山田和樹 マーラー・ツィクルス

INTERVIEW インタビュー

最終年に見えてくるもの-山田和樹

2015年からスタートした山田和樹×日本フィルのマーラー・ツィクルスが最終章を迎える。2017年5月~6月の「第3期 昇華」で演奏されるのは、第7番「夜の歌」、第8番「千人の交響曲」、第9番という作曲家の円熟期の大曲。規模も構想も更に巨大になったマーラーの宇宙が若き山田和樹の柔軟な創造性によって展開される。この果てしないマーラーの世界観について、今、山田和樹が思うことは?絵画や色彩など多彩なイメージが飛び出すインタビューとなった。

インタヴュー・文 小田島久恵

――マーラーの第7番といえば、複雑怪奇で指揮者の頭の中や部屋の中が見えるような音楽だという印象があります。混沌としていたり、逆に恐ろしいほど整然としていたり…録音を聴いても極端に演奏時間の差が出る曲ですよね。

「マーラーって面白いのは、『ああしろ、こうしろ』って細かく書き込んでいるのですが、メトロノーム記号を書いていないんですね。他では『ここでホルンは立ちなさい』『木管はベルアップしなさい』と細かく書いているのに、具体的なテンポには触れていない。僕はチェリビダッケ(※1)派だから、テンポは響きが充実していればゆっくりになるし、響きが少なければ速くなるし、会場の響きや空気によっても変わると考えています。絶対的に楽譜を読み込んで『こうだ』と決められる人は羨ましいですけど、僕は余白があって本番まで決めない部分がすごく多い。リハーサルで試しながら『こうかな、ああかな』と決めていくタイプです。ただ、昨年の柴田南雄先生の演奏会(※2)で、楽譜の読み方が少し変わったんです。柴田南雄的になったというか(笑)、分析的になってきたと思います。」

――柴田南雄さんの「ゆく河の流れは絶えずして」の上演は画期的でした。ご自身のプロデュース公演でしたし、あそこで山田さんの生き方がはっきり見えたという印象です。

「あれは挑戦してよかったと思います。リスクもありましたが、リスクを負うから良いのだとも感じています。このマーラー・ツィクルスだって、『指揮者が急病ですので、代役が指揮します』とはいかないわけで(笑)。あくまで僕が指揮することになっている。ありがたいことに僕がやらなければ意味がない。そういうリスクがあるからお客さんが惹かれる部分もあると少し感じていて、ノーマルなものより『どうなるんだろう?』というものに関心が集まるのではないでしょうか。マーラーに近づけるかというのは、僕の中では大冒険です。こんな大それた企画が通ると思っていなかったのに、通っちゃった(笑)。これもタイミングなんです。今しかできないことをやるというね。少し年をとったらこれがブルックナーになるのかも知れませんが。」

――なるほど。マーラーは6番まで順調にきましたが、7番からはまた独特の世界になりますね。

「すごく特殊です。金聖響さんがマーラーについての本を出されていて、勉強になることがたくさん書かれているんですが、7番だけは『まことにわからない』と記されている。お客さんにとっても一番入りづらいのかもしれません。マーラーの人生の中では、彼の娘が亡くなるという大事件が起こります。その経験というのは亡くした人でないとわからない。想像しようとは思いますが…彼の人生の中には出会いと別れがいくつかあって、兄弟がたくさんいたのにほぼ亡くなってしまうということがあった。そういうふうに生きてきて、アルマと出会って新しい命が誕生する瞬間を見るわけですよね。それが亡くなって、夫婦の関係にも危機がやってくる。この世の無常というか、すごく言葉にできない部分を詰め込んでいて、9番の達観とは別の苦しさを感じます。」

――胸が痛む出来事とともに生まれたのが7番だったのですね。8番の「千人の交響曲」では一転して、祝祭的で輝かしい世界になります。

「マーラーはオペラを書きませんでしたが、8番を彼が書いたオペラだとすると、と考えることがあります。オペラというのは、『自分ではない人間を演技する』という意味で、人間に無理をすることを強いるものではないかと思うのです。マーラーは無理をして、特別な演技をして、人類史上最大の曲を書こうとした。とにかく自分がやらなければという使命感があって、生きているうちに他の誰も書かないような、後世にも追い越されないような巨大な曲を書かなければ、と考えていた。独唱者が合唱と同じことを歌っているのに『絶対に手を抜いてはいけない』と書いてあったりするのもマーラーらしいです。」

