フランス文学の愉しみ

No 21現代社会へのテーマをいくつも内包した衝撃大作

『エタンプの預言者』
世代間衝突、文化の盗用、キャンセル・カルチャー…65歳の主人公がたどる運命は?!

『エタンプの預言者』 アベル・カンタン著/中村佳子訳/KADOKAWA

突然ですが、少しだけこぼれ話を最初に。
時々いただく質問なのですが、このエッセイでご紹介する本はどのように選ばれるかというと…私の個人的な好みはともかくとして、やはりなるべく最近に邦訳出版されたフランス語の小説のなかからというのが一番の基準になります。その次に、現代のフランスにおいて特に注目を集めた、集めている(できれば)新しい作家の作品で、日本の一般の読者にも興味を抱かせるような、ということになります。フランス語文学(小説及び絵本、バンドデシネ)は英語の作品ほどは邦訳されませんので、そのなかから選ぶ時には、結果的にフランスにおいて近年中にかなりメジャーな文学賞を受賞した作品となることが多いのです。受賞に至らなかったとしても、高評価を得てとてもよく読まれた作品であればもちろん良いのですが、とにかく翻訳出版に至っていなければなりません。このように選んでいくのは、日本の読者の皆さんに、かなり保証のある(つまり読んでがっかりしない)作品の紹介をこのエッセイ欄で読んでいただけるようにという配慮からなのです。でも時には全部読み終わった後にどうしたらよいかと頭をひねることも多くあります。なぜなら、作品が現代のフランスでの傾向を表象しているということは、普段気づかれないフランスと日本の文化差と現代の二つの社会の違いを孕んでいることを回避できないからです。たとえ翻訳がどんなに優れていても、日本の読者には知られていない背景があると何かモヤモヤしてしまうか、面白みが完全に伝わらない…かも知れない。これは翻訳小説の宿命ですね。

今回の『エタンプの預言者』のご紹介もなかなか一筋縄ではいかないと読了後悟りました。かなり長く、複雑な内容の小説ですが、いろいろな発見があり、多くのことを学びながら楽しむことができる作品ですので、ぜひ日本の読者の方々にも読んでいただきたいと思います。フランスでも大変高い評価を得ました。出版年の2021年にフロール文学賞を受賞し、以外にゴンクール賞、フェミナ賞、ルノードー賞、アカデミー・フランセーズ賞、ジャン・ジオノ賞の6賞の候補にもなりました。

『エタンプの預言者』は、小説の主人公が執筆出版する本と同じタイトルです。ですから、この作品は主人公とその著作の運命のストーリーです。現在から始まるのですが、第二次世界大戦後のフランス、アメリカ、ソビエト連邦の状況や80、90年代の社会状況をも描いています。今や「冷戦」という言葉は日本ではめったに聞かれなくなりましたが、80年代90年代はすでに30年から40年が過ぎていても一部の読者には未だ記憶に新しい時代とも言えます。すっかり歴史の中ではない、手の届く過去と現在の交差する世界観をもつ作品です。

<ストーリー>

65歳、冷戦史の専門家である引退した大学教員ジャン・ロスコフは、高等師範学校卒という知的エリートではあるが、そのキャリアにおいてこれといった華やかな業績もなく、実際大学教授にもなれなかった。現在はアルコール浸りで、学生時代に出会った妻とは離婚しており、彼女との間に娘が一人いる。二人との関係はほぼ良好。しかしながら、娘が新しい恋人ジャンヌ、急進的で「目覚めたwoke」フェミニストを連れてきた食事会での論争がきっかけに、40年以上前に行ったある調査の資料の見直しを始める。実際1995年には、「冷戦下米国のソ連スパイ事件」に関する本を出版したのだが、刊行翌日にCIAが機密を解除し、彼の主張(テーズ) は完全に覆され、メディアの寵児、大金持ちを夢見た彼の野心は挫折した。それから30年を経て、今度はかつて放棄した出版の計画を再開する。ロバ-ト・ウィローというアメリカの詩人の作品と生涯についてのエッセイである。この無名で終わった詩人は、ちょうど1950年代のアメリカにおける共産党排斥の時代に渡仏し、フランスではジャン=ポール・サルトルやボリス・ヴィアンをはじめとする共産党シンパの詩人のグループと交わりもしたが、その後パリ郊外のエタンプという町に住みついた。そしてある日カミュと同じような車の事故で死亡した。今回の本はいけているとロスコフは信じ、出版にこぎつけ小さな出版記念会を開くが、聴衆の中のある男から思いもかけない批判を受ける。ロスコフがウィローが「黒人」であることを自著で明示していないことだ。「まさか、あなたは、ひとりの黒人アメリカ人が、一九五〇年代に書いた作品を、その彼が黒人であったことに触れることなく、語れるとでも思っていらっしゃるのでしょうか?」1)ロスコフは自分の目的はウィローの作品を世に知らしめることであって、黒人としてのアイデンティティーはその文脈では二の次であったと答える。翌日、とあるブログが前夜のロスコフの発言を引用して糾弾する。ロスコフはレイシスト(人種差別主義者)だ。そして、思いもかけない主人公の擁護者を名乗る人間のツイートにした不用意な彼のリツイートが制御不能な炎上の長い日々にロスコフを導いていく…

