ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター

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2020.02.26 UP

【ソール・ライター財団による講演会】レポート:その①



マーギット・アーブ:ソール・ライター、私たちはソールと呼んでおりますが、ソールはこの数年間でますます有名になってきています。現在、ソールは非常に見直されており、「写真界の巨匠」、「20世紀の最も偉大なカラリスト(色を駆使するアーティスト)」の一人とみなされるようになりました。このように東京・渋谷で再びソール・ライターの展覧会が開催されるまでとなったのを非常にうれしく思います。

ソール・ライターはラビ養成学校、つまりユダヤ教の神学校に通っていましたが、1946年に中退し、画家を目指して一人でニューヨークに向かいました。ラビであった父だけでなく、家族もソールがラビになることを望んでいましたが、彼はその期待を裏切ることになりました。彼はバスに乗ってやっとの思いでニューヨークに到着しました。しかし、若いこともあって全く無収入であったことから、時折母親からの仕送りに頼ることもあったようです。また、一人の叔母がブルックリンに住んでいたようで、夕食をご馳走になることもありましたが、時にはセントラルパークのベンチで寝たこともあったそうです。彼は色々な部屋を借りながら、床に紙を広げて、水彩画をよく描きました。食肉加工の卸売業者の仕事や、メッセンジャー・ボーイ等色々な仕事をしながら生計を立てていたそうです。

ソールはニューヨークでたくさんの友人ができました。その一人のリチャード・プセット=ダートから、「カメラを使って写真を撮影すれば、何とか食べていけるよ」とアドバイスをもらいました。そして、その後別の友人であるW.ユージン・スミスの影響で、彼はモノクロ写真を撮りはじめた後すぐに、カラー写真にも取り組みはじめました。

私はソールのことよく知っているだけに、彼がどういった人物であるかを簡単に説明することは難しいです。
彼は非常に洞察力に満ち、聡明で、面白いジョークが大好きな人でした。非常に愛らしい面がある一方で、頭の回転が早く、彼と交わした楽しい会話の数々は忘れがたいものとして今でもしっかりと記憶しています。しかし、自分の意見をきちんと述べられないと、辛い時もありました。

彼は写真家として有名ですが、基本的に彼は画家だったと思います。そのことを意識していただけますと、彼の写真をより深く理解できるのではないかと思います。


彼は美術史を愛しており、非常に深く、広い知識を持っていました。完全に独学でしたが、彼が美術史の教師になっていたら、本当に素晴らしい先生だったと思います。

ソールは筆を愛していましたが、カメラも同様に愛していました。彼は新しい技術を常に喜んで受け入れていました。

ソールは60年間、ニューヨークのイースト・ヴィレッジの同じアパートに住んでいました。彼のほとんどの写真は、そのアパートの半径数ブロック内で撮影されたものです。彼は人生を非常にシンプルに捉えていましたが、彼の人生そのものは色々と複雑で難しい点もあり、シンプルとは言い難いものでした。

また、彼の作業場は「カオス」そのものに思われがちですがすべて収納する場所が決まっていたのです。

 

私は18年間ソールと近しい友人でしたが、その出会いは、1995年にハワード・グリーンバーグ・ギャラリーで仕事をしているときでした。当時彼はほとんど無名に近い存在でしたが、私はソールの面倒を100%引き受けることに決めました。私にとっては簡単なことでしたが、彼にとっては非常に助かるものであることに早い段階で気づきました。『君がいるだけ、そこに存在するだけで様々な困難を乗り越えることができる』とソールは言ってくれました。名声、成功、そして多くの人から注目されるという状況は、私たちの長い友情関係の終わりの時期にやっと実現しました。

彼は人生を通して時折有名になったり、無名になったり、これを繰り返し経験しました。ソールが忘れ去られている時期は多くありましたが、このことに彼は慣れており、どちらかと言えば好んでいたとも言えます。彼は長年大切なパートナーであった、画家でありモデルでもあったソームズ・バントリーと暮らしていました。二人は一緒に頑張ってもあまり収入を得ることができず、友人からお金を借りながら生活したときもあったようです。しかしながら、ソールは毎日写真を撮り、絵を描いていました。このような生活は長年続きました。

