フランス文学の愉しみ

No 24失われた傑作の謎を求めて

『人類の深奥に秘められた記憶』 モアメド・ムブガル・サール作/野崎歓訳/集英社

ある若い作家の文学の本質を探る旅

今このエッセイを読み始めた方は、どのような理由で小説を読まれるのでしょうか。小説が好きだから?文学にとても興味があるから?それともなんとなく余暇の一つとして手に取ることがあるから?最初と二つめの場合は特に、またそうでなくても、小説がどのように創作されるのかということを考えたことがあるのではないかと思います。私個人は文学、小説が子供の頃からとても好きでしたので、なんとなくどうしたらこんな作品が書けるのかなあと想像したことはよくありましたが、自分で創作するために真剣に悩んだことがあるというほどのこともありません。そもそも小説を書こうとしたことはありません。それでも、今回の作品の冒頭にある以下の一節を読んだ時には衝撃を受けました。少し長いですがご紹介します。

文学はぼくにとって、怖いほど美しい女の顔で現れた。ぼくはたどたどしい口調で、あなたを探し求めてきたんですと言った。女は冷酷に笑って、自分はだれのものでもないと言った。ぼくはひざまずいて頼んだ。一晩一緒に過ごしてほしい、一晩限りでかまわない。女は何も言わずに姿を消した。ぼくは逸る気持ちで、決然とそのあとを追った。きっとつかまえてやる。膝の上にのせてやる、見とれさせてやる、そうすれば作家になれる! ところが途中で必ずや、真夜中、あの恐ろしい瞬間が訪れる。何者かの声が鳴り響いてぼくを雷のように打ちすえるあの瞬間が。その声はこう教えてくれる、あるいは思い出させてくれる。意志だけでは不十分、才能だけでは不十分、野心だけでは不十分、文章がうまいだけでは不十分、たくさん本を読んだだけでは不十分、有名になるだけでは不十分、広汎な教養を有するだけでは不十分、賢いだけでは不十分、社会参加だけでは不十分、忍耐だけでは不十分、純粋に人生に酔うだけでは不十分、人生から遠ざかるだけでは不十分、自分の夢を信じるだけでは不十分、現実を事細かに分析するだけでは不十分、知性だけでは不十分、感動させるだけでは不十分、戦略だけでは不十分、コミュニケーションだけでは不十分、言うべき何かがあるというだけでも不十分、懸命に取り組んでいるというのも同断。そして声はさらに言う。それはみんな、確かに一つの条件、有利さ、属性、力ではありうるし、実際しばしばそうなっている。とはいえ、と声はすぐさま付け加える、文学に関しては根本的にそれらの特質だけでは不十分なのだ。なぜなら書くことはつねに、まったく別の何かを要求するのだから。そこで声はやみ、こちらは孤独な途上に置き去りにされる。別の何か、別の何かというこだまが響き、やがて消えていく。前方にある、別の何か。書くことはつねに別の何かを要求する。明けるかどうかもわからないこの夜のただなかで。(邦訳書p44-p45から引用)

私の記憶には、これほどストレートに文学への憧れと作家になることへの真剣な悩みと焦燥感を表した一節をある作品の中で読んだ覚えがありません。特別に新奇なことを言ってはいないのですが、とにかくこの一節には私をこの作品にのめり込ませる何かがありました。美文で要領よくまとめられた同じような内容よりも、若い語り手が吐露するこの独白が読む人の心をつかむのではないでしょうか。

ストーリーと登場人物

ではその語り手が主人公である今回の作品『人類の深奥に秘められた記憶』をご紹介いたしましょう。主人公、小説の語り手であると同時に多くの部分で聞き手ともなるのは、20代後半の非常に若いセネガル出身の作家ジェガーヌ・ラチール・ファイです。第1作を出版したばかりですが、自分で買った分を含めて79部しか売れていません。彼の現在の最大の関心事は、かつて読んだ『黒人文学概説』で知った、T・C・エリマンという作家の行方です。エリマンは1938年に『人でなしの迷宮』という第1作を20歳そこそこで発表、センセーショナルなデビューを果たし、その才能で文学界を魅了しましたが、まもなく作品のオリジナリティを否定する批評や、作家のオリジンに対する差別的な批評家たちによって、文字通り闇に葬られることとなります。エリマンは剽窃という罪に問われても、一切の反論を拒み沈黙を貫くまま姿を消し、出版社は全ての未販売の本を回収して破棄し廃業します。その後エリマンは2度と文壇に戻ることなく、誰にもその行方は知られることはありません。ジェガーヌは、その『人でなしの迷宮』をある偶然の出会いから手にいれ、作品の魅力に熱狂し、エリマンがなぜ沈黙したまま消えたのか、また彼のその後を突き止めようと調査を始めます。この作品はですから、第二次世界大戦前夜に彗星のように現れ、その直後に消えた黒人作家の探究がストーリーの主軸となっています。1)

