「ミレー3大名画展 〜ヨーロッパ自然主義の画家たち〜」



ミレーは、英仏海峡に面したフランス・ノルマンディ地方、シェルブール港近郊の寒村グリュシーの農家に生まれました。小さいときから農村での過酷なまでに厳しい労働を自ら体験して育ちます。絵の才能を認められ、19歳でシェルブールの肖像画家に師事しました。1837年、シェルブール市より奨学金を得て、パリのポール・ドラロシュのアトリエに入門。しかし、せっかくのパリでの修業にもかかわらず、師との折り合いが悪く、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品の観察・研究に明け暮れる毎日でした。

1839年のローマ賞コンクールで入賞できなかったミレーはシェルブールに戻って、肖像画や看板絵を描いて生活するようになりました。しかし、このシェルブール時代に描いた2点の肖像画が、サロンに入選しました。1841年、シェルブールでポリーヌ・オノと結婚しますが、3年後にポリーヌは結核のために死亡。1846年、ミレーは再びパリに行きます。ミレーは、1845年から家政婦だったカトリーヌ・ルメールと生活をともにし、9人の子どもをもうけます。カトリーヌとの正式の結婚式は1875年、ミレーの死の直前に行われました。

ミレーが農村のテーマによる新しい作風の境地をひらいたのは、数年来のジャガイモの大凶作がもたらした1848年2月革命直後、1848年のサロン出品作品《箕をふるう人》によってでした。
翌1849年にはパリで猛威をふるったコレラを避けて家族とともにバルビゾンに移り住み、以来、バルビゾンで、無名の農民を主役にした作品を制作しつづけます。そして1850年に《種蒔く人》をサロンに発表。この年のサロンにはクールベが《オルナンの埋葬》を出品し、写実主義の決定的な誕生を見るに至った時期といわれています。

 しかし、ミレーは経済的困難をともなう生活を強いられました。ミレーの作品の一部が批評家や大衆に認められず、農民に反乱を教唆するものとして激しい攻撃を受けることすらあったために、売れなかったのです。とくに1857年のサロン出品作品《落穂拾い》、1863年のサロン出品作品《鍬をもつ男》が激しい批判にさらされ、子沢山のミレーは、絵画や版画をごく安い値で売ることを強いられました。

ようやくミレーが最初の大成功をおさめたのは、1864年のサロンに発表した《羊飼いの少女》で、それ以降、作品の評価が急激に上昇します。1867年の万国博覧会で1等賞のメダルを獲得して以来、注文が増え、栄誉が与えられたことで晩年の10年間の生活は以前よりも楽になりました。1868年、レジョン・ドヌール勲章を授与されます。

1875年1月20日、バルビゾンで死去。シャイイの墓地に友人テオドール・ルソーと並んで埋葬されました。ミレー没後、1889年には、《晩鐘》がパリのオークションにかけられ、フランス政府とアメリカ芸術家協会の一騎打ちとなり、当時としては史上最高の80万フランという高値を記録します。ミレーの《晩鐘》《落穂拾い》《羊飼いの少女》は、その後世界中で複製され、彼の名を不朽のものとしました。



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