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学芸員による展覧会紹介
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学芸員による展覧会紹介



版画家にはどこか吟遊詩人に似たところがあります。一枚の木版や銅版、石版から生み出す複製のなかで、いつも同じ歌を何度も何度も繰り返します。−エッシャー『平面の正則分割より』−

エッシャーにとって版画とは、特異な主題の追究にのめりこんで行った自分自身の分身であったが、なかなか理解をえられぬ孤独の埋め合わせでもあった。しかし彼が前人未到の領域を切り開いたのも版画であった。技術的な習熟が要求されるこの技法は、ひたむきで孤独な詩人にはうってつけだった。そして結局は、多くの現代人を魅了する独自の世界を打ち立てたのである。

版画の世界へ

マウリッツ・コルネリス・エッシャーは、1898年オランダのレーワールデンに生まれた。父は明治政府の雇われ外国人として日本に滞在し、土木工事を指揮した人物である。厳格で堅実な父のもとで育った内気で虚弱体質の少年は、建築家を目指してハーレムの建築装飾美術学校に入学。すでに高校時代に版画で才能を顕していた彼が、建築よりもグラフィック・アートに向いていることを察したのは、教壇に立っていた版画家のド・メスキータであった。
 エッシャーは身近なものを主題に様々な版画技法に取り組んでいった。その中には「平面の正則分割」のさきがけとなる作品も見られる。しかしこの時期の作品で目を引くのは、1920年に制作された椅子に座っているまだ20代の妙に大人びた自画像である。無理に脚まで画面に押し込んだような仰角の特殊な構図には、画面の中に表される閉じた世界の出現を予感させる。

旅立ち

1922年、初めてのイタリア旅行。その魅力に取り付かれたエッシャーは、その後毎年イタリア各地を訪れる。妻となるスイス人イエッタと出会ったのもイタリアである。1924年彼らは結婚し、ローマに住まうこととなる。
 この時代のエッシャーは精力的に風景をスケッチし、版画に仕上げていった。多産な時代。彼自身はこの時代を過渡的なものと見なしていたが、「スーパーエッシャー展」の「前半」を飾るこれらの作品群に人々は驚嘆の声を上げる。選ばれた場所の絶景さに驚き、何よりもその仕事の細かさに驚かされるのである。平坦な国オランダで育った若者は、珍しいそそり立った岸壁や、山を埋め尽くす家々といった見たこともない風景を強調して描いている。伝わってくる彼の驚きと興奮。ありえない風景。後にエッシャーが描くのも、ありえない風景−。
エッシャーの作品全体に認められる細かな描写は、多くの仕事をこなしたこの時期に確立された。実際と比べると少し誇張された風景は、その細密さゆえの説得力がある。室内風景にしても、球面鏡等を巧みに用い、そこに内へと広がる閉じた宇宙を感じさせる。彼は着実に腕に自身をつけていった。そして私たちは、ヴァン・エイクやデューラー、ホルバインといった北方の巨匠たちを思い起こす。美術界の異端児とされてきたエッシャー。しかし彼もまた、卓越した技量によって自らの精緻な王国を築き上げたという点で、北方ルネサンスの伝統の系譜に位置づけられるべき作家なのである。

