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アニー・レオーニさん特別インタビュー(後編)
2025.08.07 UP
レオ・レオーニのご令孫であるアニー・レオーニさんのインタビュー後編では“おじいちゃん”、そして芸術家としてのレオ・レオーニについてお話を伺っています。
インタビュー前編はコチラから
第1章入口ではレオ・レオーニがみなさまをお出迎え/「レオ・レオーニの絵本づくり展」会場
孫娘が語る、祖父としてのレオ・レオーニ
Bunkamura:ここでお祖父様としてのレオ・レオーニさんについて教えてください。アニーさんにとってレオーニさんはどんな人だったのでしょうか。特別な思い出はありますか?
アニー:数えきれないほどの思い出があります!子どものころ、そして大人になってからも、祖父母とは非常に親しい間柄でした。私が生まれたとき、レオは46歳、そして祖母のノーラは44歳ととても若いおじいちゃん・おばあちゃんでした。私たち兄弟と両親は、イタリアやニューヨーク近郊のコネチカットで祖父母と一緒に休暇を過ごしました。私一人で夏にイタリアの祖父母を訪ねることも多々ありました。8歳の時に初めての一人旅でイタリアに行ったのですが、当時は今とは違ってプレスパスがあると機体のそばまで入ることもできたので、飛行機まで祖父が迎えに来てくれたことをよく覚えています。結婚をして夫と共にニューヨークに引っ越した時には、レオとノーラもニューヨークにアパートを購入して冬を過ごすようになっていたので、私の子どもたちとも非常に親しくしていました。
Bunkamura:本当に仲の良いご家族だったんですね。
アニー:祖父も私たちも笑うことが大好きで、祖父はよくパーティーを開いて祖母の手料理を振舞っていました。またビーチや彼のスタジオでもたくさんの時間を共に過ごしました。これはあまり言ったことはありませんが、面白いと感じていたことがあって…それはアーティストには珍しく、レオの手がいつも綺麗だったこと。たとえ顔に絵の具がついていたとしても、手はとてもきれいにしていて、ある意味几帳面な人でした。また彼はアート、絵本、執筆業など多様なプロジェクトに携わって、とにかく忙しく動き回っていましたね。
Bunkamura:何かお好きなものはありましたか?
アニー:鳥が大好きでした。私が子どものころ、レオが大きな鳥籠を所有していたのを覚えています。6フィート(約183cm)四方で高さは7フィート(約213cm)もあって、その中でコキジバトをたくさん飼っていました。その鳥籠はレオのスタジオと私の寝室の外にあったので、朝はよくコキジバトの鳴き声で目覚めました。あと彼はダンスや音楽も大好きで、アコーディオンやピアノ、シタール、フラメンコギターなどの楽器を弾いていました。特別な音楽のレッスンは受けていなかったので楽譜は読めませんでしたが、シタールは1950年代半ばに多くの時間を過ごしたインドで、そしてフラメンコギターも直接演奏者から学んだようです。実はレオの母親はオペラ歌手だったんですよ!
パーキンソン病で歩くことができなくなった時、彼はとても衰弱している状態でした。でも私のアパートに来てピアノの椅子に座ると、なんでも弾くことができるほど音楽を聴く耳を持っていて…とても魅力的な人でした。
Bunkamura:素敵な思い出をありがとうございます。レオーニさんの絵本作品の中で、アニーさんのお気に入りは何ですか?
アニー:お気に入りはいくつもありますが…『あおくんときいろちゃん』は私と兄のために描かれたものなので個人的な思い入れがあります。レオが作った初めての絵本でもあり、私たちは彼と一緒に絵本の世界に飛び込んだような気がしています。『アレクサンダとぜんまいねずみ』と『はまべにはいしがいっぱい』にはアニーという名前のキャラクターがいます!でも実際のところ彼の絵本で好きなのは…これは自分の考えであって彼の言葉ではないのですが、どの絵本にもレオがいると感じられることです。彼はフレデリックであり、スイミーであり、そしてなによりマシューなのです。レオの両親は彼がアーティストになることをよく思っていなかったようですが、私はレオのことを絵本におけるヒーローとして見ていました。実は一週間ほど前、彼の書いた文章の中で彼が同じようなことを述べているのを見つけました。彼についてはまだまだ知らないことがあり、常に学びの連続なのです。
Bunkamura:なるほど。ところで『スイミー』は日本で最も人気のある絵本の一つであり、小学校の教科書にも載っています。最近ではグミやチョコなどが発売されSNSでも話題になりました。50年以上も前に出版された『スイミー』がこんなにも愛されている理由は何だと思いますか?
