レーピンの妻ヴェーラ・レーピナ(1855-1917)は、彼が美術アカデミーの学生であったときの下宿先の建築家アレクセイ・シェフツォーワの娘で、ふたりは1872年に結婚し、一男三女を授かった。
この作品は肘掛椅子でまどろむ妻を正面から描いているが、素早い鉛筆線で写生された習作(本展出品作)と比べると、正面性が強められ衣装が華やかになっている。私的な作品というよりも、展覧会用の作品としての描かれた可能性が高い。喪章であろうか、ヴェーラの右腕には黒いリボンが巻かれ、それは習作にも確認できる。
レーピンがムソルグスキーを知ったのは、美術アカデミーの給費生として西ヨーロッパに出発する前、1870年代初めである。レーピンはその頃からこの作曲家の肖像画を描くことを考えていたが、実現したのは1881年のことであった。ぼさぼさの髪、くしゃくしゃの鬚、目の周りの隈、アルコール依存症をうかがわせる容貌など、レーピンの描写には僅かな潤色も無い。
この肖像画は入院先の病室で描かれたが、ムソルグスキーはその約10日後に亡くなった。ムソルグスキーが亡くなったことを知ったレーピンは、肖像画に対してトレチャコフから受け取った400ルーブルを、美術界・音楽界のオピニオンリーダーであった批評家スターソフに託し、ムソルグスキーの葬儀などに当てるように提案した。
国立トレチャコフ美術館は、紡績工業で財を成したパーヴェル・トレチャコフ(1832-98)によって創設された美術館である。
1874年、トレチャコフは自宅の隣に画廊を設立、コレクションを一般公開し人気を博した。トレチャコフはロシア美術を代表するようなコレクションを築くことを目指し、彼の個人的な趣味ではなく、その時代を反映している作品を購入した。また、レーピンを含む多くの画家に絵の制作を依頼するなど、同時代の芸術家を支援している。同じく美術収集家であった弟セルゲイが1882年に亡くなると、そのコレクションを合わせてモスクワ市に寄贈することを決意、その後このコレクションが1893年にパーヴェルとセルゲイ・トレチャコフ・モスクワ市立美術館として正式に再公開されたのである。パーヴェル・トレチャコフは、1898年になくなるまで美術館の監督官を務めることになる。
20世紀初頭には、古代ロシア建築様式の美しいファサードが画家ワスネツォフによって設計され、トレチャコフの邸宅を含む美術館の建物が建て替えられた。
また、ロシア革命後の1918年に国立トレチャコフ美術館と改名。海外作品はプーシキン美術館とエルミタージュ美術館に移管され、トレチャコフ美術館はロシア美術だけを扱うようになる。その後も作品の収集を続け、1980年代に新設された新トレチャコフ美術館のコレクションを合わせると、現在美術館には中世のイコンに始まる10万点を超える作品が所蔵されている。