フランス文学の愉しみ

No 5フランコフォニー文学の旗手 - 特異な声を持つ作家

『生命の樹ーあるカリブの家系の物語』
マリーズ・コンデ著/管啓次郎訳/平凡社(品切中・平凡社ライブラリー近刊)

カリブ海に浮かぶ島で力強く生きる4代の家族の物語

皆さんはマリーズ・コンデMaryse Condé(1937-)という作家の名を聞いたことがあるでしょうか。もしなかったとしても、昨今『世界文学』といって、様々の出身、国、民族、言語の作家たちが注目され、翻訳出版され、人々の関心を集めていることはよくご存じと思います。実際、マリーズ・コンデはフランス語で書く(フランス語圏の)作家として、また一人の偉大な作家としてその存在を、他の優れたアフリカ系作家たちとともに、特に1990年代から日本でも多く紹介されています。

マリーズ・コンデは当時はフランスの植民地であったグァドループで1937年に生まれました。グァドループ(Guadeloupe)は、カリブ海に浮かぶ西インド諸島にある島々で構成され、現在はフランスの海外県です。祖先はアフリカ系黒人であっても実業家の父と教師の母を持つ裕福な環境で、家庭内でも外でもフランス語を話し、フランス語を母語として育ちました。16歳でパリのフェヌロン高校に入学、その後アフリカに渡った後、パリに戻り、いったん故郷に戻りますが、今度はアメリカに移住しコロンビア大学をはじめとする多くの大学で教鞭をとります。作家としては1976年に処女小説Hérémakhononを発表して以来、実に多くの小説、戯曲、エッセイを刊行しています。また様々な国で非常に多くの文学賞を受賞していますが、特筆すべきは、昨年度ノーベル文学賞にかわるニュー・アカデミー文学賞を受賞したことで、年末のニュースを賑わせました。

今回はマリーズ・コンデの邦訳された小説のなかでも、『生命の樹ーあるカリブの家系の物語』(管啓次郎訳、平凡社、1998年刊。同年のアカデミー・フランセーズ文学賞受賞作品)についてお話しします。この作品は1987年に発表されました。奇しくも、当時は10年前のアメリカのTV番組『ルーツ』の大成功の影響もあり、この4代にわたるルイ家の、19世紀後半に生まれたアルベール・ルイから始まる物語にも多くの日本人が興味を示したようです。

なにしろ全く当時のカリブ海の黒人の生活、状況を知らない、カリブ海といっても名前と場所くらいしか知らないかもしれない読者には驚異の物語とも思えます。語り手はアルベールの曾孫にあたるクロード・エライ-ズ・ルイ。その他の主な登場人物はアルベールの妻エライ―ズと息子たち、ベールとジャコブ、その息子べべール、そしてさらに ジャコブの妻ティマと娘テクラ(クロードの母)、その他大勢のさまざまな個性をもつ家族たちです。しかし、なによりもアルベール(仇名はスバル=野生人)の強烈な個性、意志と行動力に、すなわち物語の冒頭第一部においてまず、読者は圧倒され、小説の世界にひきずりこまれていくでしょう。そこには、私(たち)の知らなかった当時のカリブ海諸国おける黒人の悲惨な状況が背景としてあります。アルベールはある日、その状況を脱出するために、パナマに旅立ちそこで最愛の人となるライザと出会います。しかしライザをお産で失い、アルベールは今度はアメリカをめざします。アメリカで財をなしたアルベールは10年たって故郷にもどり、エライ―ズという若い女性を娶ります。しかし、よい時期は長続きせず、彼は「この人生という狂った女」といって己の人生を呪います。アルベールは努力家であると同時に独裁専制君主的側面が大いにあり、乱暴で吝嗇で、善人とも言えず、他人に同情を示す優しい性格とも言い難い人物です。しかしその壮絶な生き方、恐れを知らないチャレンジ精神、信じられないほどの努力の描写とともに、彼の「黒人であることの誇りと、人間としての尊厳」を黒人のために祈る姿は、彼の子孫たちにも受け継がれる信念に裏づけられています。それまで多くの同胞が諦めとともに運命として受け入れていたものを見限り、新しい世界を見に旅立ち、決してただちには手に入らなくても、別の世界があるのだと気づく、そして目覚めるとともに、行動に移していくその生き方は、読む者に感動を与えます。