 

マイケル・パリーロ: しかし、時には一冊の本がすべてを変えることがあります。
ソールが「この小さな本」と呼んだ写真集が、2006年に刊行されました。本書は彼の最初の出版物であると同時に、写真における色彩の用い方についての考え方を変えた本として、世界中から大きな反響を呼びました。「Early Color(アーリー・カラー)」という本です。ソール自身の期待とは裏腹に、この本が世に出たことによって、彼は突然スポットライトを浴びるようになりました。彼は1940年代から50年代にかけてカラー写真に取り組んでいましたが、当時アーティストたちはモノクロ写真以外を扱うことはなかったため、彼は先見(せんけん)(めい)があるとみなされました。彼の作品によって、写真の歴史そのものが大きく変わったと言われています。この本の刊行において彼が出した注文は、『ベットルームに置けるくらいの小さいサイズに留めて欲しい』ということだけでした。



ソールは再び脚光を浴びましたが、彼はそのことをあまり負担には思っていなかったようでした。彼にとってはむしろ愉快なことだったと感じたこともあります。今まで非常にプライベートな生活を送っていたソールが、有名になったことによってプライバシーの侵害を感じたことはもちろんあったかもしれません。しかしながら、基本的にはやっと認められたこと、また認め直されたこと、そして新しい人達とたくさん出会えることを喜んでいたのではと思います。」

マーギット・アーブ:「ソールは一躍有名になりましたが、彼の日常生活はあまり変わりませんでした。やっと問題なく請求書を支払えるようになったということが、大きな違いだったかもしれません。変わらず朝起きては一日中絵を描きながら、たくさんコーヒーを飲みました。本当に、本当にたくさんの量でした!そして毎日たくさんの本を読みました。彼はあらゆるところにカメラを持っていき、常に写真を撮っていました。私は週に1回必ずソールの家に行き、彼の作品整理のお手伝いをしていました。彼は私の生活の一部になっていましたし、私たちは家族のような関係でした。私は彼を本当に愛していましたし、彼も私を愛してくれていたと感じています。彼の晩年、とりわけ最後の7年間は、彼にとって非常に幸せな日々だったのではないかと思います。彼は2013年の11月26日に亡くなり、非常に短い闘病生活だったので、自宅で穏やかに息を引き取りました。彼はマイケルや私だけでなく、たくさんの友達に囲まれて90歳になる一週間前、89歳で亡くなりました。
 



大切なソールを失くし、私は胸が張り裂ける思いでした。彼が亡くなった後、最初にソールの鍵を使ってアパートに入ってスタジオを見たとき、本当に涙が溢れてくるような気持ちだったのですが、彼の作品を整理することによって、だんだんと立ち直ることができました。2015年に、私の夫であるマイケルが雑誌の仕事を辞め、私の仕事を手伝うことを決めてくれました。マイケルも私も、彼は家族の一員だったと思っています。

ソールの遺言により、彼の作品のアーカイブをすべて私に遺してくれました。私を信用してくれたということでありますし、整理は私にとって良い仕事にもなると思ってくださったようです。彼の指示に従い、2014年に私たちはソール・ライター財団を設立しました。彼の住んでいたアパートに本拠地を置くこの財団には、アーカイブのすべてが含まれており、ソール・ライターのアートとレガシーを保存することを財団のミッションに掲げています。

非常に膨大な品々をソールは遺してくれました。過去5年間、財団は彼の多くのプリント、ネガ、スライド、そして絵画の整理に着手しました。また、普遍的なかたちでこれらの作品をなんとか管理・保存しようと努め、そして彼が遺してくれた多くを管理・保存しています。たくさんのカメラ、スライドプロジェクター、暗室やスタジオで使った機材や道具、日記、領収書や請求書、手紙、家族の写真、タイプライター、筆やペン、フィルム、音声テープなど…数えきれないほど整理するものがありました。」



