フランス文学の愉しみ

No 8カミュの代表作をアラブ人の視点から捉え返す衝撃作

『もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査』
カメル・ダーウド著/鵜戸聡訳/水声社

『異邦人』をある死角から再考/再構成する作品

みなさんは、アルベール・カミュというフランス人の伝説的な作家と、その小説『異邦人』という作品をご存じでしょうか。1930年代から1950年代に多くの作品を発表し、1956年に戦後最年少(43歳)でノーベル文学賞を受賞、1960年に自動車事故で急死するという悲劇でその創作活動は終わっています。小説にとどまらず、ジャ-ナリスト、戯曲家、思想家としても精力的に執筆した、まさに戦中、戦後のスター的存在として、ジャン=ポール・サルトルとともに、文壇の中心的人物でした。彼の作品で最も有名なのが、『異邦人』(1942年ガリマ-ル社、邦訳1951年新潮社)であり、ルキノ・ヴィスコンティ監督により映画化もされました。

今回ご紹介するカメル・ダーウドの小説、『もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査』 (原題Meursault contre-enquête、2014年)は、まさに、カミュのこの『異邦人』を出発点、もしくは核とする、「書き直し(réécriture)」であることが、最も読者の関心を集める理由となったようです。ただし、パロディとか、単なるリメークというものではなく、ダーウド本人の言葉では、『異邦人』という傑作の「死角(angle mort)」からのアプローチによる、作品の本質を「再捜査」する試みです。

それでは、その「死角」とはなんでしょうか。

カミュの異邦人という作品は、当時大流行語となった「不条理」の文学として知られています。主人公ムルソーは、アルジェリアに住むフランス人ですが、ある日母親が亡くなったという電報を母のいた養老院から受け取ります。小説の冒頭は「きょう、ママンが死んだ」で始まります。その後、母の死を特に悲しむ様子も見せないまま、数日後に、事の成り行きから、友人ともめていたらしいある「アラブ人」を射殺します。その結果、裁判になり、彼は死刑を宣告されるのですが、その主な理由は、殺人ではなく、母親の死を十分に悲しんでいなかった、翌日も喪にふくさず、破廉恥な行為をしていたということからの彼の非人間的な人格に置かれています。あえて特赦請願をしないまま、刑の執行を迎えます。作品はムルソーの一人称で語られます。

この20世紀中盤の文学の金字塔とも呼ばれる作品のある一点に注目したのが、カメル・ダーウドでした。ダーウドの作品の主人公は、ムルソーに殺された「アラブ人」の弟、ハールーンHarounです。弟は殺された兄の名はムーサーMoussaであったのに、『異邦人』中で一度も名で呼ばれることが無く、ただ「アラブ人」と呼ばれ、一切の説明もされず、ほぼ人間として扱われなかったことに憤り、その死の真相についての再捜査を試みるのです。この死角は、本当に『異邦人』発表*後70年間以上扱われることがなかったようです。作者は、誰にも語られなかった無名の死者に(弟の代弁で)自らを語らせるという試みにとても心そそられたと言っています。「今日、マー(お母さん)はまだ生きている」で始まるダーウドの小説は、一見、カミュの作品のネガポジ反転のように、登場人物(母、友人、恋人、女性たち…)、事件(特にフランス人の殺害)、情景描写、小道具の再生を繰り返していきます。しかしながら、主人公の、兄の死の真相解明と無実であるのに殺害されたことへの糾弾、そして自らの運命における自由の希求の物語を「一人称」で、様々な主題-神の存在、言語、人間の条件、愛-を孕みながら、展開しています。また哲学的であるというだけでなく、そのイマジネール(想像の世界の産物)とファンタスム(幻想)の世界をメタファーで描くというフィクションとして醍醐味を、『異邦人』と勝るとも劣らず発揮しているように、私には感じられます。文体は重すぎず、しかし繊細で、読者に積極的な読解を促す作品です。

以前にご紹介したレイラ・スリマニと同様に、テレビや講演会にも多く招かれるジャーナリストであり、作家であるカメル・ダーウドには、文芸執筆活動に関するいくつかの質問が多くよせられています。