さて、邦訳の副題に「あるカリブの家系の物語」と銘打たれたように、4世代に引き継がれる一家の歴史を語るこの小説には多くのテーマを見出すことができます。最も顕著なのは、アフリカから連れてこられたカリブ海諸国の黒人たちの人権回復と疎外からの解放、独立です。またカリブ海諸国内での争い、虐殺が語られ、問題の複雑さが示されます。白人と黒人の結婚と、それによって生まれた混血の子どもへの偏見。そして、この世界だけにではなく存在する、社会における女性蔑視。そしてグァドループの黒人にとっての音楽についてもふれています。作品中でたびたび引用されるのは、マーカス・ガーヴィー(1887-1940)というジャマイカ出身の実在した黒人解放運動家の言葉です。

「私は黒人に、みずからのうちに美をみいだすように教える」[44]
“I shall teach the Black Man to see beauty in himself”

この作品の読後には、この言葉がアルベールとその子孫たちだけでなく、マリーズ・コンデの心中の灯火のような道しるべとなっていることに気づくでしょう。さらには、黒人の妻たちの描写をとおして、作者の女性礼賛を印象づけられます。

「何いっているのよ、ココ。邦をつくるのもだめにするのも、私たち女じゃないの?女に手出しさせないようにしようとしているかぎり、あの人たち、なにもできやしないわよ!そしていつまでも、グァドループは最後の植民地のまま!」[398]

このような言葉が登場人物から発せられる時、ある時代、ある世界では、理不尽であることを、そうだと気づき、そうだと言い切れる人々がどのような苦労と辛酸をなめたかを現代の読者は知るのです。

この作品では、ひどいと言うのを通り超えて、悲惨としか言えない、世界の他の地域や他の時代に行われたことに全く引けをとらない残虐な事件が次々と語られます。しかしながら、そこがこのマリーズ・コンデという作家の真骨頂のひとつでもあるのですが、彼女の語りには悲惨さを悲惨なこととしてだけではなく読ませる、飄々とした、ユーモアを大いに感じさせるものがあります。それは黒人の文化の一面なのかも知れません。「私が生まれて二週間後、ようやく人間の形をとりはじめたばかりの乳飲み子の私には何の配慮もなく、母はフィニステール行きの列車に乗った。社会福祉事務所で聞いたところでは、乳母を頼むならブルターニュがいちばん安上がりだというからだ。母は私をマダム・ボヌイユに預け、それから十年、忘れたままだった」[212]「黒人の人生とは、何と苦い薬なんだろうな!それを甘くしようと思っても、入れる砂糖も見つからない」[278]

表現の面白さだけではありません。マリーズ・コンデには偉大なストーリーテラーという才能が明らかにあります。多くの人物が複雑にからんだ出来事を巧みに語りながら、ただ面白いというだけでなく、人間の尊厳という問題にストレートに言及していくことで、軽薄ではない内容を面白く飽きさせずに語る、それも事実や古からの伝承を多く踏まえていなければできないストーリーテーリングです。秀逸なのは、例えば死者の魂についての語り口です。 アルベールは新しいとても若い妻エライ―ズとの間に新しい子どもたちにも恵まれます。すると亡き前妻のライザの魂がエライ―ズに嫉妬して新妻を苦しめ、最後には命までとる、といういささかオカルト的な黒人に固有な信仰によるエピソードは、愉快とまで言える筆致で描かれます。