アニー:レオが常に言っていたように、この絵本には二つのテーマがあります。一つ目は、共通の目標を達成するために協力し合うことの大切さです。お互いに協力し合い、より大きな魚になれば強くなれるということ。そしてもう一つ…これは私がとても大切だと感じていて、他の絵本にも出てくるテーマでもあるのですが、スイミーが先見の明を持っていたということです。スイミーにはアイデアを発想する力があります。そしてそれはフレデリックやそのほかの多くのキャラクターにも言えることです。レオは人々が協力し合い、事を成し遂げることの大切さ、そして社会がそれを支援することが重要だと考えていました。
何十年経っても彼の絵本が人気なのは、私たち人間について、コミュニティーとの関係について、そしてアイデンティティについて、日々私たちが自分自身に問いかけている事柄が描かれているからです。これはアメリカ人的感覚でも、アジア人的感覚でもなく、文化の垣根を超えた人間としての普遍的な問題だからなのです。
Bunkamura:私たちがこの展覧会を開催したかったのは、彼が伝えようとしたその強いメッセージを、日本の人々にもきちんと伝えたいと思ったからです。ただ単に彼の作品を見せるのではなく、そのメッセージを知ってもらうことが大切だと思っています。
アニー:これはレオが明言したことではなく私個人の考えなのですが…レオが絵本を作るようになったのは、1958年のブリュッセル万国博覧会で起こった出来事が大きく関係しているに違いない、ということに10年前に気づきました。その万博でレオは「未完成の仕事」という、米国の小さなパビリオンのデザインを任されました。当時は冷戦の緊張感が高まっていて、米国国務省が国内での人種差別や人種隔離、都市の衰退や環境問題といった当時の社会問題の解決策を提示すべくこのパビリオンを建設しました。しかしレオの担当したパビリオンは約3週間後に閉鎖されてしまいます。なぜならアメリカ南部の上院議員が、彼のデザインした展示内容をアメリカ南部の非ユダヤ人のライフスタイルに対する直接的な攻撃だと見なしたからです。
第2章 発行順に並んだ絵本作品/「レオ・レオーニの絵本づくり展」会場
アニー:その半年後、レオは『あおくんときいろちゃん』を出版しました。『あおくんときいろちゃん』のリング・ア・リング・オー・ローゼズ(絵本での日本語訳:ひらいた ひらいた なんのはな ひらいた)のページを見たあとにパビリオンにあった写真を見ると…そこには絵本のキャラクターのように手をつないでいる子どもたちが写っています。どちらも肌の色、年齢、出身地の異なる子どもたちが手を取り合っているのです。レオは一切そのことを語ってはいませんが、彼にとっての絵本は、社会問題について取り上げ、子どもたちにより良い世界を作る術を教えるための、彼なりの手段であったのだろうと思います。それがまさにこの展覧会に対するBunkamuraのみなさんの思いにも通ずると思います。それが一番大切なことだと私も思っています。
Bunkamura:日本も現在たくさんの問題を抱えています。特に若い人にとって、自分自身について知ること、また自己表現することがなかなか難しくなっているように感じています。それもスイミーが教科書に掲載される理由のひとつだと思います。教科書を読んだ時には理解できなかったとしても…
アニー:子どもは私たちが思うより、色んなことを理解していると思います。たとえ子どもたちが理解しなくても、学ぶことはできるとレオは言っていました。
長年一緒に働いてきた編集者のフランシス・フォスターとレオが交わした会話で、このようなものがあります。二人が『いろいろ1ねん』という絵本を出した時の話です。その絵本は、双子のねずみが一本の木と仲良くなり、毎月その木を訪ねるというお話なのですが、春にその木に食べ物を持ってくるというシーンがあります。レオはそこで「その木に“有機物質(manure/肥料)”を持ってきた」と言いたかったのですが、フランシスは「子どもたちはその言葉を知らない。説明する必要がある」と指摘しました。しかしレオは「“有機物質”という言葉を使うんだ。彼らに尋ねさせよう!辞書で調べさせよう!もしその言葉を知らなければ、学ばせればいい」と返しました。“学ぶ”ということがとても大切なのです。
Bunkamura:たくさんの貴重なお話を聞くことができました。
アニー:レオはこの「レオ・レオーニの絵本づくり展」のことをとても喜んで、興奮して、そして光栄に思ってくれるはずです!
Bunkamura:ありがとうございました!
アニー:どういたしまして。
※インタビュー中レオ・レオーニは“レオーニさん”、アニー・レオーニさんは“アニーさん”と表記しています。