ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター

Saul Leiter
ソール・ライターのこと

ソール・ライター《薄紅色の傘》 1950年代、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《薄紅色の傘》 1950年代、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation

写真家ソール・ライター(1923-2013)が帰ってくる―。2017年、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催した日本初の回顧展で、大きな反響を巻き起こしたソール・ライター。ほとんど無名に近かったこの写真家の作品は多くの人々の共感を呼び、展覧会に合わせて出版された写真集『All about Saul Leiter』は版を重ね続け、2020年8月現在、15刷目という日本の写真集業界では異例のベストセラーに。また、今回の『永遠のソール・ライター』展にあわせ新たに出版された『Forever Saul Leiter』も、2020年1月の展覧会オープン直後早々に再版が決定となりました。ペンシルバニア州ピッツバーグで、高名なユダヤ教の聖職者の父の下に生まれたソール・ライターは、幼少期から父の敷いたレールに沿って神学校へ通いはじめました。学校で優秀な成績をおさめる一方、厳格な規律や倫理観に縛られた生活を窮屈に感じるようになったライターは、次第に絵を描くことに喜びを見出すようになっていきます。近所の図書館にあった美術書は、ソール・ライターにとってヨーロッパ美術はもちろん、中国や日本の美術まで広い世界への扉を開いてくれました。初めて自分のカメラ、デトローラを母親に買ってもらったのは12歳の頃。家族の中で、唯一の理解者だった妹のデボラは、お気に入りのモデルだったようで、多くのポートレートが残されています。1946年、23歳になった年、画家になることに大反対する父親の理解を得られぬまま、ついに神学と決別、夜行バスでニューヨークを目指しました。

ソール・ライター《セルフ・ポートレート》 1950年代、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《セルフ・ポートレート》 1950年代、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《ニューヨーク》 1950年代、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《ニューヨーク》 1950年代、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation

ニューヨークでライターが身を寄せたのは、当時「ロウアー・イーストサイド」と呼ばれていた地区でした。この地区は、歴史的に移民が多く家賃も安かったことから、多くの芸術家を志す若者たちが集う場所となり、1950年代のビートジェネレーション、1960年代後半のカウンターカルチャーなど、それぞれの時代を映し出す強烈なカルチャーを生み出す場所として「イースト・ヴィレッジ」と呼ばれるアートの中心地に変貌していきます。ソール・ライターにとって終の棲家となった1952年に移り住んだ東10丁目のアパートは、彼がこよなく愛した場所でした。現在、ソール・ライター財団の事務所となっているライターの人生を見つめ続けたこの空間に、今でもその魂が息づいています。

ソール・ライター《高架鉄道から》 1955年頃、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《高架鉄道から》 1955年頃、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation

1940年代後半は、ジャクソン・ポロック、ウィリアム・デ・クーニングなど、ニューヨークがパリに代わって初めて芸術の中心地となる契機となった抽象表現主義が台頭してきた時代でした。ライターも、この潮流の中で抽象表現主義の画家リチャード・プセット=ダートと出合います。写真を応用した様々な実験的作品を創作していたプセット=ダートとの親交を通じて、撮影から暗室作業まで一連の写真術を習得し、ソール・ライターは、表現メディアとしての写真の潜在力にも目覚めていきました。

ソール・ライター《『ハーパーズ バザー』》 1959年2月号、
銀色素漂白方式印画
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《『ハーパーズ バザー』》 1959年2月号、
銀色素漂白方式印画
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《ソームズ》 1950年代、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《ソームズ》 1950年代、
発色現像方式印画
©Saul Leiter Foundation

