オットー・ネーベル展 シャガール、カンディンスキー、クレーの時代オットー・ネーベル展 シャガール、カンディンスキー、クレーの時代

OTTO NEBEL
オットー・ネーベル

Illustration:ritsuko hirai

1892年12月25日
オットー・ヴィルヘルム・エルンスト・ネーベルとしてベルリンで誕生。
1909-13年
ベルリンの建築専門学校で建築工事の専門技術を学び、マイスターの資格を取得。
1913/14年
ベルリンのレッシング劇場で俳優として修業。
1914-18年
軍役に就き、多くの前線で戦う。
1916年11月
休暇中にヘルヴァルト・ヴァルデンや他の「シュトゥルム」の芸術家と知り合う。
フランツ・マルク没後の回顧展でマルクの作品に強い感銘を受ける。
1918/19年
戦争捕虜となり、14カ月にわたってイングランドのコルスターデール収容所に拘束される。
1919-26年
ベルリンで画家、作家として活動。また芸術誌『シュトゥルム』にも関わる。
1920/21年
画家のルドルフ・バウアー、ヒラ・フォン・レバイらと芸術家グループ「クラータ―」を結成。
1921年
ハーゲンのフォルクヴァンク美術館にて最初の個展を開催。この時展示された作品のほとんどはのちに破壊される。
1923年
のちに妻となるマルガレーテ・ヒルデガルト・ハイトマイヤー(1886-1974)と出会う。
1924年
5月26日にヒルデガルトと結婚。7月から秋までワイマールに滞在し、カンディンスキー、クレーと交友を結ぶ。
1926-28年
ミュンヘン近郊のコッヘルおよびスイスのアスコーナに長期滞在。コッヘルにて壁紙工房の共同設立者となる。
1930年
ポートフォリオ作品を制作した他、大聖堂を描いた連作の制作を開始する。
1931年
『イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)』を制作。
1933年5月
スイス、ベルンに移住し、制作・就業禁止による苦難の生活が始まる。
1935年
イタリアのアラッシオに滞在したのち夫婦でスイスのベルンへ移り、ヴァイセンビュールベック15番地に住む。ベルンのクンスト・ハレで展覧会が開かれ、クルト・リープマンによってネーベルの伝記が出版される。
1936-51年
カンディンスキーがヒラ・フォン・レバイを通してニューヨークのグッゲンハイム財団にネーベルを推薦。1951年までグッゲンハイムはネーベルから絵画を購入することで大いに支援する。
1937年
8月から11月までフォルテ・デイ・マルミに滞在し、その後フィレンツェに移動。連作〈ムサルターヤ〉を制作。
1941年
新たに大聖堂を書いた連作を制作。最初の連作にも手を加える。
1943年
ベルリンにあった100点を超えるネーベルの作品が戦争により焼失。
1944年
ベルンのクンスト・ハレで個展を開催。
1951-55年
俳優としてベルン・カンマーシュピーレ劇場(今日のエッフィンガー通り劇場)で働く。
1952年
スイスの市民権を取得し、ベルン市民になる。
1962年
船でギリシア、西アジアへ旅行。新たな絵画的刺激を受け、〈近東〉シリーズ1を制作。
1965年
ドイツ連邦共和国大功労十字章を受章。
1967/68年
ベルンのクンスト・ハレで大回顧展が開催される。
1969年
ベルン美術館におよそ200点の作品を寄贈。
1971年
ベルンにオットー・ネーベル財団が設立される。
1973年9月12日
ベルンで死去。