ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力

章解説

序章 出会いゴールドマンコレクションの始まり

  • 明治3(1870)年以前 紙本淡彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    ぞうとたぬき》

    もともとは50点ほどの絵を収めた画帖の一枚であった。大きな象に対し、小さなたぬきが可愛らしい小品。

  • 明治4-12(1871-79)年頃 紙本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    かえる学校がっこう

    教師が指す黒板は蓮の葉、生徒が腰掛ける椅子は蓮根。開化以降の西洋的な集団教育を蛙の姿で描いたもの。

 ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。

 あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。「象とたぬき」の小品はもともと画帖であったものを、ニューヨークの画商がバラバラに市場に出したうちの一枚でした。ゴールドマン氏はそのうちの数点を入手し、ある顧客に転売してしまいました。しかし「象とたぬき」のことが忘れられず、後日その顧客に頼み込んで返してもらいます。今日では世界有数の質と量を誇るゴールドマン氏の暁斎コレクションは、ここから始まったのです。

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第1章 万国飛世界を飛び回った鴉たち

  • 明治4–22(1871–89)年 藍紙墨画、金砂子 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    枯木かれき夜鴉よがらす

    第二回内国博への出品作と、鴉の姿勢や枝振りは似ているが、藍紙と金砂子で薄闇を表現した珍しい作品。

  • 明治4–22(1871–89)年 絹本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    烏瓜からすうり二羽にわからす

    鴉の黒に対して熟した烏瓜の朱色が映える。数ある暁斎の鴉図のなかでも精確で力強い筆使いが際立つ作品。

 明治3(1870)年の秋、上野の料亭で催された書画会で、例によって大酒した暁斎(当時は狂斎)は、新政府の役人を風刺する滑稽画を描き、その場に居合わせた警吏に捕縛されてしまいます。

入牢3か月、鞭打ち50回という刑を受け、ようやく釈放されました。暁斎はこの恥辱を深く後悔し、筆名を「狂斎」から「暁斎」と変えます。
 この筆禍事件が災いしてか、明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会に暁斎が呼ばれることはありませんでした。しかし4年後の第2回内国勧業博覧会では出品が許可され、「枯木寒鴉図」など4点を出品、この図は事実上の最高賞である妙技二等賞牌を得ました。当時すでに暁斎に注目していた外国人たちは、こぞって鴉の絵を求めました。鴉は暁斎を一挙に海外に知らしめた作品となり、暁斎は海外に飛んでいく鴉を思い、鴉と万国飛の文字を組み合わせた印を作りました。

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第2章 躍動するいのち動物たちの世界

明治4–22(1871–89)年 紙本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

動物どうぶつ曲芸きょくげい

猫、鼠、蝙蝠などが綱渡りや梯子乗りといった曲芸を披露する。本来なら有り得ない姿勢の動物をごく自然に描き上げている。

  • 明治21(1888)年 絹本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    枇杷猿びわにさる,瀧白猿たきにしろざる

    枇杷を差し出す猿と、蔦にぶら下がる白猿の対幅。狩野派絵師としての画力と写生による研究の成果が光る作品。

  • 明治4–22(1871–89)年 紙本淡彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    かえる放下師ほうかし

    長竿の曲芸を描く。演者は蛙で、竿も太鼓も三味線も蓮でできている。暁斎の得意とする動物の擬人化。

 暁斎は鴉をはじめ、鷺、虎、象、狐から鼠や猫、また蛙や昆虫などの動物を自由自在に描きました。その多くは実物の写生に基づいています。

 暁斎の画塾では写生が重視されており、暁斎の伝記を載せた『暁斎画談』には、自宅の庭に様々な動物を飼って、弟子たちがそれぞれ好きな動物を描く場面があります。動物の写生は、モデルである動物がおとなしくしていないので、写生の技術を学ぶには最良の手段でした。ホイッスラーの弟子であるモーティマー・メンペスが暁斎を訪問したとき、暁斎は動物の写生について、動物が元の姿勢に戻るのを待つのではなく、ひたすら観察してあらゆる姿勢を脳裏に刻み、屋内に戻ってその姿を記憶から描く、と述べたといいます。
 暁斎は動物たちを擬人化し、まるで人間社会の縮図のように描きましたが、大小の異なる動物が同じ画面のなかで生活していても、あるいは動物たちの手足が曲がるはずのない方向に自由自在に曲がっていても、暁斎の観察力と描写力のもとでは不自然さを感じさせません。

