2014/1/2(木)-3/9(日)
Bunkamuraザ・ミュージアム
19世紀フランスを代表する壁画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)は、リヨンに生まれました。1846年22歳のときにイタリアを旅し、画家になる決意を固めます。2年後この地を再訪すると、ジョットやピエロ・デラ・フランチェスカなどの清涼で典雅な初期ルネサンスの壁画に深い感銘を受けました。一方パリで、アンリ・シェフェール、ドラクロワ、トマ・クチュールに短期間師事し、1848年に会計監査院の壁画装飾を完成させたシャセリオーに心酔していきます。1854-55年には、兄エドゥアールが新築した邸宅の食堂のために、初めての壁画装飾を制作しました。その壁画のひとつを再制作した≪狩猟からの帰り≫で、1859年のサロンに9年ぶりに再入選すると、美術批評家テオフィール・ゴーティエは、彼の壁画装飾という天職にいち早く着目します。そして、1830年代以降、ドラクロワからシャセリオーへ受け継がれてきた公共建築の壁画装飾という課題を、1860年代以降は、シャヴァンヌが引き継いでいくこととなるのです。
1861年、シャヴァンヌはサロンに≪コンコルディア(平和)≫と≪ベルム(戦争)≫を出品して、歴史画部門第2席を獲得し、前者が国家買上げの栄誉を受けました。この2作は、対となる≪労働≫と≪休息≫とともに、1864年ピカルディ美術館に設置され、初の公的な仕事となります。その後1888年まで20年以上続く、一連のピカルディ美術館壁画装飾は、壮大なピュヴィス・ド・シャヴァンヌ・ギャラリーを形成します。ウェルギリウスの『牧歌』・『農耕詩』に謳われたアルカディアを描き、公共建築の装飾にふさわしい高貴で静謐な「偉大なる単純さ」をもつ古典主義の作風を成熟させていきました。壁に穴をうがつような極端な遠近法をさけ、建築と調和するフレスコを思わせる艶消しの色調を用い、壁画装飾の美学を貫いていったのです。1860年代末からは、のちに印象派を形成する画家たちとも親交をもち、そのパレットは、次第に明るい色彩を放っていきました。
1870-71年の普仏戦争、続くパリ・コミューンにより、パリの街は壊滅的な打撃を受けました。廃墟と化した光景を前にして、切実に平和を希求したシャヴァンヌのアルカディア(理想郷)は、伝統を離れ、自らの独創によって、より深く、より豊かに発展を遂げていきます。1870-80年代、パンテオン、ピカルディ美術館、リヨン美術館、などの壁画装飾を次々となし、まさにフランスを代表する壁画家となっていくと同時に、≪海辺の乙女たち≫や≪貧しき漁夫≫など、タブロー画の重要作を生み出したのです。あくまで平面として画面を構築していく壁画の美学が、絵画とは「裸婦や軍馬である前に・・色彩に覆われた平坦な面である」(モーリス・ドニ)という次代の課題「自律する絵画」を先取りする役割を果たしました。さらに、シャヴァンヌの描き出す夢の世界は、ギリシア・ローマ神話などの伝統的な図像からも離れ、自らの理念や感情を独自の形態によって表現する象徴主義の画家たちの先駆者という位置をもたらしたのです。そして、印象派以降の前衛画家たち、ゴーガン、ゴッホ、スーラらに大きな影響を与えていきました。
普仏戦争以後の国の防備を象徴する、槍投げの練習をしているピカルディの若者たちが描かれています。 アミアン美術館階段の壁面を飾った《プロ・パトリア・ルドゥス(祖国のための競技)》の縮小版で、横幅280cmと大きいですが、本作にはかつて切り取られた右端125cm(《プロ・パトリア・ルドゥス(祖国のための競技)》もしくは《家族》)があり、両者は100年以上たった今、切断後に本展ではじめて出会います。
1891年、シャヴァンヌは国民美術協会の会長に就任します。また、ルーアン美術館、パリ市庁舎、パンテオンの最終作、さらに、アメリカのボストン公共図書館などの壁画装飾の依頼にも応えて制作し、まさに名実ともに画壇のトップとなりました。1895年には、シャヴァンヌを讃える大祝宴が開催され、600人もの画家、作家、美術行政官ら、フランスを代表する人々が集いました。シャヴァンヌの名声は、フランスの枠をも超えて広まり、各国より依頼や来訪を受けました。1893年には、日本近代洋画を確立することとなる画家・黒田清輝が、助言を求めてシャヴァンヌに会っています。黒田のシャヴァンヌへの傾倒は、帰国後日本で広まり豊かな成果をもたらしました。1898年、シャヴァンヌは74歳の生涯を閉じます。