展示概要
トピックス
学芸員による展覧会紹介
国立トレチャコフ美術館紹介&当時の時代背景とロシア文化の流れ

国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア
2009年4月4日(土)−6月7日(日)
Bunkamuraザ・ミュージアム

学芸員による展覧会紹介

忘れえぬ女


 表紙を飾るのは、ロシア語の原題を直訳すればむしろ《見知らぬ女》となるクラムスコイの名作。日本ではその謎めいた美しさゆえ、いつしか《忘れえぬ女》と呼ばれるようになった作品です。しかしそれはこのイメージがそれほどまでに印象的で、心に残るものであるからに他なりません。たしかにこの女性像は、日本だけでなく世界中の人々を魅了してきました。またこれは、19世紀後半から20世紀にかけてロシア絵画の潮流を代表する作品の一つでもあり、本展が辿ろうとする流れに位置付けられる作品なのです。
 19世紀後半のロシアは、社会の混乱とは対照的に文化的には実り豊かな活気溢れる時代でした。つまりクリミア戦争の敗北から農奴制廃止を経て、巨大な帝国は社会主義革命を前に静かに沈没していく運命の只中でした。そんな中で知識人たちは、民衆を、祖国を意識し、社会の真実を探求しました。ドストエフスキーやトルストイが世に送り出した大作を誰もが耽読し、美術界もまた多くの才能を輩出しました。

この時代のロシア美術の中心的な考え方がリアリズム(写実主義)でした。そしてそこにはいくつかの方向性がありました。一つは批判的なリアリズムであり、社会の矛盾を暴露する内容を持つジャーナリスティックなもの。またこれとは別に、ときには同じ画家が、そんな社会の片隅に生きる人々の小さな幸せを、あるいはそこにふと見出した真の美しさを描きとめようとしました。そして鋭い心理的洞察を通して盛んに描かれた肖像画も、リアリズム絵画の重要な分野でした。
 馬車に乗った女性を描いたクラムスコイの作品は、街角で出会った美しい瞬間を、肖像画のような形で表現したものです。寒いロシアの街であえて無蓋の馬車に乗るこの見知らぬ女性は、決して上流の貴族階級ではないでしょう。画家は憂いとも悲しみとも取れるその表情を通じて、社会の真の姿を表現しようとしたのでしょうか。しかしながら一瞬の美を見事に描き出した この作品は、写実主義的な描写ながら、ロシア絵画の印象主義的方向への展開を示すものともなっています。

トレチャコフの夢

 クラムスコイには別の側面もありました。彼は1863年、サンクトペテルブルグの美術アカデミーの14人の学生が、卒業制作のテーマを自由に選択させよと叛乱を起こした事件の首謀者でした。画学生たちは放校になりましたが、その後彼らに対してモスクワの画家たちが移動展覧会協会を共同で立ち上げることを提案しました。移動展派と呼ばれるグループの誕生です。彼らは地方都市に美術展を巡回させ、啓蒙活動を展開し、クラムスコイはそこでも主導的な役割を果たしました。

 19世紀後半、官展に対抗しロシア美術界の真の牽引役となるのがこの移動展派で、第1回展は1871年にサンクトペテルブルグで開催されました。クラムスコイの他、ペローフ、サヴラーソフ、プリャニシニコフ、シーシキン、ゲーをはじめ、本展に作品が出品されている多くの画家がこれに関わりました。もともとのきっかけが主題の選択の自由に関することであったことからも、ロシア絵画はこのときから、更なる豊かな広がりをもつことになりました。

 ロシア美術史上極めて重要なこの運動を支えたのが実業家トレチャコフでした。1850年代から収集を始めた彼は、移動展派の画家たちの作品を大量に買い取り、彼らの重要な庇護者となったのです。トレチャコフ美術館のコレクションの中でも、19世紀のリアリズム作品がこれほど充実しているのはひとえにその賜物であり、トレチャコフ美術館は「移動展派の家」とも呼ばれています。トレチャコフは特別な存在となり、画家の誰もが作品の値段を下げてでも彼に作品を購入してもらうことを望むほどでした。
 移動展覧会が本格的に展開する前の1860年代に活躍した画家の中で、トレチャコフが特に注目したのがペローフでした。もっとも19世紀前半のヴェネツィアーノフの流れをくむ、この極めて社会派のリアリズム画家においても、《鳥追い》や《眠る子どもたち》といった、名もない民衆の日常における小さな喜びを描いた心温まる作品を描いています。
 一方、風景画家であったサヴラーソフは、ロシアに広がるありふれた風景に着目し、リアリズムの画家としての姿勢を貫きながら、祖国愛を喚起する叙情性溢れる作品を送り出しました。
風景をロマン主義的な感性でとらえるクインジも個性豊かな画家として移動展覧会で人気を呼びましたが、徹底した客観的な細密描写でロシアの身近な森を描いたシーシキンの作品も、祖国の美しさを再認識させる結果となりました。