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第3章 幕末明治転換期のざわめきとにぎわい

明治7(1874)年 大判錦絵三枚続 Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

名鏡倭魂めいきょうやまとだましい 新板しんぱん

名鏡の輝きが悪魔外道を恐立させる図とされるが、そのなかに暁斎旧知の英国人ワーグマンによる『ジャパン・パンチ』のキャラクターの姿も見える。

  • 明治4–22(1871–89)年 紙本淡彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    まちかえるたち》

    蓮の電柱の下、蓮の葉でできた人力車が走る。車夫の力強さや、ふんぞり返って煙草を吹かす乗客の描写が見事。

  • 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    船上せんじょう西洋人せいようじん

    煙突のある蒸気船上に二人の西洋人を描く。暁斎は彼らを親しみのこもったユーモラスな表情で表している。

 江戸から明治への転換を経験した人々は、大きな断絶と価値観の変化を受け入れざるを得ませんでした。しかし暁斎は冷静に時代を観察することのできた、数少ない人間でした。

彼はいかに周囲が変わっても人間の本質には変わりがないことを知っていました。西洋の船に乗る外国人、博覧会場の日本人と西洋人、今戸で瓦を焼く職人や渡し船に乗る人々などが、まったく同じ視線で描かれています。
 暁斎の作品には、人力車に乗る蛙、学校に通う鬼の子供たちもいれば、墨合戦に夢中になる大人たち、芸者と遊ぶ鯰髭の役人もいます。暁斎はあらゆる人間の生活を様々な生き物に仮託して描くので、見る者はいつの間にかそれが動物であることを忘れて、己の姿として見ているのです。
 版画の世界では描写がもっと過激になり、師の歌川国芳を凌駕するほどのダイナミックさで描かれています。版画と肉筆の描写の仕方や技法の差異を熟知しているからこそ、このような描き分けが可能だったのです。

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第4章 戯れる福と笑いをもたらす守り神

  • 明治15(1882)年 紙本着彩、金泥 Photo: 東北芸術工科大学 杉山恵助

    鍾馗しょうきおに

    暁斎はさまざまな鍾馗の戯画を描いたが、本作では正統的画法による鍾馗が、本来の役割を全うし鬼を退治する。

  • 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    弁財天べんざいてん六福神ろくふくじん

    大黒天と恵比寿が見ているのは、七福神の紅一点弁財天の掛軸。一方の毘沙門天は後ろで興味なさそうにしている。

 暁斎にとって、七福神は特別な意味を持っています。これに鍾馗や風神雷神、山姥などを含めても良いかもしれません。七福神や鍾馗は、暁斎の子飼いの役者たちです。

本来の役割を演じている場面もありますが、多くの場合、七福神は宴会をしていたり、自分たちの家来である鼠や鯛などと打ち興じていたりします。鍾馗もまた退治すべき鬼と戯れたり、あるいは鬼を使って曲芸を演じたり、危険な崖へ薬草を取りに行かせたりしています。
 暁斎は七福神や鍾馗を使っていろいろな場面を演出しますが、日本画の世界でこのようにキャラクターを自在に使って描くのは、暁斎ただ一人でしょう。しかもその描写力は抜群で、まったく手を抜くということがありません。鍾馗の太刀や着物は精密に描かれ、鬼たちも手足の先々まで丁寧に描かれています。

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第5章 百鬼繚乱異界への誘い

明治4–22(1871–89)年 紙本着彩、金砂子 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

百鬼夜行図屏風ひゃっきやぎょうずびょうぶ

伝統的に絵巻に描かれることの多い百鬼夜行だが、本作は六曲一双の屏風となる。ユーモラスな妖怪が大画面に展開する。

  • 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥 Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