以上のストーリーは、邦訳371ページのうち129ページまでのものですが、いわばメインストーリーの前置きであり、この作品の全てのテーマがそこまでにほぼ提示されています。そのテーマは、キーワードの様相で繰り返し語り手(主人公ロスコフ)とその他の登場人物の言葉あるいは言動として現れます。主要なものを知っておくとストーリーも小説内の争点もずっと理解しやすくなります。

<キ-ワード>

それらのテーマとは以下のようなものです。

  • SOS人種差別 (1980年代にロスコフが参加した、フランスで創設された反人種差別運動グル-プのこと)
  • ローゼンバーグ夫妻(冷戦時代にソビエトのスパイと疑われ(実際そうだった)死刑になったアメリカ人夫婦。当時の反米共産主義シンパの運動の象徴的存在だった)
  • 世代間衝突 (ロスコフと彼の娘の恋人ジャンヌの対立に象徴される新しい世代とかつての若い世代の差別に対する意識の違いからくる対立)
  • woke 「 目覚めている」(« woke »という英語のフランス語訳でジャンヌのような「覚醒した」意識を持つ若者を指す)
  • 文化の盗用 (ここではロスコフがロバート・ウィローの詩作品をウィローのオリジンを考慮せずに解釈しようとしたこと)
  • キャンセル・カルチャ- 個人を対象にして、過去の記録を掘り起こしてソーシャルメディア上で拡散し、炎上を引き起こすことによって、その個人を社会的に排斥するような行為を肯定するような風潮。このテーマは中盤以降に徹底して繰り返される。

そして以上のテーマは以下のような文脈で描かれています。

SOS人種差別
ロスコフが20代のころ友人のマルクとともに参加していた運動。インテリであり、左翼思想のロスコフの当時のアイデンティティーともいえる活動。
ローゼンバーグ夫妻
ロスコフはローゼンバーグ夫妻は冤罪であったと信じ、冷戦時代の米ソ冷戦の裏幕の研究を上梓したが、出版直後に夫妻が実際にソ連のスパイであったことの証拠をCIAが公開したため、彼の著作は意味のないものになった。
世代間衝突
この作品では特にロスコフの娘の世代とロスコフにおける人種差別の認識の乖離が問題になっている。実際、現代の「目覚めているwoke」世代はかつての人種差別反対を唱えていた人々の誤謬を指摘し激しく非難している。他のマイノリティ-な人種、文化の人間が感じていることを当事者でない者が代弁することは、それ自体が人種差別的行為であるということだ。この意味で最も不適切な存在は白人の男性である。彼らは最も差別される可能性の少ない特権層にあるからだ。このような発想が現代のポリティカルコレクトネスとなっていることにそれまで気づいていなかったロスコフは抵抗を覚えるが、説得力のある反論のしようがなくなっている。
文化の盗用とは上記にのべたような、当事者でない者がある文化を代弁しようとすることをいう。80年代のSOS人種差別に参加した白人の行ったことは、文化の盗用とみなされる。しかしながら、当時、そこまで認識を深くしていた活動家がいたのか、ということはロスコフにはわからない。その認識の欠如がまさにロスコフの罪とされている。
キャンセル・カルチャ-
ロスコフが現代における人種差別の認識を知らず理解していなかったことから、本人にとっては不本意な人種差別主義者というレッテルをはり、徹底的にロスコフを断罪するような状況が生まれた。彼は「目覚めて」いなかっただけなのだが、言い訳の仕方をたびたび間違える。