マリーズ・コンデはカリブ海地方出身のフランス語で書く作家です。ですから彼女の作品を読むにあたって避けられない重要な点があります。それは、クレオール語の問題です。クレオール語は「フランス語とアフリカ系言語が混生し独自の文法と語彙をもつにいたった土地の言葉」[77]ですが、カリブ海の黒人達の間で話し言葉として使われてきました。そのクレオール語圏にあるグァドループ出身である彼女がなぜフランス語で執筆するのか。それは、彼女の両親が家庭でもフランス語を話し、クレオ-ル語を使うことを禁じたので、マリーズ・コンデ自身、フランス語で作品を書くことが当然であったということです。(彼女が子供のころ、自分をフランス人だと単純に信じていたことに、実は違うのだと気づくエピソードが自伝で語られています)ただしグァドループはカリブ海にありますから、アフリカ文学とは地理的に区別され、カリブ海にはジャマイカのように英語圏の国もありますが、カリブ海文学と呼ばれる、文学における地理的なジャンルの作家です。

主なカリブ海文学の作家としては、エメ・セゼール(1913-2008)1を筆頭としてエドゥアール・グリッサン(1928-2011)2、ラファエル・コンフィアン(1951-)3、パトリック・シャモワゾー(1953-)4らがいます。マリーズ・コンデは特に「黒人性(ネグリチュード)」を唱えたエメ・セゼールを尊敬しているようです。セゼールに続いてグリッサンが「アンティル性」、さらにコンフィアン、シャモワゾーとベルナベが「クレオール性」の作家と呼ばれていますが、マリーズ・コンデはそのような運動、主義に傾くことはありません。(実際、クレオール語を話さない彼女はそのままクレオール作家とは言えません。)ようするに、エメ・セゼールに強く影響を受けた彼女は、それでもグリッサンらの運動には同調せず、またクレオール語を母語とするコンフィアンやシャモワゾーとはある距離をおいたまま、個人的、集合的記憶とグァドループの黒人の歴史、さらには自分自身の旅と人生で得た経験とを融合させながら独自の言語を著作という形で創りあげてきた作家と言えるのです。

マリーズ・コンデは「私はマリーズ・コンデ語を話す」 « Je parle Maryse Condé »と言い放ちます。5( また、「私はカリビアンに生まれたのではない、カリビアンになったのだ」とも言っています。つまりボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」をもじった言葉のようです。)

彼女は実に多くの国々を移動して生きてきました。16才の時、故郷から渡ったフランスで「黒人である自分」を発見し、エメ・セゼールの著作を経て、精神的ルーツを求めてアフリカに渡ります。しかしアフリカでこそ、黒人という普遍的な定義をもつ存在(ヨーロッパ人が捏造したアイデンティティ)はなく、実に様々な黒人、それぞれ「違う」人々が生きている「多様性」を発見します。その後、イギリス人の夫と出会いはしたものの自分の場所を見出せない現実に直面してアフリカを去り、またフランスに戻ってもそこに自分の場所(職業)を得ることはできず、一時は故郷に戻りながらも数年でアメリカに渡りました。アメリカではコロンビア大学でフランス文学とフランス語圏文学を教え、定年後はニューヨークでひっそりと暮らすことが好きだと言っていましたが、現在はフランスの地方で暮らしています。それでも故郷を捨てたのではなく、ニュー・アカデミー文学賞を受賞することで故郷の人々の協力を得、公に感謝の気持ちを伝えました。

彼女こそ«多様な文化の融合»をしめすクレオール性を体現する作家であるのでしょう。6それ以上に、マリーズ・コンデは自由な唯一の個人としての言葉をもつ作家であることを望んでいるのです。

マリーズ・コンデの邦訳にはさらに、17世紀末のアメリカに起きた魔女裁判という史実に基づく『私はティチューバ-セイラムの黒人魔女』、エミリー・ブロンテの作品を下敷きにした(一種のパロディとも言われた)『風の巻く丘』、作家が自らの少女時代を回想して書いた『心は泣いたり笑ったり-マリーズ・コンデの少女時代』があります。また、マリーズ・コンデの講演会での発表をまとめた『越境するクレオール マリーズ・コンデ講演集』がこの作家とクレオール作家たちを理解する良い手引きとなるでしょう。

今回のエッセイ執筆に際し、貴重なお話、ご助言を頂戴しました三浦信孝先生に深くお礼申し上げます。

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