アルハンブラの啓示

愛するイタリアがムッソリーニのファシズムに飲み込まれると、エッシャーはスイスへ移転する。翌年の1936年、かつて立ち寄ったアルハンブラ宮殿を再び訪れる。これはスペインのグラナダにあり、かつてイベリア半島がムーア人に支配されていたときに建てられた、偶像を刻まないイスラム教独特の幾何学的装飾模様を特徴とする建築物。タイルのモザイク模様に用いられていた平面の正則分割が、エッシャーにひらめきを与えたのである。彼はこのジグゾーパズルにのめり込み、無味乾燥の幾何学的な図形を生き物の形に換えていった。知的な遊びに対する興奮。その試行錯誤の軌跡である膨大な習作は、「エッシャーノート」(特別出品)に細かく描きとめられている。
 こうして出来上がった最初の傑作が《昼と夜》である。そこでは畑の市松模様が次第に輪郭と厚みを与えられ、闇を行く白い鳥と白昼を飛ぶ黒い鳥へと変貌する。これは白黒という版画の持つシンプルな特徴を最大限に利用した作品であるとともに、平面の正則分割と三次元の描写が合体することで、単なる「模様」の域を完全に脱し、空想と現実が融合したエッシャー・ワールドが出現している。
 アルハンブラの発見には、平面の正則分割の模様性を逆に推し進めることによる別の到達点もあった。エッシャーは結晶学の存在を知り、数学者とも交流を深める中で、平面の閉じた世界に無限の観念を模索する。鳥から魚へ、そしてまた鳥へと変貌する形の循環、あるいは「円の極限」という連作に見られるような端に行くほど永遠に小さくなる模様。平面を数式ではなくイメージで追究するなかで、エッシャーは世界を支配する秩序の存在に気付いていく。そして彼は、そのゲームを心底楽しんでいた―

 版画のなかで私は、私たちが美しく秩序のある世界に住んでおり、ときにはそう見えても、決して無形の混沌のなかに住んでいるのではないということを証明しようと努めてきました。

さらなる深みへ

戦後、エッシャーの芸術は次第に評価されるようになっていった。展覧会が各地で開かれ、『タイム』や『ライフ』といった雑誌が好意的な論評を掲載し、科学者たちの注目も集める。エッシャーの世界はますます独自性を増し、さらなる深みへと邁進していった。
 それは一連の「ありえない世界」として結実する。例えば《相対性》といった作品では、同じ階段の天板と側面の両方が同時に昇降に使われ、交換可能なものとなっている。これは鳥の背景が魚になっているような平面の正則分割と同じ系統に属する発想である。エッシャーの最も独創的な「ありえない世界」としての階段のテーマ、あるいは永久運動を続ける《滝》は、英国の数学者L.S.ペンローズとその息子で同じく数学者のロジャーが発表した不可能な図形に着想を得ているが、一見遠近法に則って丹念に描き込まれたこれらの風景は、完全なエッシャー・ワールドである。
 茶目っ気たっぷりの版画家は、空想上の生き物も生み出した。俗称「でんぐりでんぐり」。極端に長いラテン語の学名をつけ、生態まで記述し、しかも神が世界を創造したときに、このような種類の生き物を創ることを忘れたのだから自分がその埋め合わせをしたのだと主張する。
では、この版画家も神なのか―。世界を創り出すという点では、少し似ている。しかし彼自身も、神の被造物である。そしてこの事実を、高らかに、そして同時に謙虚に謳い上げているのが、エッシャーのもうひとつの傑作《描く手》なのではないだろうか。

しかしここまでたどり着いたエッシャーは晩年こう語る

― 私はここでひとりぼっちでさまよっている。

 たしかに彼がこれほど夢中になったことに、追随者は現われなかった。この言葉は孤高の版画家の自負とも受け取れる独り言なのだろうか。それは戦後の美術の動向とは全く相容れない方向であったことは間違いない。だから彼は自らを、全身全霊を打ち込む版画家であっても「アーティスト」に位置づけられるにはいささか当惑した気持ちなのだという。これには当時の抽象表現主義などの連中と同列に扱わないでくれという思いとともに、なによりも版画という技法によってその王国を築き上げたという職人的な誇りが、心の奥にあったからなのだろう。
 今日エッシャーに対する評価は、CGの発展とともに新たな段階に入っている。彼はそれを担う新しい世代に多大な影響を与えてきた。美術史の異端児ではなく、未来志向で捉えるためにも、私はあえて「スーパーエッシャー」と呼ぶのである。

Bunkamuraザ・ミュージアム学芸員
宮澤政男

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