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高橋アキ(ピアニスト)
静かでゆったりと、新鮮な風が吹き抜けていく空間のようなサティの音楽。家でひとり、または親しい友人たちとピアノを囲んで弾きながら、楽譜のなかにサティ自身が書き込んだ風変わりな言葉やストーリーを読んでは考え、そのユーモアに微笑み、そして気持ちが寛いでいく。しかし、サティは音楽家として1ヶ所にとどまることを嫌った。「経験は停滞の形式の1つ」「一人一党、自分だけ」の精神で生きたひとだ。そんなサティと交流したアーティストたちのさまざまな作品が一堂に会する展覧会。とても楽しみです。
本展では、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科が受託研究として映像・音響制作する《スポーツと気晴らし》でピアノ演奏を手掛ける。
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夏木マリ(プレイヤー/ディレクター)
サティは多くの人に影響を与えた人だと聞いているが、このTOKYO で仕事をしている私でさえも大きく力を貰っている。サティに深く触れたのは、私の作品、印象派を演出した時、そこにあるだけの音楽を探していた私にサティの世界は衝撃的だった。あの時私をやる気にさせてくれたサティは今でも私をあげてくれる。酒場で活動をしていた彼の音は客の邪魔にならない音楽ということだったらしいが、イージーリスニング的な彼の音を聞いていると、何故か私ははしゃぎたくなる。革新的でそれまでを放棄した様なきまぐれな感じ。きっと彼自身がひとつのことに留まらない活動をしていたこと、その好奇心が自由さを感じさせるのかも…。「スポーツと気晴らし」「本日休演」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」などタイトルも魅力的だ。
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湯山玲子(評論家)
考えてみれば、2015年現在、世界で一番、親しまれているクラシック音楽の作曲家は、バッハでもモーツァルトでもなく、エリック・サティのはずだ。先ほど立ち寄ったオーガニック雑貨屋で流れていた、静かでクールなピアノのループ曲の源流はもちろんサティだし、カフェで流れ、映画やCM 音楽として使われ、どれだけ《ジムノペディ》は、人々のスマホに収まっていることか?! 私たちは皆、頭の中にサティという小部屋を持っている。
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中島ノブユキ(音楽家)
サティの曲は難しい。譜面はとっても簡素なのだからなおさら難しい。音の動きは単純だ、そう思って譜面を見てみると小節線が無かったりする。はて、どんな呼吸で弾けばよいのだろう。自由なようで不自由なようでもある。一世紀も前、パリの片隅で奏でられていた曲なのに、ふと耳にする、或いはふとピアノで弾いてみると不可思議な香りが立ちこめる。2015年、夏の東京でどんなアロマを放つのか。
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阿部海太郎(音楽家)
「騒音」や「環境」の概念を音楽に導入した先駆けとして何度も再評価されてきたサティ。しかしサティは、こうしたアカデミックな評価からこそ自分の音楽を守るため、独自の諧謔を発達させたのだと思う。とは言え、音楽の何を守るために?サティは音楽という謎に満ちた営みの、その謎にもっとも肉薄した音楽家だと思う。答えを出そうなんていう崇高な考えはなかった。むしろ守りたかったのは謎そのものだ。音楽史上サティだけが、音楽の謎と戯れることができた。破壊と創造といった19世紀的芸術観ではないサティの遊戯性こそ、新時代を迎えようとしていたパリの文化人にもっとも新鮮かつ刺激的に映ったはずである。
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菊地成孔(音楽家/文筆家)
ピアソラやジョビン等と並び、「セミ・クラシック」ではなく「サブ・クラシック」或は「サイド(脇)・クラシック」として、20世紀一杯で消費し尽くされ、シミュラクラ(ピアソラが流れると「火曜サスペンス劇場」のテーマに聴こえるとか、エリントンの古いのがディズニーランドに聴こえるとか、ああいう)の手垢にまみれまくっているサティですが、改めて普通に聴いた時の啓示性やリアルな物質感は未だにハンパなく、今回の様な機会に改めて向き合う事は大変意義ある事だと思います。