基本的にロスコフの著作がソーシャルメディア上の炎上の対象となったまま終わらないことが、この小説の中盤、終盤の筋となっており、炎上を治めるために主人公はどうふるまうべきかを、納得のいかないまま模索していきます。彼はどうすべきなのでしょうか。ポリティカルコレクトネスを遵守すべき、つまり直にあやまるべきなのでしょうか。それとも、自分の無自覚を反省しつつも、彼自身の真実を主張するべきなのでしょうか。

<ロスコフ(主人公)の運命の行方>

以上のキーポイントを考慮してこの小説を読んでいくと、あちこち脱線があるようでも、結局問題の争点となるのが、ある人間を語るときに人種の問題をどのように扱うかということに立ち返ります。このエッセイでは人種差別問題そのものを扱うことはもちろんしません。2) ただこの点に関して、私にとってとても興味深いことがこの作品にはいくつかありました。その一つは次のような疑問です。現代の日本人、日本社会における人種差別や移民に対する意識の成熟度を考えると、日本にはまだ多くのロスコフがいるのではないでしょうか。というのは、私自身がロスコフと同様に「woke」ではなかったので、主人公の困惑を彼とともに実感することになったからです。実際90年代にフランスにいて、SOS人種差別のスローガンである「俺のダチに手をだすなNe touche pas à mon pote」を町のあちこちで見かけることがあった私は、それをむしろ当時のフランス社会で広く謳われていた「連帯」の意識のひとつととらえていたように覚えています。それは、フランスに住んで初めて多民族多文化国家の現実を知り、その複雑さに驚くばかりで自分自身を「どこ」に位置付けるべきかもよくわからなかったからであろうと思います。現地にいて、さまざまな肌の色と国籍、オリジン、宗教の友人や人々と交わっていると、どうしてもこのような問題を日常的に考えることになります。連帯は皆一緒なので、共感や同情は問題ありません。しかしながら、彼らの一人一人の感情を実感することは、かなり難しいことなのです。フランス人にとってもそうであったはずですが、彼らには信条がありました。ですから、ロスコフがこのことをジャンヌから指摘されて唖然とする気持ちもわかります。当事者でなければ語れないのであれば、ロスコフは何を書くべきだったのでしょうか。
さらに、私が個人的にロスコフの言い分がわからなくもないという部分が他にもあります。研究者として、とはいえ歴史家の彼にとってウィローの詩についてのべることが研究と言えたかというと疑問ですが、特に80-90年代であれば、作品は作品が自らを語るものとしてとらえるべきであり、作家の個人的な要素は二の次になるという批評のあり方がまだ主流でした。文学における普遍主義です。実際のロスコフ著の「エタンプの預言者」を読んだわけでも読めるわけでもないので単なる想像ですが、そのような著者の姿勢というものを理解できなくはありません。
いずれにしろ、25年前のローゼンバーグ事件に関する自著の出版の失敗を機に、ロスコフは(ある時点から)周りの進化に無関心になっていったのではないでしょうか。(その25年間についての記述はほとんどありません。)そして、その当時のままの自分で新たに復活しようとしたのかも知れません。でもそれはもううまくいきません。時代は変わり、社会も変わったのです。
65歳という年齢の人々がみな彼のようであるわけではないでしょうが、このようなことはフランスであれ、日本であれ、あるのかもしれません。かつて、若い時に情熱と信念と誇りをもって行動していたはずのことが、今、若い世代には間違いだと批判される。その時行動をともにした人々は今どう思っているのだろうか。自分は本当に間違っていたのだろうか。戦争時に起きたことを考えれば、イデオロギーにかかわることにはよくこのようなポリティカルコレクトネスの転換が起こると言えるでしょう。しかしながら、この作品では、なにが正しいというよりも、このような時代の変遷にうまく乗れない人たちの本音がユーモア一杯に描かれています。実際、ロスコフは決して攻撃的ではなく、自虐的でさえあり、攻撃されても裏切られて腹は立てても相手を憎むこともなく、わが身を憐れみながらもなんとなく穏やかにやり過ごしていきます。(このユーモアの重要性を作者アベル・カンタン自らが主張しています)

一方で、ユーモアで描かれてもユーモアではおさまらないのがキャンセル・カルチャーです。こちらの方は、wokeと同じ世代が同じ発想で作り出した風潮であるとするとどこにその一環性があるのかはわかりません。ただ、いずれも間違っていると判断した他者に対して厳しく、容赦がなく、限度を知らないという印象を与えなくもありません。そして全てが瞬く間に、情報が瞬時に拡散されていくそのスピ-ドに人々がなすすべもなく押し流されていく様子は現在の日常によく見られる現象です。事実ではありませんが、フランスにおけるキャンセル・カルチャーの考えうる例としても興味深いものでしょう。