――個人的には第一部ですごくハイテンションになって、第二部では少しばかり眠くなってしまうことが多いです。

「一部は合唱的要素が強く、二部はレチタティーボ的な要素が強いのではないでしょうか。二部ではソロが際立ち、音楽が澄んでくる…一部はひとつのことを言っているのでわかりやすく、二部ではファウストの精神が複雑に歌われているのでわかりづらい。2番の『復活』と似たところもありますが、8番のほうがより全てを含んでいる感じですね。全部が明るい光に包まれて、金色に輝いている。」

――まさに黄金のシンフォニー。8番は二回演奏会があるので楽しみです。最後の9番は、胸を搔き毟られるような悲痛な名曲ですが…。

「僕はこの曲を熊本交響楽団の第100回記念定期演奏会で指揮したことがあります。熊響とは付き合いが長くあったのですが、今後のことを考えるともしかしたら最後の共演になるのではないかと思いながら演奏しました。小澤征爾さんが音楽監督として29年を過ごしたボストン交響楽団で最後に振ったのもマーラーの9番でした。惜別の想いとか、この世との別れといったものとリンクする曲で、そういう中でないとなかなか出来ない曲だと思います。表現しようとすることと、演奏家と指揮者との関係性が深いつながりを持っている。ニ長調というのがまた、とても特徴的な調性なのです。」

――ニ長調は惜別の調性なのでしょうか?

「ベートーヴェンは交響曲第2番と第9番でニ長調とニ短調を使っていますし、ハイドンも交響曲第104番でニ長調を使っています。モーツァルトのレクイエムもニ短調です。レという音が、いかに人間の死と結びついているか…ベートーヴェンは2番を書いたときに遺書を記していますし、9番が最後の交響曲です。マーラーの9番は、1楽章から彼岸の音楽ですよね。現世と彼岸を行ったり来たり…自分の生への肯定と否定であり、死への肯定と否定であり…すべてのものが含まれているのだと思います。マーラーの音楽はクリムトと結びつけられて語られることが多いですが、同じ世紀末美術で僕が連想するのはムンクです。ムンクの『叫び』は、夕焼けの空を見て叫んでいるのですが、個人的には冬から春になる季節の光景を描いているように思うのです。冬から春へ向かうわけだから、基本的にはものすごく嬉しいはずなのに、氷が溶けてようやく外に出られるよ、というとき、狂気に近い感覚で、ああいう叫びになるのではないかと。ものすごくエロティシズムに溢れていたりもします。あの絵の暗い赤みがかった色合いが、死や死後の世界を暗示する「レ」の音なんですね。シベリウスの家にも、シベリウス本人が好きだったというムンクの絵があって、それがどうしようもなく暗い絵なんですが、暗い中にぼんやりと明るいオレンジがある。その赤黒いオレンジがシベリウスに言わせるとニ長調なんだそうです。」

――9番の最後は「息絶えるように…」などマーラーの書き込みも執拗ですが、「ねっとりと終えよう」など考えてしまうことはないですか?

「チェリビダッケが言っていたように、あるべきところにあればいいと思うんです。ようやくマーラーも、最後のページで言いたいことが言えたのではないでしょうか。だから、本当にそのままでいいんじゃないかと。インテンポという意味ではなく。でも、マーラーはあるべきところにあるのがすごく難しいんです。あるべきところにぽんと行けるのがモーツァルト。対極にいる二人ですね。」

――9番まで終えた後、日本フィルとはさらに絆が深まっていきそうですね。

「マーラーの交響曲はオーケストラにとって緊張を強いる曲ですから、その緊張をともにしてきた戦友という感覚があります。そういう戦友ならではのフィーリングで最後の第三期を迎えたいですね。1番から順番にやってきて、9番を演奏し終えて初めて見えてくるものがあるんじゃないかな。自分が感じるか、オーケストラが感じるか、お客様が感じるか…何かがあるのではないかと思っています。」

Photo:©山口敦

(※1)1912年~1996年。ルーマニアに生まれ、ドイツを中心に活躍した指揮者。
(※2)2016年11月7日にサントリーホールで行われた柴田南雄生誕100年・没後20年 記念演奏会。山田が実行委員会代表を務め、平成28年度文化庁芸術祭大賞を受賞した。

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