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アンカー展 故郷スイスの村のぬくもり | 
2007年12月1日(土)→2008年1月20日(日)
Bunkamura ザ・ミュージアム

展覧会内容

日本初。注目の回顧展

 無垢な子どもたちの姿には、無条件で人をなごませる何かがあり、疲れた心を癒すパワーがあります。

 ――スイスの自然主義の画家アルベール・アンカー(1831−1910)は、生涯にわたってそんな子どもたちの姿を描きつづけた画家です。彼の芸術活動は、いわば現代人に失われた楽園を、あるいは幼い日の桃源郷を、追い求める営みでした。

「見よ、世界は呪われていない」

 アンカーはスイスのドイツ語圏とフランス語圏の境界線上に位置するインス(仏語名アネ)という村の、獣医師の家に生まれました。ここはかつてブドウ畑もあったというアルプスの麓の緑豊かな土地で、村民の大半は農民でした。

 若くして母と兄妹を亡くしたアンカーは、父の願いを聞き入れてプロテスタントの牧師になるためにベルン大学神学部に入学。しかし当初から絵画への興味を抱き、結局は何年もかけて父を説得し、画家としての道を歩むことになります。よって、プロテスタントの信仰は、アンカーの人生と創作活動に多大な影響を及ぼし、彼は父に報いるべく堅実で庶民的な人生を送り、主にインス村の子どもの姿を、ときには老人とともに描きつづけました。子どもも老人も、世俗から離れた理想郷の住人であり、それらの作品は、キリスト教的信念とも一致する「よき世界」の表現でもありました。「見よ、世界は呪われていない」。アンカーのこの言葉は、彼の求める肯定的な世界観を非常によく表わしています。

ふるさとは遠きにありて

 もっともアンカーは、子どもや老人だけでなくインス村の日常全般も取り 上げています。そのなかには展覧会を意識したものや注文による制作も含まれますが、さまざまな村の情景を描いた作品からはどれも、ゆっくりと流れる時間が感じられます。この村は画家にとって、真の楽園だったのです。

 とはいえ、アンカーはこの村にいつも住んでいたわけではありませんでした。画家としての修行の始まりはパリで、1855年、20代半ばで国立美術学校に入学。またシャルル・グレールの画塾でも学びましたが、ここには印象派として注目されるルノワールらが集いました。こうして彼は模範的な学生として制作に励み、技術を磨き、サロンへのデビューも果たします。そして1860年からは、夏はインスで過ごしモデルとなる人物を求め、冬はパリで制作するという生活を、晩年インスに定住するまでの30年の長きに渡って続けます。

ゴッホが注目した画家

 アンカーも、絵画の様式的には当時パリの「前衛的」な傾向としての写実主義の流れを汲むものでした。しかしそれは、オノレ・ドーミエのように革命後の社会や風俗の変化を敏感に捉えるというのではなく、ギュスターヴ・クールベのように、さらに攻撃的なリアリズムの戦士となったわけでもなく、むしろ農民画家ジャン=フランソワ・ミレーのように、ただしテーマはスイスの田園に取材しながら、自然主義の作品を発表しつづけました。ですが、ミレーにはまだ過酷な農作業に同情するセンチメンタルな部分や宗教的感情の高まりがあったとすれば、アンカーはジュール・ブルトンほど農民をヒロイックには扱わず、あくまでも目の前の現実を肯定的に受け止め、それを愛でることを制作の基本としていました。また、アンカーは印象派にも関心を寄せ、都会生活の美しい面を感覚的に取り上げるという印象派の姿勢を評価し、自分自身はスイスの村の生活の美しい側面を積極的に取り上げていったのです。

 そんなアンカーを、ゴッホも高く評価していました。ゴッホはパリの画商グーピルに勤めていた弟に宛てて次のように手紙を送っています。「アンカーはまだ生きているのか?彼の作品をよく思い出すのだが、とても真面目な絵で、丹念に細かいところまでよく描かれている。彼はまだ古いタイプの画家だね」。たしかにゴッホと比べれば、アンカーの画風はすでに古い様式に見えたかもしれませんが、その作風は当時大いに受け入れられ、グーピル商会のおかげもあって、作品はよく売れたようです。

品々は語る

 アンカーは静物画においても大いなる才能を発揮して います。この分野でも彼は当時のフランスの傾向に同調し、寓意性を排除した写実性で再評価されていたシャルダンにあこがれていました。そして実際、シャルダンの域に達した作品も残されています。

 アンカーの静物画には二種類あり、ジャガイモやチーズなどが登場する農家風のものと、中産階級の家にある高価な食器や焼き菓子、コニャックなどを描いたもの。また、人物画のなかの小物として描かれたものも含め、細密に描かれたそれらの品々の中には今日まで伝わるものが多くあり、アンカーのアトリエ兼住居であったインスのアンカー・ハウスに残されています。この家は、今日、一般公開されており、モデルとなった品々だけでなく、イーゼルなど画家の道具、さらには壁にピンで留められた写真やメモ書きなども含め、当時の様子を知る上で格好の場所となっています。

よく遊べ、よく学べ

 さまざまなジャンルに才能を発揮したアンカーですが、彼が最もよく知られているのは子どもを描いた作品であり、とりわけ「遊んでいる子ども」というモチーフにこだわりました。このモチーフをここまで追求した画家もめずらしいといえます。アンカー自身にも六人の子どもがあり(うち二人は幼くして他界しています)、その成長過程を作品として記録。さらに晩年は「子どもの生まれた日から」というエッセイを執筆し、インスの教育行政にも積極的にかかわっていたことからも、もともと子ども好きであったことはいうまでもありません。

 一方、19世紀のヨーロッパは、子どもに対する教育に大きな変化が起きた時代でもありました。先駆的であったスイス人ジャン=ジャック・ルソーや、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッツィの人間主義的思想は、アンカーの芸術にも影響を及ぼしていたと考えることができます。ルソーは、子ども時代というものが独立した人生の一時期として価値あるものとみなし、また、ペスタロッツィは、子どもの玩具は教育的な見地からふさわしいものを与えるべきだと提唱しました。それに呼応するかの如く、アンカーは無心に遊ぶ子どもたちの姿の中に理想郷たる村の情景の中でも最高の至福を見出していたにちがいありません。

 また、アンカーは遊んでいる子どもばかりでなく、学ぶ子どもたちの様子も多く描いています。これもまた、当時のスイスにおける学校教育の変化を反映したもので、かつては採用されていた権威主義的な授業に代わって、なごんだ雰囲気の授業の様子や、楽しそうな遠足の様子などが積極的に取り上げられています。

 結局のところ、アンカーはその様子を、暖炉の前でおじいさんの昔話に耳を傾ける子どもの姿と同列にとらえていたといえるでしょう。

 アルベール・アンカーは、現在もなお、スイスの国民的な画家として本国で大変な人気を誇っており、とくに幼い少女を描いた作品はアンカーの代名詞ともなっています。それはまた、宮崎駿のアニメで日本でもよく知られるようになった「アルプスの少女ハイジ」のイメージとも重なるものです。チューリッヒ生まれの原作者ヨハンナ・シュピリのこの物語は、アンカーとは相違点もありますが、スイスでもアンカーを語る際に多く引き合いに出され、私たち日本人にとっての最も身近なイントロダクションともいえます。

 本展は、ベルン美術館の協力により開催される日本で初めての回顧展として、多くの人々に発見と感動をもたらすことでしょう。そして、この画家が求めた楽園を、追体験することのできる展覧会です。


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