モネとジヴェルニーの画家たち

クロード・モネ 《睡蓮》1897-1898年 油彩・キャンヴァス 個人蔵

2010年12月7日(火)― 2011年2月17日(木)

Bunkamura ザ・ミュージアム

主な作品紹介

二つの顔

ジヴェルニーは印象派の巨匠クロード・モネが晩年に移り住みアトリエを構え、「睡蓮」の連作を描いたことで知られています。本展でもモネがジヴェルニーで描いた作品を、いわば「出発点」としてとりあげています。
 しかしこの村にはもう一つの顔があります。それはモネの噂を聞きつけてやってきたアメリカ人画家たちの滞在をきっかけに、外国人が次第に芸術家のコロニーを造っていったことです。ジヴェルニーのアメリカ人画家は、ジヴェルニー派とでも呼ぶべきグループを形成していきました。そしてそれは、アメリカ印象派の誕生でもありました。

モネ神話

1883年、ジヴェルニーに定住したモネは、最初の数年間ジヴェルニーの自然に魅せられていました。ジヴェルニーの風景を描き尽くしたあとは、「積みわら」の連作のような、年間を通して一日の異なる時間や異なる季節が見せる表情を作品にしていきました。さらに造園に夢中になり、庭と池を、特に池の睡蓮をテーマに、壮大な叙情詩を作り上げたのです。

 ジヴェルニーにおける独自の境地の探究という点では、モネは先駆けであるとともに頂点を極めた画家でした。しかし最後の挑戦は、広大な庭と池のある敷地という、いわば閉じた世界で繰り返されました。この意味でも、外部から来る者たちにとって晩年の巨匠は、神話的な存在だったのです。

周辺の風景

最初のアメリカ人たちがジヴェルニーにやってきたのは1880年代半ばで、まだこの地があまり知られていなかったころです。最初の世代にはセオドア・ロビンソン、ウィラード・メトカーフ、ウィリアム・ブレアー・ブルース等がいました。
 ジヴェルニーはセーヌ川の広い谷の北西斜面に位置し、エプト川などのいくつかの川が流れ、変化のある景観を作り出しています。彼らは丘の斜面や水辺の美しさに魅せられ、視覚が捉えた印象をそのまま記録しようと事物の輪郭はぼかし、補色を用いて影を描き、光と大気に焦点を当てました。モネのことを意識しながらも、彼らは各々のやり方で、みずみずしい独自の印象主義を展開させていったのです。

村の暮らし

1887年6月、ボーディ・ホテルが開館すると、村を訪れる画家の数は増大し、2、3年も経ぬうちに芸術家のコロニーが形成されました。自然の景観だけではなく、村人、村の道や建物、農作業なども人気の画題となりました。
 特に注目されたのは、モネが連作に描いた積みわらでした。モネは異なる視点から、季節や時刻、画面サイズも変えて制作し、積みわらを取り囲む光と大気を捉えようとし、ジョン・レスリー・ブレックは、積みわらを同じ視点から描き、画面も同一のサイズを用いて、一日の変化を描きました。

家族と友人

1895年までにジヴェルニーは外国人にとって人気のありすぎる行き先となりました。画家たちは次第に家族で移り住み、長期で滞在するようになりました。彼らは、村の賑わいとは距離を置き、風景よりも、自宅の庭や家族、友人を絵の対象として関心を向けたのでした。
 セオドア・アール・バトラーは、モネの二番目の妻アリス・オシュデの娘シュザンヌと結婚し、この地に家庭を築き、主題も家族を扱うものに転向していきました。

ジヴェルニー・グループ

20世紀初頭、ジヴェルニーの画家たちは「装飾的印象派」と呼べるような独自の新しい様式で制作するようになっていきました。彼らは、1910年にはニューヨークのマディソン画廊で「ジヴェルニー・グループ」として作品を発表し、マスコミに快く受け入れられました。村の情景や、プライベートな庭における女性像を主題としたこれらの作品は、明るい色彩と量感を表現する画法で生み出されています。

 1880年代に流行した積みわらや花咲く野原などのテーマが再び取り上げられ、一方、フレデリック・カール・フリージキーやリチャード・ミラーらによる女性像は、現実世界から切り離された世界を装飾的にまとめたもので、ボナールやヴュイヤールなどのナビ派の作品を彷彿とさせます。
 芸術家コロニーの活動は、第一次世界大戦の始まりとともに画家も減り、ひとつの時代が終わりました。しかしモネがジヴェルニー時代の最初の頃に注目した美しい村の情景が、最後にまた画家たちの注目を浴びたのは偶然ではないでしょう。つまりそれは、画家たちの物語の主役が、この美しい村であったことを物語っているのです。


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