ベルギー奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまでベルギー奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで

Column
学芸員によるコラム

平成の日本によみがえるハプスブルク家のスーパー・オタク

 神聖ローマ帝国のルドルフ2世は1552年にウィーンのハプスブルク家に生まれ、同じハプスブルクのスペインで教育を受け、1576年に皇帝に即位。1583年、彼は首都をウィーンからプラハに移転する。プラハではカトリックとプロテスタントとの対立があまり激しくなく、ウィーンが勢力を拡大するトルコの脅威にさらされていたことや、兼任したボヘミア王は自国にいるべきであるというボヘミアの世論があったことなどがその理由と言われている。しかし丘陵とヴルタヴァ川が作り出す絵のように美しい風景や、その丘にそびえ立つプラハ城から見下ろすプラハの市街はこの若き皇帝を魅了していたに違いない。プラハが帝都となったのは彼一代だけのことであったが、あまり政治には関心を向けなかった代わりにこの皇帝は趣味に走り、宮廷にはヨーロッパ各地から芸術家や科学者が集まり、プラハは芸術と科学の一大拠点として、また実験場として、独自の繁栄を謳歌したのである。

ハンス・フォン・アーヘン作のコピー
《ハプスブルク家、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の肖像》
1600年頃、油彩・キャンヴァス、スコークロステル城、スウェーデン Skokloster Castle, Sweden

コレクターとしての徹底ぶり

 大航海時代と呼ばれるこの時代は、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回るインド航路を発見し、コロンブスが新大陸を発見し、マゼランが世界一周航海を果し、イエズス会伝道師が長崎までやってくるなど、世界は拡大していた。好奇心の塊であったルドルフ2世は、そうした遠隔の地からもたらされたあらゆる新奇なものに興味を持ち、美術品とともにそれらを熱心に収集し、プラハの宮廷にはかつてない規模の「驚異の部屋」が出現した。宮廷には珍しい獣や鳥の動物園や様々な草花を集めた植物園もあった。そしてその中には馬をベースにした架空の動物である「一角獣」のツノと称して、鯨の仲間「イッカク」のキバが展示されるなど、まがい物も含まれていた。

 これらの動物・植物のいわば記録係の中心となったのがフランドルの画家ルーラント・サーフェリーである。この宮廷画家は風景の中にこれらの動物をうまく配し、ときには神話の竪琴の名手オルフェウスが植物たちをその音色で魅了しているといった設定で描いている。植物分野では、花瓶の盛花の形式を始めたのもこの画家だと言われており、コレクター向きとも言える季節を無視して花を一つの画面に収めるやりかたは、ヤン・ブリューゲル等に引き継がれていった。同じくフランドル出身のヨーリス・フーフナーヘルは細密画家として、昆虫などの小さな生き物を克明に描写している。

ルーラント・サーフェリー 《動物に音楽を奏でるオルフェウス》 1625年、油彩・キャンヴァス、プラハ国立美術館、チェコ共和国 The National Gallery in Prague

ヨーリス・フーフナーヘル 《人生の短さの寓意(花と昆虫のいる二連画)》(部分) 1591年、グアッシュ、水彩・ヴェラム、リール美術館 Photo©RMN-cliché Stéphane Maréchalle

占星術・錬金術から天文学・化学へ

 世界の拡大は、天空でも同様だった。16世紀から17世紀は望遠鏡による天体観測が始まった時代で、星空の彼方まで人々の関心は広がっていった。プラハの宮廷には当時の二大天文学者ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーが招かれていた。天文学の主要文献である『ルドルフ表』もこうして誕生した。しかしこの時代、占星術と天文学はまで未分化な状態にあり、この二人の学者は占星術師でもあった。そして当然のことながら、ルドルフ2世のコレクションの中には望遠鏡など当時の最先端をいく観測機器が多数含まれている。この種のものは、自然物、人工物などと並列する科学物に分類され、その中には多くの時計もあった。時計は当時の科学の最先端をいく機器であったが、裕福な者だけが持つことが許される特別なものであった。精巧なメカとともに工芸品として優れたものが人気を博し、特にドイツのアウクスブルク製は名高く、皇帝のコレクションにも多数見受けられる。

 ルドルフ2世が興味をもったものに錬金術があった。まだ元素の概念がなかった時代、卑金属をるつぼで混ぜ合わせることでゴールドを作り出そうというのがその原点だが、それとともに人間を不老不死にすることができるという「賢者の石」の発見に、多くの労力が注がれた。黒魔術的な方向に走った者もいたが、錬金術師たちの探求は化学という学問に変貌していった。(実は万有引力で有名なニュートンも錬金術師であったことが知られている。)プラハ城には皇帝自らの実験室があり、城のふもとには錬金術師が多く住む地区があった。結果的に貴金属は得られなかったものの、彼らの試みは発見の時代における情熱の系譜に位置づけられる。

