「オードリー・ヘップバーン展 Timeless Audrey」

プロフィール&フィルモグラフィ


西暦 年齢 バイオグラフィ フィルモグラフィ
1929年   5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれる。  
1935年 6歳 イギリスの寄宿学校へ。(1938年まで)  
1938年 9歳 両親が離婚。  
1939年 10歳 戦争中をアルンヘムで過ごす。市の音楽学校に通い、プリマバレリーナになる夢を見る。  
1945年 16歳 一家でオランダのアムステルダムに引越す。当時評判の高かったバレエ教師ソニア・ガスケルのレッスンを受ける。  
1948年 19歳 母を説得し、ともにロンドンへ移る。そこでは有名なマリー・ランバートのバレエ学校の奨学金をもらい、授業をうける。生活のためもあり、フランス語を教えたり、そのほっそりとした長身を生かして、広告写真のモデルをする。そして3,000人が応募したブロードウェイ・ミュージカル「ハイ・バトン・シューズ」ロンドン公演用のコーラスガール10人の中に選ばれる。 「7回で学ぶオランダ語」
1949年 20歳 ミュージカル「ソース・タルタル」(Sauce Tartare)出演。  
1950年 21歳 演劇界の大物プロデューサー、セシル・ランドーがこのコーラスガールに注目。新作ミュージカル「ソース・ピカント」に起用する。  
1951年 22歳 コメディ専門のイギリス映画協会がオードリーに注目。「天国の笑い声」の主演の依頼があったが、ランドーとの契約のため、端役を承諾。たばこ売りの娘役で出演。また、ホームコメディ「若妻物語」の撮影後、裕福な運送会社の子息ジェームス・ハンソンと出会い、ふたりの間に恋が芽生え、数年間の交際を経て婚約。ドタバタミュージカル「我らモンテカルロへ行く」の撮影中、作家コレットの風俗喜劇「ジジ」の主演に作家本人からスカウトされる。このブロードウェイミュージカル「ジジ」は大成功をおさめ、ハリウッドスター、オードリー・ヘップバーンが誕生した。 「若気のいたり」
「若妻物語」
「天国の笑い声」
「ラヴェンダー・ヒル一味」
「モンテ・カルロ・ベイビー」
1952年 23歳 映画「ローマの休日」のグレゴリー・ペックの相手役に抜擢される。婚約を破棄し、世界的ヒットとなるこの映画撮影のために、イタリアへ。 「初恋」
1953年 24歳 映画「ローマの休日」公開。ハリウッド映画のデビュー作。この作品でオードリーはアカデミー賞主演女優賞を受賞(1954年)。 「ローマの休日」
1954年 25歳 映画「麗しのサブリナ」公開。オードリーはこの映画ではじめて、ユベール・ド・ジバンシイを起用。生涯を通じて、忠実な顧客でありつづける。舞台「オンディーヌ」で共演した俳優メル・ファーラーとスイスで結婚する。 「麗しのサブリナ」
1955年 26歳 夫と長期間離れることになるような企画をすべて辞退。2人に依頼がきた「戦争と平和」の主演には承諾。オードリーは妊娠し、流産を経験。  
1956年 27歳   「戦争と平和」
1957年 28歳   「パリの恋人」「昼下がりの情事」
1959年 30歳 映画「尼僧物語」公開。それまでとは異なるシリアスな役に挑戦。 「緑の館」「尼僧物語」
1960年 31歳 映画「許されざる者」公開。初めての西部劇出演作。撮影中、再び妊娠をしていたが、落馬し、4ヵ月後に流産。あらたに妊娠し、7月17日に息子ショーン誕生。 「許されざる者」
1961年 32歳   「ティファニーで朝食を」「噂の二人」
1962年 33歳 映画「シャレード」の撮影開始。新しいイメージの開拓に成功した。映画は大ヒットし、その結果オードリーは流行の最先端をいく優雅さの象徴となる。映画でのオードリーのドレスは、再びジバンシイが担当した。結婚生活が深刻な危機を迎えはじめる。  
1963年 34歳   「シャレード」
1964年 35歳 映画「マイ・フェア・レディ」公開。アメリカだけで3,300万ドルの興行収入を上げ、ワーナー・ブラザーズの倒産の危機を救う。映画は最優秀作品賞など8部門でオスカーを受賞したが、オードリーにはなかった。批評家たちは理想的な淑女としてのオードリーは賞賛したが、薄汚い花売り娘としての真実味に欠けたと主張した。 「パリで一緒に」「マイ・フェア・レディ」
1965年 36歳 3度目の流産で、ふたりの結婚上の問題が一時的に棚上げされ小康状態を保つ。  
1966年 37歳   「おしゃれ泥棒」
1967年 38歳 夫ファーラーが製作した「暗くなるまで待って」でオードリーは盲目の女性を演じ、興行的にも成功し、オードリーは5度目のオスカー候補となった。しかし、4度目の流産をした後、秋にメル・ファーラーと別居を発表した。 「いつも2人で」「暗くなるまで待って」
1968年 39歳 メル・ファーラーと離婚。  
1969年 40歳 1月に精神科医アンドレア・ドッティと結婚し、ローマへ移る。  
1970年 41歳 次男ルカ誕生。以後、5年間は映画出演をすべて辞退。  
1976年 47歳 結婚生活がうまくいかず、失望に変わっていく。それがおよそ10年ぶりの映画界復帰となった。「ロビンとマリアン」で同年配のロビンフッド(ショーン・コネリー)の相手役、尼僧マリアンを演じた。 「ロビンとマリアン」
1979年 50歳   「華麗なる相続人」
1980年 51歳 アンドレア・ドッティと別居。  
1981年 52歳 映画「ニューヨークの恋人たち」公開。また復帰3作目のこの作品も大ヒットはせず、映画界から完全に引退することを決意する。 「ニューヨークの恋人たち」
1982年 53歳 ドッティとの離婚が正式に成立。その後、数年は方々へ旅行し、育ち盛りの息子たちの世話をして過ごす。映画の出演依頼はすべて断固として固辞。  
1988年 59歳 ユニセフ(国連児童基金)が、オードリーを特別親善大使に任命。それ以降の年月は、ユニセフの仕事に没頭する。中南米やアフリカをまわり、寄付の呼びかけをまとめ、スピーチし、さまざまな組織の後援者となる。  
1989年 60歳 映画「オールウェイズ」公開。カメラの前に立った最後の年。スティーブン・スピルバーグ監督の「オールウェイズ」で、白いローブに包まれた清らかな天使役。 「オールウェイズ」
1993年   1月20日、自宅のあるスイス・トロシュナ村で、ガンにより惜しまれながら死去。享年63歳。  


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