絵を描くことだけでは生計を立てられないソール・ライターを救ったのが写真でした。ライターの写真に関心を持っていたヘンリー・ウルフは、1958年、『ハーパーズ・バザー』誌のアート・ディレクターに就任したのを機に、ほぼ毎号ソール・ライターをファッション・ページに起用、以後、『ELLE』『ヴォーグ(英語版)』など多くのファッション誌で活躍し、ニューヨーク5番街に自らのスタジオを持つまでになります。ファッション写真の仕事は、ソール・ライターの人生に大きな影響を与える女性との出合いももたらしました。若いモデルだったソームズ・バントリーと写真家として出合った二人は、絵画を通して急速に距離を縮め、晩年のライターの成功を見ることなくソームズが亡くなるまで寄り添い続けました。

《デボラと一緒のセルフ・ポートレート》1940年代、ゼラチン・シルバー・プリント ©Saul Leiter Foundation
《デボラと一緒のセルフ・ポートレート》1940年代、ゼラチン・シルバー・プリント ©Saul Leiter Foundation

時代とともに自由な創造性が束縛されるようになり、元来、ファッション写真そのものに大きな関心があった訳でもないライターへの仕事の依頼は次第に減少していきます。「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い」という言葉が、彼の商業写真に対する意識を雄弁に語っています。1981年、5番街のスタジオを閉鎖し、以後、イースト・ヴィレッジのアパートで自分のためだけに作品を創造する隠遁生活へと入っていったのです。

ソール・ライター《無題》 撮影年不詳、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation
ソール・ライター《無題》 撮影年不詳、
ゼラチン・シルバー・プリント
©Saul Leiter Foundation

「私は有名になる欲求に一度も屈したことがない。自分の仕事の価値を認めて欲しくなかったわけではないが、父が私のすることすべてに反対したためか、成功を避けることへの欲望が私のなかのどこかに潜んでいた」この言葉には、ソール・ライターの作品が、なぜ長い間、世に知られぬままであったのかに対する一つの回答が含まれています。どんなに自分が素晴らしいと思ったものでも父が認めぬものはこの世では無為に等しく、理解しあえぬ偉大な父への複雑な思いを、ライターは終生抱え続けました。

一方で、優れた芸術家は自ら意図しない運命にも恵まれました。1994年、英国の写真感材メーカーの補助金によって、1940年代後半から1950年代にかけて撮影されたカラー作品が初めてプリントされ、ニューヨークの老舗写真ギャラリー、ハワード・グリーンバーグ・ギャラリーで個展が開催されました。この個展によって、「多くの人に見てもらうべき作品」と確信した同ギャラリー・スタッフであったマーギット・アーブは、カラー作品集出版のために奔走をはじめ、同時にライターのアシスタントとして作品整理に携わるようになっていきます。2006年、ドイツのシュタイデル社から『EarlyColor』が出版されると、写真界にとどまらず世界中で大きな反響を巻き起こし、80歳を越えていたソール・ライターは“カラー写真のパイオニア”として、一気に光の当たる場所へ引き戻されることになります。

2013年、ソール・ライターが世を去った時、住居でもありアトリエでもあったアパートには、ほとんど未整理の膨大な作品や資料が残されました。生前、足の踏み場のないようなアトリエの状況(惨状?)は、2015年に日本でも公開されたドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』でご覧になった方もいるでしょう。2014年、マーギット・アーブを代表に設立されたソール・ライター財団は、「ソール・ライター作品の全アーカイブ化」を大きな目的の一つに掲げています。2017年の当館での展覧会終了とほぼ時期を同じくして、アーカイブ化へ向けての本格的な整理作業が開始され、カラー作品だけでも8万点に及ぶ(正確な数字は不明)写真、絵画、さらに多くの資料類の発掘作業は現在進行形で続けられています。本展では、日本初公開となるカラー作品、モノクロ作品を中心にその業績を紹介するとともに、アトリエに残された膨大かつ多様な作品資料によって、ソール・ライターの創作の秘密に迫ります。

「写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。
―ソール・ライター」

ソール・ライターを知る終わりなき旅へと誘う本展は、彼が愛した空気と時間をあたかも共有しているような魅力的な時を体験できるに違いありません。

株式会社コンタクト 佐藤正子(本展企画協力)