代表的なもののひとつは、「なぜ、フランス語で書くのか」。この質問に対して、ダーウドは以下のように答えています。

彼の家族のなかで、字が読めるのは憲兵であった父だけであった。父は彼にアルファベットを教えた。彼が初めて読んだ本はフランス語の本だった。(だからもしそれが日本語だったら日本語で書く作家になっていただろうとも言っています)だから自分はフランス語で書く。さらに、彼はアルジェリアがフランスの植民地支配を解かれた後に、すなわち、自由の元にフランス語を選んだのであるから、支配者の言語に対する服従という関係はない。フランス語はむしろ事故的に選んだ(偶然にとも言い換えられるでしょう)し、その選択を説明する義務もないと言っています。ジャーナリストとして書くことと、文学を書くことは彼にとって違うかということについても答えています。フランス語は学校で学んだ、子どものころは知らない言語だったから、言葉にそれぞれ定義を与えなければならなかった。そして私は人生にある意味を与えたいという欲求があった。私は、もともと哲学を好み、カミュは『シジフォスの神話』を先に好んで読んだけれど、当然その後に『異邦人』を読み、何度も読むうちに、フィクションによってこそそれが可能であると思うようになった。ジャーナリストとしての仕事をしているが、ジャーナリスムは、現在の情報を扱うのに対し、文学はもっと普遍的な、人間を、人間の条件、真理を扱うもので、ジャーナリスムの扱うものを超越しているのであり、私はそのような現実の次元を離れたものを描く文学を欲求している。

このような作家の主張にささえられた『もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査』は、古典の「書き直し」でありながら、かつて類のないユニークな作品になっているのです。

以下、その主張が暗示されるような一節を邦訳からご紹介します。

マーは幽霊を甦らせ、その反対に、近しい者たちを亡き者にし、あふれんばかりの作り話のなかで溺れ死にさせる才に長けていた。誓って言うが、友よ、彼女だったら僕よりずっと巧く、僕ら家族や兄さんの物語を君に語ってくれただろう。読み書きもできない彼女が。彼女が嘘をつくのは、騙そうというつもりからではなく、現実を修正して、彼女の世界や僕の世界を襲う不条理を和らげようとするためだった。ムーサーがいなくなって彼女は壊れてしまった。でも、逆説的なことに、それが彼女に悪い愉しみ、終わりなき喪の愉しみに手を染めさせることになった。長いこと、ムーサーの遺体をみつけた、その息吹や足音を聞いた、その靴の跡を見分けた、と母さんが誓うことなく一年が過ぎることはなかった。長いあいだ、僕はそのことをあり得ない恥だと感じていた――のちには、おかげで僕は母さんの妄想と自分とのあいだに堰を作ることのできることばを習得した。そう、〈ことばラング〉だ。僕が読み、それによって今日僕が自分の意見を述べる、彼女のものではないことば。彼女のことばは豊かで、イメージに富み、生命力にあふれ、はじけるようで、精密でなければ即興的。マーの悲しみはかくも長く続いたがために、それを表現するための新しい言語イディオムが必要となったのだ。このことばによって、彼女は預言者のように語り、にわか仕立てのなき女たちを徴募し、このスキャンダル――夫は空に呑まれ、息子は海に呑まれた――のほかの何ものをも生きることはなかった。僕はこのことばとは別のことばを学ぶ必要があった。生きのびるために。そしてそれは、いま僕が話していることばなのだ。[…]書物と君の主人公のことばは、物事に別の名前をつけ、僕自身の言葉で世界を秩序づける可能性をようやく与えてくれたのだ。(引用、邦訳57-58ぺ-ジ)

ややストイックな感じをうける端正な顔立ちのカメル・ダーウドは、長年続けているコラムニストとしての仕事を、「規律」と表現しています。毎日12時から13時の間に、内的エネルギー、インスピレーションのように「頭の中で吠えている犬」を、あまり深く考えずに、執筆する、それを規則正しく毎日すると言っています。それに対して、小説は長い期間の間に断続的に書くのだが、それでもコラムの仕事の延長上にある執筆の技術だそうです。やはり、ジャーナリストの仕事は小説家であることと同様に彼の天職なのでしょう。ジャーナリストとして当然、政治、社会問題を多く取り上げ、アラブ社会における女性の権利やセクシャリティーについての発言も多く、それは小説作品においても別の表現方法によって訴えられています。

カミュの『異邦人』においても、『もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査』においても、主人公の主張の核となるのは、「個人」であり「自由」の概念です。そして、カメル・ダーウドにとって、最も重要な問題(のひとつ)はやはり、個人の自由であると思われます。ダーウドの作品においては、社会において個々の人間が個性化を行うことは、それぞれがことばに、それぞれの意味を与え、明暗をつけるように彩りを与えることによって可能である、そこに個人の世界観が生まれ、創作もまたその成果であると考えられるのではないでしょうか。彼は書物とは、聖なるものだと言います。誰も語ったことがない「ある男」のことを書いた書物が、聖なる書であるように。

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