ヴェネツィアで開花したオペラ
 17世紀直前、フィレンツェの貴族のサロンで誕生したオペラは、まもなくイタリア各地で作曲されるようになりました。特に、ヴェネツィアは東方貿易で富を蓄えた貴族や市民たちが力を持ち、イタリアきっての強力な共和国として独自の文化と誇っていました。
 ヴェネツィアは初めてオペラを市民に開放した町です。貴族トロン家の私的な劇場が1629年に焼失し、再建された劇場の門戸を公開しました。これが世界最初のオペラ劇場、サン・カッシアーノ劇場です。貴族がオペラを独占する時代は終わり、一般の人々もチケットを買ってオペラを楽しむことが出来るようになりました。サン・マルコ大聖堂の楽長モンテヴェルディ(1567-1643)は、「ウリッセの帰還」(1641年)や「ポッペーアの戴冠」(1642年)など劇的な表現をもつ新しい音楽形式のオペラを次々に発表しました。
 新しい芸術に対する急激な関心の高まりに一儲けしようと、貴族たちは次々に新しい劇場建設に力を注ぎました。これらの劇場はヴェネツィア貴族社会が所有し、桟敷席の予約金と一般チケットを売って興行師が運営していました。豪華な舞台装置や機械仕掛けも評判をよび、ヴェネツィアでは17世紀末まで少なくとも17の劇場で388本ものオペラが上演されたといいます。

不死鳥・フェニーチェ劇場の誕生と二度の火災
 ヴェネツィアで最も大きく、最も重要なオペラ劇場を作ろうと建てられたのがフェニーチェ劇場です。ヴェネツィアの貴族、市民、商人の連合体は劇場を支える新しい協会を組織し、建築家ジャナントニオ・セルヴァを設計者に選びました。1790年5月に始まった建設工事は2年後に完了しました。
 フェニーチェ劇場は1792年5月16日にパイジェッロ「アグリジェントの競技会」を上演してオープンしました。1836年12月、最初の火災で焼失。ヴェネツィア市民は生活に欠かせないこの劇場の再建を急ぎ、メドゥーナ兄弟の設計で21万2千リラをかけ、翌年12月26日には美しい内装をほどこした劇場が再開しました。1853年と1938年には内部の美しさを損なうことなく改築。自らを焼いて灰の中からよみがえるという伝説の鳥「フェニーチェ(不死鳥)」が、劇場正面玄関に飾られました。
 このフェニーチェ歌劇場を2度目の火災が襲ったのは1996年1月29日夜のこと。劇場は外壁をわずかに残して焼失しました。原因は改装工事の遅れをボヤ騒ぎでごまかそうとした工事関係者による放火。ちょっとした出来心が世界で最も美しい内装と賛えられた歴史的建造物を焼き尽くす大惨事となりました。ヴェネツィア市は直ちに近くの島に仮設テント劇場を建て、3週間後には上演活動を再開。一方で裁判と再建工事の長く困難な道が始まりました。再建工事は「元あった場所に、元あったように」を合言葉にスタート。最初に工事を落札した会社による再建は遅々として進まず、「フェニーチェ歌劇場は本当にできるのか」と危ぶまれました。5年後、結局、地元ヴェネツィアの建築会社が担当。工事は一気に進みました。内装は「魔法の森」をテーマに、金の蔓の絡まる木々の中に女神や動物達が潜んでいるデザイン。内部に梁や壁面が少しずつ立ち始め、各地の工房で内部の彫刻や織物の制作が着手されました。舞台裏は最新機構に、一方、客席やホワイエ、各広間の内装は歴史的資料とヴィスコンティの映画「夏の嵐」を手がかりに、19世紀の様式を継承しながら21世紀の息吹を感じさせる洗練されたデザインとなりました。水の都を象徴する天井の水色は桟敷席へとつながり、客席全体にさわやかな風を送り込んでいます。
 2003年12月14日のこけら落しコンサートは、美しく着飾った紳士淑女はもちろん、会場周辺の警備にあたった警察官や劇場案内係らも19世紀の衣装に身を包み、さながらフェニーチェ歌劇場が誕生したころの時代絵巻のようでした。劇場に入ることができなかった大勢の人々は、巨大スクリーンが設置されたサン・マルコ広場に集まり、8年ぶりにフェニーチェ歌劇場に音が鳴り響く、その世紀の瞬間を味わいました。ロンドン・フィル、サンタ・チェチーリア、ウィーン・フィル、サンクト・ペテルブルグ・フィルやエルトン・ジョンもお祝いに駆けつけ、記念コンサートは華やかに1週間続きました。
photo:フェニーチェ歌劇場提供


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