ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力ゴールドマンコレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力

河鍋暁斎とは

河鍋暁斎は幼い頃から絵を好み、父は暁斎を浮世絵師歌川国芳に、続いて駿河台狩野派に学ばせた。暁斎は早くから頭角を現し、師の前村洞和はその画才を賞して「画鬼」と呼んだという。幕末から明治の時代、狩野派の絵師は最大のパトロンである幕府の崩壊という厳しい状況に追い込まれるが、暁斎はその画力と反骨の精神を生かして浮世絵を出版、本に挿絵を添え、書画会では求めに応じて無数の作品を描き上げ、さらには来日する外国人に作品を提供するなどして、苦しい時代を巧みに生き抜いていった。
暁斎は無類の酒好きとしても知られるが、生涯を通じてあらゆる表現を探究し続けた極めて熱心な絵師でもあった。土佐派や四条円山派などの伝統的なものから、浮世絵や西洋画に至るまで知りうる限りの画法を研究し、同時に仏画や山水画などの伝統的な画題から、世相を反映した戯画や風刺画まであらゆる主題に精通した。
晩年の明治20年には東京美術学校が開校し、近代国家にふさわしい日本美術のあり方が模索されてゆく。暁斎はこの時流とは一定の距離を取っていたこともあり、今日では必ずしも美術史の中心には位置づけられていない。しかし聖と俗、貴と賤をない交ぜにした暁斎の作品は、江戸から明治への転換期の混沌とした様相を鮮やかに描き出している。

河鍋暁斎略年譜

天保2年(1831)
下総国古河(現・茨城県古河市)に生まれる。
天保8年(1837)
浮世絵師歌川国芳の門に入るも、二年ほどで去る。
天保11年(1840)
この頃、駿河台狩野家の絵師前村洞和愛徳の門に入るが、間もなく洞和が病気となり、駿河台狩野家当主の狩野洞白のもとへ移る。
嘉永2年(1849)
狩野派の免状を与えられ、洞郁陳之の号を得る。
安政2年(1855)
安政大地震の直後に、仮名垣魯文とともに世相を反映した鯰絵を出版する。
安政4年(1857)
この頃、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女と結婚、絵師として独立する。
元治元年(1864)
この頃、多数の錦絵や版本を出版する。
慶応元年(1865)
深山幽谷の風景を会得するべく門弟とともに信州を旅する。途中、依頼されて戸隠神社中社の天井に龍図を描く。
明治3年(1870)
十月、書画会で酔中に描いた絵が、居合わせた官吏の目に留まり投獄される。年末もしくは翌年正月に放免。
明治6年(1873)
ウィーン万国博覧会に出品するために「鷹、蛇、雉の相食はんとする図」を描くも期日までに完成しなかったが、同博覧会の装飾のために大幟「神功皇后・武内宿彌の図」を依頼されて制作。
明治9年(1876)
フィラデルフィア万国博覧会に「枇杷栖ノ島図」「中世歌妓ノ図」を出品。フランス人実業家エミール・ギメと画家フェリックス・レガメーが暁斎宅を訪問。
明治14年(1881)
第二回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」が、事実上の最高賞である妙技二等賞牌を受賞。百円という法外な価格を付けたが、菓子商の榮太樓が購入し話題となる。明治10年にお雇い外国人として来日した英国人建築家ジョサイア・コンダーが暁斎に入門。
明治15年(1882)
第一回内国絵画共進会に「風神」「雷神」を出品。
明治16年(1883)
竜池会がパリで開催した第一回日本美術縦覧会に「龍頭観音図」を出品。
明治17年(1884)
駿河台狩野家の当主狩野洞春の臨終に際し、画法を後世に伝えるよう託され、狩野派宗家の狩野永悳に入門する。
明治18年(1885)
この頃、仏道に帰依して本郷の霊雲寺より「如空」の法号を授かる。以後、これを絵画の署名に用いるようになる。
明治22年(1889)
4月26日、コンダーらが見守るなか死去。谷中の瑞輪寺正行院の墓地に埋葬される。

注1:《百鬼夜行図屏風》(部分)明治4–22(1871–89)年 紙本着彩、金砂子
注2:《地獄太夫と一休》(部分)明治4–22(1871–89)年 絹本着彩、金泥