産業革命が進展し、大英帝国として繁栄を謳歌した18世紀半ばから19世紀の英国において、水彩画は大いなる発展を遂げ、英国の「国民的美術」と言われるまでになりました。もともと油彩画のための習作や版画の原画として、あるいは地誌的な記録用に描かれた水彩画は、この時代に公的な展覧会に出品されるようになり、水彩画家という呼称も一般化しました。水さえあれば簡単に使用できる水彩は、油彩画とは一味違った数々の傑作を生みだしたのです。
大聖堂、修道院、城砦、あるいは廃墟は18世紀以降の水彩画家が好んで取り上げた主題です。水彩画界の夭逝の巨匠トマス・ガーティン(1775-1802)が描いた大聖堂の威容は、単なる記録の域を超えた水彩画芸術の金字塔的な趣があります。また一方で、1770年代から風景に関して、「ピクチャレスク」という考え方が、牧師で著述家のウィリアム・ギルピンによって提唱されました。それは起伏に富み、唐突に変化し、不揃いなもので、「絵に描いたときに心地よく、特殊な種類の美に満ちている」ものであり、そのような風景を求めて英国国内を巡る「ピクチャレスク・ツアー」が有閑階級の間で盛んになっていきました。
英国水彩画の父と呼ばれるポール・サンドビー(1725-1809)や巨匠ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)あるいはジョン・コンスタブル(1776-1837)が描いた眺望は、そのようなピクチャレスクな風景の典型と言えるでしょう。
本展にはターナーの作品が30点含まれ、水彩画家としての活動期間全般を網羅しています。
ターナーの初期の作品に最も大きな影響を与えたのはジョン・ロバート・カズンズ(1752-97)で、ターナーは水彩画の表現力を活かしたカズンズの描き方に魅力を感じ、カズンズの抑制の効いた色使い、憂愁の滲む風景の詩的な描き方を信奉しました。ターナーの初期の水彩では、1794年の旧ウェルシュ橋を描いた作品に見られるように、建築の細部を精緻に描き込みながらも、ニュアンスに富んだ色使いが実践されています。
また地誌的な眺望を描きとめる版画の原画の制作も続け、1824年にはターナーにとって最も大規模な版画制作となる『イングランドとウェールズのピクチャレスクな景観』の発注を受けました。 ウォリック城やアップナー城などの景勝地が描かれたこれらの原画は、ターナーの水彩画芸術の最高峰に数えられています。1841年から44年にかけてターナーは毎年夏にスイスを訪れ、風景画を制作しました。この時描かれた透明感あふれる一連の作品もまた、ターナーの個性が冴える最高傑作のひとつです。
目まぐるしく変化する自然の光景を描きとめることと共に、頭に浮かんだ幻想的な世界を描きとめることにも、水彩画は適していました。
ウィリアム・ブレイク(1757-1827)は幻想画家としては作品の力強さ、影響力の大きさにおいて他の追随を許しません。特に自らの詩に基づく《日の老いたる者》と題する水彩画は、英国美術の傑作のひとつとなっています。
サミュエル・パーマー(1805-81)はブレイクに大きな影響を受けた画家です。ブレイクの最晩年に周囲に集った若手画家や熱心な支持者の中心的人物で、自然を幻視的な眼差しで捉えた幻想的な風景画を得意としました。
ジョン・マーティン(1789-1854)もブレイクの流れを汲む画家で、彼は透明水彩と不透明水彩の技法を極限にまで突きつめながら、雄大で叙事詩的な幻想を作品に表しました。
19世紀後半の英国美術を語る上で、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)らの若い画家たちが結成したラファエル前派兄弟団の美学を看過することはできません。このグループを擁護したのは評論家ジョン・ラスキン(1819-1900)で、なにも拒まず、なにも選ばず、ひたむきに自然と向き合うべきだとするラスキンの所説が、彼らの精緻な細密描写を促しました。
この傾向は、エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)らの作品を介して唯美主義と融合します。ディテールにこだわったかつての描写は装飾的な意匠に置き換えられ、バラの花など象徴性の高いモチーフを使って哀愁を帯びた独特の雰囲気を醸し出していきました。この系譜の画家たちの水彩画は、その技法の特徴を活かしつつも、風景や地誌の枠を超え、聖書の世界、神話、文学など広範囲に及んでいます。
このように、18世紀半ばから19世紀のこの時代を通じて洗練されていった水彩画は、他の国々にはない領域と伝統をつくりあげました。その背景には富の蓄積された豊かな英国社会がありますが、優れた才能をもつ芸術家が輩出したことを忘れてはなりません。「巨匠たちの英国水彩画」とはまさにその点を指しており、150点余りの作品で構成される本展は、この豊かな英国水彩画の世界を堪能できる格好の機会となるでしょう。