『エタンプの預言者』は一人称小説ですので、ロスコフが考え話し感じ、思い出すことが一貫して語られ、彼の身近な存在やさまざまな登場人物が彼自身のフィルターを通して語られています。

<主人公をめぐる登場人物たち>

この作品の主な登場人物というのは、もちろんスト-リーの必要上非常に沢山なのですが、主人公と近い、しかも個人的な関係で言えば決して多くはありません。最初から登場し、最後まで主人公にとって重要な存在とみなされるのは、まず家族です。それも離婚した妻、彼女との間にできた娘、さらにはロスコフの親友として登場するマルク。大学の同僚のニコル。主人公は家族という関係を最後のよりどころにしているようであり、別れた妻も娘も、ロスコフには驚くほど同情的です。家族を文字通り守るためという理由が重要であるとはいえ、家族は夫婦の破綻の後にも変わりなく残るのでしょうか。それに対しマルクは、主人公が頼りにしている存在としても、青春時代の親友、同志としてもしばしば登場しますが、二人の関係はどうなるのか。この人間関係を追っていくことで、現代フランスにおける家族、人間関係の在り方のあるモデルを垣間見ることができます。

『エタンプの預言者』が、フランスの重要な社会問題の歴史の一部を描いていることは間違いありません。そしてこの連載エッセイでも取り上げた作品の中で80年代を描いたり、80年代以降のフランスの風俗をそれぞれ違うアスペクトから描いたものは今回の作品と以下の2作品です。この時代の混沌とした部分がどのように描かれているか、フランスの社会はどのように変わってきたのか、それは個人のレベルではどうなのかということがさまざまに描かれていますのでこの作品の読書とともに楽しんでいただければ幸いです。

『ミッテランの帽子』アントワーヌ・ローラン著(フランス文学の愉しみ 7)

『ウィズ・ザ・ライツ・アウト』ヴィルジニー・デパント著(フランス文学の愉しみ 13)

<著者アベル・カンタンについて>

Autofiction(自伝小説)的な様相をもつ作品ではあっても、著者のアベル・カンタン(本名Albéric de Gayardon)自身は主人公ロスコフとはレベルの高いインテリである以外はほとんど共通点があるようには見えません。年齢もロスコフの子どもの世代です。1985年にリヨンの保守的なカトリックの家庭にうまれました。15歳の時に政治に関する本に熱中し、その後パリ政治学院に入学しましたが、一方で文学にも強い関心を抱いていたようです。キャリアとして最初に刑事裁判の弁護士となり、現在も大きな裁判に参加するような活躍を続けています。しかしながら、作家としての活動はペン・ネーム、アベル・カンタンを名乗っています。
第一作のla Sœur (2019)という政治スリラー小説で既にゴンクール賞の候補に上り、第二作『エタンプの預言者』ではさらに多くのメジャー文学賞の候補となっています。今回の作品を書くことになったのは、フランスにあるアフリカ系アメリカ人作家の名を宿した「James Baldwinの家」というライターレジダンスについての記事を読んでいてインスピレーションが沸いたからだそうですが、それ以上のことは語っていません。 これからも作家としての活動を続けていくことは間違いないようです。逆によく知られていることは、彼の妻がクレール・ベレストという作家であることです。彼女自身もRien n’est noirという作品で2020年のElle 文学賞を受賞しています。

偶然なのでしょうか、選書の段階では気が付かなかったのですが、前回は”偶然”に運命を悲惨に操られる主人公の話で、今回は自分の信念に忠実であるせいで間違いを重ねた主人公の運命の話でした。全く違う人生の歩み方ですが、皆さんはどちらにより共感を覚えますか?
文学は本当にさまざまな人生を描きます。読者は描かれた人生に憧れたり、恐れたり、いろいろな思いを巡らすでしょう。でもその人生が間違っているかどうかは、良い人生であったかそうでなかったかは、じつは当事者-主人公であったり、他の登場人物であったり-でなければわからないことなのかもしれません。どこまでもその人生を共に生きることが読者に託されているとすれば、文学によって人は異なる環境や異なる文化の多くの人生を生きることができるでしょう。 文学はまさに内面の旅、冒険に読者を誘います。

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