エラスムス・ビーアンブルンナー
《象の形をしたからくり時計》
1580年頃、鉄、真鍮、銅、鍍金、エナメル他、エスターハージー財団、フォルヒテンシュタイン城宝物殿 Photo: Manfred Horvath, Vienna

芸術を統べる絵画

 コレクター・ルドルフ2世の本領が最も発揮されたのは絵画の分野であった。彼は新しい帝都に神話やキリスト教に根差した表象による知の体系を打ち立てるという理想において、絵画がその全体を総括するのに最も適したものであると考えた。その象徴的な作品が、アルチンボルドがルドルフ2世を豊穣の神ウェルトゥムヌスにたとえた肖像画であろう。ウィーンの宮廷でルドルフ2世の祖父フェルディナント1世と父マクシミリアン2世に仕えたこのミラノ出身の画家は、動植物などを集めて人の顔を作ることで知られるが、その集大成ともいえるこの肖像画を晩年にミラノで制作してプラハのルドルフ2世に贈呈した。巡る季節、基本四元素、物の変転を司るエトルリア起源の神であるウェルトゥムヌスを描いたこの寓意画は、森羅万象を統べる主としての皇帝への賛辞となっている。拡大する世界から集めたられた果物や花を凝縮して作られた全体は、創造者たる画家の絵筆が生み出した小宇宙の主の肖像となり、それはルドルフ2世の「驚異の部屋」そのものを体現しているのである。

ヤン・ブリューゲル(父) 《陶製の花瓶に生けられた小さな花束》 1607年頃、油彩・板、ウィーン美術史美術館 ©KHM-Museumsverband

ルドルフ派のマニエリスム

 ルドルフ2世の宮廷には、ローマ、フィレンツェ、アントワープ、アウクスブルク、フランクフルトなど、ヨーロッパの南北から多くの芸術家が集まった。彼らは皇帝に優遇され、例えば宮廷画家のスプランガーは、天文学者と同じ給料をもらっていた。彼らは既にそれぞれの修行の場で自由な表現技術を身につけており、しかもローマやフィレンツェでお互いに出会っていたこともあり、この集団はルドルフ派とでも名付けられそうな濃密で複合的なマニエリスムの発信源となった。しかも宮廷には、絵画以外に自然物や生きた動植物、科学技術機器、金銀細工など、ありとあらゆるものが集結し、それらはすべて混然一体となり画家たちに着想源を提供していたのである。ローマをミケランジェロとラファエロの聖地とするなら、プラハはスプランガーやサーフェリー、フォン・アーヘン等、ルドルフ2世の宮廷画家の聖地と呼んでもいいだろう。

 そもそもマニエリスムとはルネサンス後期とバロックのはざま、マニエラ(手本)としての高度の芸術的手法を信奉する中で、極端な強調や歪曲に走った美術の傾向を指す言葉であり、否定的な意味に使われることも多いが、当時の美術界を記述したヴァザーリはこれを「最も美しいものを繋ぎ合わせて可能な限りの美を備えた一つの人体を作る様式」とした。たしかにルドルフ2世の時代はマニエリスムの全盛期であった。宮廷に招かれた画家においてもマニエラのおかげで途中で脱線してもよく、途中で作品の目的を失ってもよかった。そしてこのことは、マニエラに従う以上のものを画家たちに得させることになったのである。

ディルク・ド・クワード・ファン・ラーフェステイン《ルドルフ2世の治世の寓意》1603年、油彩・キャンヴァス、プレモントレ修道会ストラホフ修道院、プラハ、チェコ共和国 Strahov Monastery-Picture Gallery,Prague

 ではこのようにして生み出された絵画作品の特徴とは何であろうか。エロティシズムである。しかしそのエロティシズムは思ったより控えめであった。生涯独身であった(しかし何人かの私生児は残している)ルドルフ2世が追求したのは、「感覚を興奮させる肉体そのものを愛していた」と美術史家ヴェントゥーリは述べている(だったらもっと好色だったかもしれない)。これは洗練された格調高く優雅なエロティシズムというマニエリスムのそれとは一線を画するものだが、皇帝の感性はそのさらに上をいくものであったのだろうか。エロティシズムはルドルフ2世の美学を解き明かすカギであることは間違いないだろう。
Bunkamuraが総力を挙げて企画する本展は、まだ日本で紹介する機会のなかったこのスーパー・パーソナリティと遊ぶ、最高の機会となることだろう。

ザ ・ ミュージアム 上席学芸員 宮澤政男

ペーテル・グルンデル《卓上天文時計》1576-1600年、真鍮、鋼、スコークロステル城、スウェーデン Skokloster Castle, Sweden