とはいえ、あまり長期に亘ったわけでもないジェガーヌの調査(2018年のひと夏?)の間に語られるのは、20世紀初頭からほぼ100年の時代の広がりの中で、その間に生きた大勢の人物(実在であれ、架空であれ)が登場するさまざまな出来事です。主人公の恋人、作家仲間、アパートの同居人、エリマンの従妹で有名なセネガル人作家、エリマンの本を出版した編集者、および、エリマンの故郷に残された家族、母と叔父、エリマンの作品についての記事を書いた女性記者、エリマンを攻撃した批評家等々ですが、基本的には、全てジェガーヌとその周辺の人びとやインタビューの相手が語る話であり、登場人物とは彼の生活と調査の中で浮かび上がった名前です。話の背景は地理的にも広範です。パリ、アムステルダム、ブエノスアイレス、セネガルのダカール、そしてエリマンの出生の村に及びます。エリマンの作品の出版を1938年にしたことで、当時の豊かな文学界の活気を伝え、実在のアルゼンチンの作家エルネスト・サバトとポーランド系の作家ヴィトルド・ゴンブローヴィッチやキリストも登場します。ストーリー上の特徴として見られるのは、« 入れ子 » の構造であり、ジェガーヌが誰かの話を聞いていると、その誰かが別の誰かに聞いた話をするという具合です。エリマンとはどういう男だったのか、彼はなぜただ一作の作品を残して失踪したのか、その後はどうしている(た)のか、真実に辿りつくには、さまざまな話を我慢強く丁寧に聞き、エリマンの家族やかつての同僚(編集者であり親友であった人々)の心の秘密にも触れなければならなくなるのです。

テーマとしての « アフリカ性 »

非常に様々なエピソードが語られます。アフリカのある家族の家族史、植民地の人々の状況と運命、編集者と作家の絆と批評家との葛藤をはじめ、それぞれの作家の矜持、ジェガーヌをはじめとした登場人物の愛、その全てに、『人類の深奥に秘められた記憶』の作者が訴えるテーマが込められているようです。その中で、私が日本の読者として注目するのは、アフリカ文学、それもフランス語で書かれた黒人、または旧植民地国の文学の宿命です。私がこのエッセイを始めてから、フランスの旧植民地国出身の作家の作品について書いたことは何度かあります。カリブ海の黒人文学ではマリーズ・コンデの『生命の樹』2)*、北アフリカ文学ではカメル・ダーウドの『もうひとつの「異邦人」』3)、カウテル・アディミの『アルジェリア、シャラ通りの小さな書店』4)ですが、それぞれ母国語ではない、(かつての)公用語であるフランス語で書く文学にまつわる複雑な歴史と個人の意識、感情に多かれ少なかれ触れています。実際フランス(語圏)文学と見なされるのはフランス語で書かれてフランスで出版流通されている作品であり、内容はフランスとかけ離れていても構いません。フランス文学賞の歴史においても、サール以前にも多くのフランス語圏の作家と言われる旧植民地系の作家が主要な賞を何人も受賞しています。そして、それらの作品においてはほとんどが、彼らのルーツに深く関わる内容を語っているのです。彼らがそれらの物語をフランス語で語る理由は、書くという行為が文学における « 自由 »の表現に結びついているからです。何をどのように、どうして書くのかというのは、定義されるものではなく、個人の最も本質的な« 自由 »に関わる問題です。当たり前、月並みに聞こえても、作家には最も重要なことです。この作品において、21世紀の今、アフリカで伝統的に行われている呪術的な習慣や信仰を描き、白人に支配された過去の現地人の苦しみ、さらにはかつての(すなわちエリマンが受けた « 正当ではない »批判)、そして現代のアフリカ文学のフランスにおける受容を問題にするのは、現在にもその必要を感じているからなのでしょうか。この問題に関してサールは、今もなおフランス出版界にあるアフリカ文学作品への偏見、肌の色であるとか、旧植民地であるとか色眼鏡を通してしか作品を見ようとしない傾向を打破したいと言っています。彼らの作品は純粋に文学的に作品の価値を認められるべきで、そうすることでもっとよくアフリカ文学を、アフリカ文学を知らない人に知ってほしいと、あるインタビューで述べています。それでは、フランス語圏の作家に対するなぜ母国語でないフランス語で書くのかという質問には、私の知る限り、サールを含め複数の作家が非常にシンプルに答えています。それは、彼らがフランス語を自由に読み書きできるからです。歴史的には強制された言語でしたが、現代では、フランス語は旧植民地支配者の言語ではなく、彼らが自由に操ることができる一つの言語であるからと捉えているのです。フランス語と同じように知っていたら日本語で書いたかも知れないと言った作家もいました。5)サールのアフリカというルーツに対する執着について、あるインタビューにおいて彼はそれ自身が目的なのではないと言います。というのは、自分はフランス語で書くセネガル人の作家ではあるがセネガルを代表することが書く目的ではなく、セネガル性という遺産に限られた存在ではないし、私という作家の個人的な特性があり、何かのレッテルを貼られることなく「世界文学の図書館」に入る作家でありたいと言っています。