    地獄太夫じごくだゆう一休いっきゅう

    地獄模様の打掛を着た伝説の遊女「地獄太夫」と、骸骨たちと踊る一休和尚。奇怪な場面を精緻な筆で描く。

  • 慶応4/明治元-3(1868-70)年頃 絹本淡彩、金泥 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    幽霊図ゆうれいず

    幽霊物も得意とした五代目尾上菊五郎から依頼された幽霊画。暁斎は妻の亡骸の写生から本作を制作したという。

 暁斎は写生を最も重視していましたが、実存しない幽霊や百鬼、閻魔や鬼などはどのように描いたのでしょうか。後妻の阿登勢が亡くなったとき、暁斎は彼女を抱き起してその顔や姿を写生したといい、出品作の「幽霊図」はその写生を元に描かれたと伝えられています。

 また暁斎はさまざまな流派の研究に対しても、当時の絵師としては珍しいほど熱心でした。暁斎の所有であったことを示す印のある作品が今日でも市場に流通しており、また『暁斎画談』には、各流派の「筆意」として古代日本画、中国画はもとより近世以降のほとんどの絵師の筆意が描かれています。筆意というのは、作品そのものの模写ではありません。暁斎はそれぞれの絵師の立場になって、その筆意を表現しているのです。暁斎は先達の作品を参考にしながら、そこに原作者の筆意を感じ取り、場合によっては自らの写生も加味して、さまざまな異界の図像を作り出しました。

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第6章 祈る仏と神仙、先人への尊崇

  • 明治19(1886)年 絹本着彩、金泥 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    龍頭観音りゅうずかんのん

    龍頭観音は姿を変えて現れる三十三観音の一つ。即興的な作品とは異なる丹念な仕上げが際立つ。

  • 明治18(1885)年 紙本淡彩 Photo: 立命館大学アート・リサーチセンター

    半身達磨はんしんだるま

    かつてジョサイア・コンダーが所有していた作品の一つで、大胆かつ丹念に描かれた威厳に満ちた達磨図。

 暁斎は達磨図を多く描きました。狩野元信、常信の達磨、長谷川等伯や曽我蕭白の達磨、そして白隠による達磨など、名品と言われる達磨図は数多くありますが、暁斎の達磨図はそれらの系譜に連なっています。

 もし暁斎が他の無数の作品を描かずに、達磨図だけを残していたとしたら、彼に対する評価はまったく異なったものとなっていたでしょう。
 轟音の響くような滝を前にする李白、雨中の山水のなかを静かに飛翔する鶴の群れ、滝の前に座る観音、はっとするほどの近代的な美人として描かれた霊昭女、賑やかで派手な作品群と比べると、別人の作かと思われるほどの静謐さに溢れています。これも暁斎の一面なのであり、ある意味では、暁斎の真価はこの作品群に見られるとも言えるでしょう。ただ暁斎はこうした静謐さに留まり、人里離れた霧の谷間に隠居するには、人間世界のあまりに多くの生き方、愚かさ、滑稽さ、好奇心あふれる様子に気が届きすぎたのです。

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笑う人間と性

明治4-22(1871-89)年 紙本着彩 Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

十二ヶ月春画絵巻じゅうにかげつしゅんがえまき》(部分)

鯉のぼりのなかで男女が愛し合う。外では鍾馗がきまりが悪そうに腕を組んでおり、見る者の笑いを誘う。

暁斎の春画は数こそ少ないですが、歌川派浮世絵師の描く春画と比して際立つ特徴があります。それはユーモアです。
春画は笑い絵とも言われますが、暁斎の場合は文字通り笑いに溢れています。

細工の施された仕掛け絵となっていて、画面外の紙を操作することで性器が出たり引っ込んだりするものや、障子の向こうとこちらでの性行為を描いたもの、さらには性行為のさなかに男の後ろからちょっかいを出す猫など、暁斎の春画は笑いを誘います。暁斎の春画において性行為は薄暗いじめじめした世界ではなく、明るくおおらかな笑いの世界であり、そこには生きる喜びが満ちています。

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※本展には一部春画作品が出品されます。

注1:《百鬼夜行図屏風》(部分)明治4–22(1871–89)年 紙本着彩、金砂子
注2:《地獄太夫と一休》(部分) 明治4–22(1871–89)年 絹本着彩、金泥