のことに追い詰められていく男の壊れ具合を小気味よく演じた堤真一。攻撃も冗談も優しさも欲望も、すべて一緒くたのダメOLを軽やかに演じた小泉今日子。自分が自殺に追い込んだ同僚の幽霊と、仲良く連れ立って精神科に入院していく会社員の、フワフワした疲労感を微妙な笑顔で示した松尾スズキ。「何かが起きる時間も退屈な時間も平等に描きたい」と、この脚本の執筆前に話していたKERAだが、今回のキャストは退屈な時間を実にワクワクさせてくれた。
 ラストもいい。近未来編では、革命の成功か、土星人の逆襲か、はたまた地震か何かの勘違いか、という余韻を。現代の日本編では、このままダラダラした日々が続くのか、モリィが言うように宇田という男は悪魔の使いなのか、という余韻を。どちらもプラスマイナス両方を提示しながら、笑い声で終わる。その笑い声は、どうとでも受け止められる幅の広さを持っている。
text by 徳永京子(演劇ライター)
photos by 細野晋司


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