構造と文体

それでは、この作品のタイトル『人類の深奥に秘められた記憶』が示唆するものは、どこに見いだされるのでしょうか。私がこのタイトルを見た時連想したのは、何か精神分析に関することだろうかということでしたが、帯に書かれた文言「なぜ人間は、作家は、「書く」のか」を見ただけではわかりません。小説なのだから読んでみなければ、と思い読み始めると、予想とは違った文体でした。ひどく抽象的だったり複雑なものではなく、むしろ若さと、初々しささえある、重さと軽さのバランスのとれた、まさに好感が持てる品の良い文章で書かれた小説であり、内容においても間違いなく作家としての才能が感じられるのです。ですから、結構分厚い作品でありながら読み進めることに困難はありませんでした。章立ても「第一の書」「第二の書」「第三の書」と時系列で調査の進捗に従い、日記、手紙、独白、メール、書評、ルポルタージュという複数の形式を交えて、語られる内容に最もふさわしいニュアンスを与えています。その間にほぼ規則的に挟み込まれている四つの「伝記素」は繋がっていく語りには属さない、しかし非常に重要な内容を語っています。背景には様々なエピソード(80年前の文学界の様相、第一次世界大戦、第二次世界大戦をはじめとする数々の戦争と社会の様相、100年前のアフリカの人々の状況、アルゼンチンのクーデターや現代のセネガルの情勢)があり、中心的には文学についてとアフリカの人々の姿がエリマンの足跡を追う中で語られて行きますが、驚くべきエピソードも徐々に明かされていきます。先にも述べた「入れ子の構造」、この語る声の重層性と語る声によって変化する文体、そしてそれぞれの物語を結ぶ、滑り込むように紛れ込むジェガーヌと語り手の声の混成には、サールのストーリーテリングの巧みさが存分に生かされています。ジェガーヌの旅は終着点まで語りから語りへと導かれます。6)しかし、何かに行き着くのでしょうか。

最後に

『人類の深奥に秘められた記憶』に限らず、作家たちは作品の中で多くのことを語ります。さまざまなテーマが錯綜し、それぞれがインパクトをもって読者に語りかけ、問題を提起します。そのうちのどれかが、作家がその作品を書いた究極の目的のように見えることもあるでしょう。しかしながら、サールはその点について警鐘をならします。「偉大な作品」、例えば『人でなしの迷宮』のような、を探し求めるジェガーヌに対し、『人類の深奥に秘められた記憶』の冒頭に書かれた主人公の同居人(ポーランド系翻訳者)の発言はその意味で特に示唆的です。