トレチャコフの夢

 移動展派第一世代のクラムスコイやシーシキンも西欧を訪れていますが、第二世代の中心的画家であるレーピンの三年間に渡るパリ給費留学は、第1回印象派展の前年、1873年から始まりました。レーピンが印象派展を見たかどうかは定かではありませんが、彼らの存在を意識していたことは手記などから知られています。レーピンは風俗画や歴史画、あるいは肖像画を得意とした民族派あるいは社会派ともいえるリアリズムの画家ですが、屋外の平穏な日常のひとコマを主題として、明るく軽やかな色彩と軽快な筆遣いで印象派風の作品を描くようになるのもこの滞在がきっかけとなったのです。とはいっても、それは《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》といった、家族や身近な世界を描いた比較的小さな作品、すなわち注文ではない自由に制作できる作品においてだけでした。

 帰国後、彼は再び歴史的・社会的な主題の構成的な大画面の作品を次々と制作しますが、 それらの作品ではフランスやイタリア訪問を機に得た鮮やかで情熱的な色使いと、さらに勢いを増した確かな筆致が、この画家の特徴として息づいていくのです。

 ドイツ、イタリアを巡り、レーピンと同じ時期にパリにも滞在した画家ポレーノフは、フランスにおける新しい絵画の動向をさらに積極的に取り入れ、明るい風景画の秀作を数多く残しています。特にパリ留学後に制作された《モスクワの中庭》は、アパートの窓から見た平和な市民生活の裏舞台がのどかな雰囲気の中にまとめられており、ロシアにおける外光派の誕生を告げる記念碑的作品となっています。
 一方、移動展派には、レヴィタン、コローヴィン、セローフ、アルヒーポフ、カサトキンといった若い画家が入会し新しい世代を形成しましたが、1890年代には次第に派の活動は下火となっていきました。それは美術を、民衆の啓蒙活動や社会悪の告発のための道具とするのではなく、リアリズムといえどもむしろ日常生活の中に美と生の喜びを見出し、それを描き出すことに芸術家の関心が移っていったことを示しています。

この世代の画家たちは、明るく澄んだ色彩で自然とその中に調和する人間の姿を描き出しました。中にはレヴィタンやコローヴィン、グラバーリ、セローフ、ユーオンのように、直接パリで新しい美術の洗礼を受けた画家もいますが、西欧の美術の動向を若い彼らが知らないはずもなく、ここにおいてロシアのリアリズム絵画、つまり写実主義は、主題と描き方の両方において、その究極の段階であり終章とも言うべき印象主義の段階を迎えたのです。そこには各々画家の個性もさることながら、雪や白樺といったロシアならではのモチーフの展開も注目されます。

 リアリズムは19世紀から20世紀初頭のロシア美術を理解するキーワードです。本展はそれがこの特異な社会風土の中で、印象主義的なものへと変貌していく流れを、自然(大地)、人(肖像)、風俗(生活)という三つの視点に着目しながら、体系的に追う展覧会です。トレチャコフという並外れた炯眼の持ち主によって収集された珠玉の作品群は、訪れる人に美の世界の新たなページを開いてくれるにちがいありません。

Bunakamuraザ・ミュージアム 学芸員 宮澤政男

主要出品画家年表

アレクセイ・サヴラーソフ(1830-1897年)
ニコライ・ゲー(1831-1894年)
イワン・シーシキン(1832-1898年)
ワシーリー・ペローフ(1834-1882年)
イワン・クラムスコイ(1837-1887年)
イラリオン・プリャニシニコフ(1840-1894年)
アルヒープ・クインジ(1842-1910年)
ワシーリー・ポレーノフ(1844-1927年)
イリヤ・レーピン(1844-1930年)
ニコライ・カサトキン(1859-1930年)
イサーク・レヴィタン(1860-1900年)
コンスタンチン・コローヴィン(1861-1939年)
アブラム・アルヒーポフ(1862-1930年)
ワレンチン・セローフ(1865-1911年)
イーゴリ・グラバーリ(1871-1960年)
コンスタンチン・ユーオン(1875-1958年)


ページの先頭に戻る
Copyright (C) TOKYU BUNKAMURA, Inc. All Rights Reserved.