運命のアーティスト・カップル モディリアーニと妻ジャンヌの物語展

展覧会構成

 ジャンヌに出会った頃のモディリアーニは32歳。画家としての円熟期を迎えていました。それまで彼が付き合ってきた女性は、みな大変個性の強い女性たちで、モード・アブランテスはミュージックホールでも活躍していた女優であり、アンナ・アクマートヴァは有名なロシアの詩人。そしてベアトリス・ヘイスティングスはイギリスの詩人でした。当時のモディリアーニは画家としての名声を獲得し始め、画商ポール・ギョームのお抱えとなり、画商ズボロフスキーとの出会いがありました。また、個展も開かれ絵も売れるようになっていました。

 モディリアーニに出会った時、ジャンヌはまだ18歳でパリのアカデミー・コラロッシュに通う画学生でしたが、堅実な中産階級の両親のもとで育ち、最初の絵の手ほどきを同じく画家であった兄のアンドレから受けていました。モディリアーニと出会う以前の彼女の作品は、まだ方向性こそ定まっていませんが、日常生活の中に主題を求め、それを表現豊かに描き出し、すでにはっきりとその才能を示しつつありました。

 モディリアーニとジャンヌの二人は1916年の末に出会います。それからほどなくして同棲生活をはじめ、  ジャンヌは妊娠します。共同作品ではありませんが、この二人の関係とは切り離せない作品が生まれてきます。ジャンヌは真の才能を自分の中に見出し、またモディリアーニもジャンヌという生涯を通して最も愛し、そしてインスピレーションを受けるモデルと出会い、彼の芸術はさらに発展していきます。

 幼少の頃から病弱だったモディリアーニは、酒と麻薬におぼれた生活により、さらに病状が悪化します。そこで画商ズボロフスキーの勧めで、1918年5月から6月にかけてパリを脱出し、温暖な南仏ニースへと旅立ちます。同年11月にはジャンヌが女の子を出産し、生活は苦しくともモディリアーニは制作に没頭できるようになり、作風も透明感のある明るいものに変わっていきました。ジャンヌも制作を続け、日常の生活シーンなどを描きながらふたりの幸福な情景を永遠のものとして画面に定着しました。

 モディリアーニは1919年5月末にパリに戻り、ジャンヌも7月初めに娘とともにパリの彼に合流します。ジャンヌは2人目の子供を身篭り、二人は書面で結婚を誓約します。しかし、モディリアーニの病状は日に日に悪化していき、作品の色彩は再び暗さを帯び、濃いものとなっていきます。一方ジャンヌが描く作品では、彼の運命を悟ったかのような不気味な主題が現れるようになります。そして皮肉にも、モディリアーニの画家としての名声は高まる一方でした。論評は好意的となり、画商ポール・ギョームの画廊では個展が開かれ、ロンドンの展覧会では大成功を収めます。 しかし病魔は慈悲もなく、翌1920年、結核性脳膜炎で彼は病院に担ぎこまれ、意識の回復しないまま1月24日に帰らぬ人となります。そして更なる悲劇が起こります。ジャンヌが26日未明に、両親のアパルトマンの6階から投身自殺してしまいます。妊娠8ヶ月でした。
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