家に帰るとスタニスラスがいたので、また『人でなしの迷宮』について話さずにはいられなかった。すると、その本は何についての話なのかと聞かれた。[…]抒情的長広舌を終えると、スタニスラスはしばしぼくを見てから言った。何の意味もないな。一つ忠告をしてやろう。偉大な本が何について語っているかなんて、絶対に言おうとしてはだめだ。そうしたいなら、唯一可能な答えはこうさ。無について、だ。偉大な本は無についてしか語ることはない。だが、そこにはすべてがある。偉大だと感じる本について、何について語っているかを説明しようとする罠に二度とはまるんじゃないぞ。それは世の中が仕掛けてくる罠だ。人々は本は必ずや何かについて語っていると思いたがる。本当のところはな、ジェガーヌ、凡庸な、だめな、陳腐な本だけが何かについて語っているんだ。偉大な本は主題をもたず、何についても語りはしない。それはただ何かを言おう、発見しようとしているだけなんだが、でもそこには、すでにすべてがある。その何かが、すでにすべてでもあるんだ。
(邦訳書p40-p41から引用)

作者は先に答えを明かしてしまったのか、この発言を言葉どおりに受け取るべきではないのか、どう考えるかは読者に託されますが、ともかく最後まで読んでみて、読者のそれぞれが考えることでしょう。そもそもどうしたら偉大な作品を書けるのか、それよりもなぜ書くのかは、答えのある問いなのでしょうか。恐らく、冒頭に引いた「書くことはつねに別の何かを要求する」という言葉の通り、書くことによってしかその問の意味を深めることができないのでしょう。

いささか禅問答のような問いではありますが、このような発想が、なにかフランス文学という文化とは違った異教的な世界観を示しているような気がするのは私だけでしょうか。十分な世界文学の知識もありませんので、私としては、ただ、彼の発想の次元の無限性を認めることを発見とし、すなわちすべてである無というところに『人類の深奥に秘められた記憶』があるのではないかと思いめぐらすことにとどまりました。7)

作者について

モアメド・ムブガル・サールは1990年6月20日、セネガルの首都ダカールで生まれました。2021年のゴンクール賞を、31才という120年の同文学賞史上二番目の若さで受賞しました。またサハラ以南のアフリカ人作家としては最初の受賞者です。セレール族出身で父が医者、兄弟の多い家庭で育ちました。そのため母国語はセレール語です。現地の士官学校を卒業後、フランスに渡り、コンピエーニュの高校でグランゼコール受験準備クラスを終え、パリの社会科学高等研究院(EHESS)に入学、レオポルド・セダール・サンゴールについての博士論文を準備している途中で多くの時間を小説の執筆に専念することにしました。2014年に中篇小説『La Cale(船倉)』でステファヌ・エセル賞を受賞し博士論文を放棄し、2015年『Terre ceinte(包囲された土地)』で長篇デビュー、メティス小説大賞と高校生のメティス小説大賞を受賞しました。2017年『Silence du choeur(コーラスの沈黙)』でサン=マロ市主催の世界文学賞を受賞。2018年『De purs hommes (純粋な人間たち)』(平野暁人訳、英治出版、2022年)を出版、2021年の『人類の深奥に秘められた記憶』で見事にゴンクール賞とトランスフュージュ最優秀小説賞を受賞しました。

サールのプロフィールは、この作品の主人公ジェガーヌ・ラチール・ファイの分身のような印象を与えます。実際のサールも、ジェガーヌを想像させるような、若く端正で知性を感じさせる、育ちの良さそうな、それでも一旦文学の話を始めると熱っぽく語る青年です。ゴンクール賞受賞という大業を果たして沢山のインタビューを(しかも60分を超えるものが多い)うけても、いつも堂々と落ち着いた姿が印象的です。

このような彼の姿は、今回の作品に対するゴンクール賞選考委員のカミーユ・ローランスの以下のような言葉を体現するものとしてこれからの文学界の希望となったことを、私も頼もしく嬉しく感じています。

「文学にいまだ黄金を求める者がいるということ、そして若さこそがその探求を照らすヘッドランプであるということ。これは今年の文学シーズンにとって最高のニュースである。」(日刊ル・モンド紙、2021年8月26日付)8)

*注

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