マイケル・パリーロ:「整理作業をはじめてすぐに見つかったのは、彼の家族、そして彼の小さい頃の写真でした。彼はペンシルベニア州・ピッツバーグで生まれ育ちました。彼の家族はユダヤ正統主義(ユダヤ原理主義)の一家でした。ユダヤ正統主義では、世界つまり宇宙の中で一番重要なのは家族であり、家族の中で一番偉いのは父親であり、王様のような存在でした。ソールの父であるウルフ・ライターは、素晴らしい有能な学者でした。たった18歳でラビとなり、7ヶ国語に堪能だったそうです。息子であるソールをラビ神学校に進学させ、自分の後を継いでもらおうと考えていたそうですが、ソールがそれをやめ、ニューヨークに引っ越したとき、彼は息子に裏切られたと非常に落ち込んだそうです。



ソールにとって、この教育というのは非常に辛いものでした。彼は才能に恵まれていたのですが、落ち着きのない子でもあったそうです。また、宗教の勉強を課されたことで、毎日余計に4、5時間勉強しなければなりませんでした。彼はそれでも一生懸命頑張り、ヘブライ語を流暢に話せるようになりましたし、ドイツ語もかなり勉強したそうです。ピッツバーグ大学に一旦は入学しましたが、一学期で辞めてしまいました。父が彼を説得し、別の街であるクリーヴランドのラビ養成学校に通いはじめました。しかし、彼はここでも一学期で退学してしまい、ピッツバーグに戻ってしまいました。ソールの話によりますと、両親はとんでもない問題児を抱えてしまったと思っていたそうです。

 

私たちがソールを知ったとき、彼は既に70代でした。先ほどお話ししましたように、彼が亡くなったのは90歳になる一歩手前でしたので、若い頃の様子は知らないのですが、彼の精神というのは若い時の写真にも全く変わらずあったと言えると思います。

 

ソールは16歳のときに画家を志望し、絵画を描きはじめました。母親は絵を描くことはあくまでも趣味として、宗教や学校の勉強が終わった後、という約束を彼としたそうです。しかし、その目を盗んではピッツバーグ大学の図書館に忍び込み、自力で美術史の勉強を進んで行いました。図書館で勉強したことにより、彼は別の世界を知ることとなり、彼の人生は大きく変わりました。

 

1930年代、ソールは写真を撮りはじめましたが、この頃彼はまだティーンエージャー(10代)でした。彼はデトローラ社製のカメラを母親にお願いしてやっと買ってもらいました。彼の最初のモデルとなったのが、妹のデボラさんです。今回の展覧会では、デボラさんの写真の数々がまとめて取り上げられています。近年発見されたばかりの写真もここには展示してあります。」

 

マーギット・アーブ: 「たくさんの作品を整理する中で一番驚いたのは、多くのモノクロ写真を彼が実際に現像していたことでした。今回たくさん発見されたのは、彼が「スニペット(断片)」と呼んでいた写真のコレクションです。今回の展覧会では、スニペットを多数展示しています。これは小さなモノクロ写真を手でちぎっています。数百枚このようなスニペットを見つけました。その中には、彼が後から手書きで絵を描き込んだと思われるものもありました。展覧会ではいくつかの小さなケースにまとめておりますので、大きな展覧会の中に小さな展覧会を形成していると言えるでしょう。
 


スニペット


また、本展で初めて公開するのは、ソールのコンタクトシートです。一部、映像コンテンツの「スライド・プロジェクション」内でも作品を使っています。今まで公にすることがなかった作品ですので、非常に貴重な空間です。映像をじっくり体感いただくことによって、彼の撮影方法や考えというのが少し感じ取れるのではないでしょうか。
 


コンタクトシート 


スライド・プロジェクション


―――続きは後日アップ予定です。