展覧会構成と主な出品作品

エリック・サティ(1866-1925)は、20 世紀への転換期に活躍したフランスの作曲家です。
サティは芸術家たちが集い自由な雰囲気をたたえるモンマルトルで作曲家としての活動を開始し、その後生涯を通じて芸術家との交流を続けました。
第一次大戦中より大規模な舞台作品にも関与し、パブロ・ピカソとはバレエ・リュスの公演《パラード》を、フランシス・ピカビアとはスウェーデン・バレエ団の《本日休演》を成功させます。また一方でアンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、コンスタンティン・ブランクーシ、マン・レイ、そして数々のダダイストたちがサティとの交流から作品を生み出していきました。
本展ではマン・レイによって「眼を持った唯一の音楽家」と評されたサティの活動を芸術家との交流のなかで捉え、刺激を与え合った芸術家たちの作品を通して、作曲家サティの新たな側面を浮かび上がらせます。

第一章 モンマルトルでの第一歩

エリック・サティ(1866-1925)は1879年よりパリ音楽院に学ぶも身が入らず、1886年には軍隊へ志願して入隊するも間もなく除隊します。除隊後は音楽院には戻らずにパリのモンマルトルへと居を移しました。当時のモンマルトルでは、自由な発想の作家や芸術家たちがシャ・ノワールに居場所を見出していました。サティは1887年12月にこのキャバレーに初めて訪れて以来、常連客として出入りし、キャバレーで上演される影絵芝居の伴奏者としても活躍しました。本章では、シャ・ノワールを中心とした世紀末モンマルトルのキャバレー文化を紹介し、のちのサティの活動に通じる、自由で芸術的刺激に溢れたその環境に焦点を当てます。

第二章 秘教的なサティ

モンマルトルにやって来たサティはジョゼファン・ペラダンに出会い、この秘教主義の思想家が主宰する薔薇十字会の聖歌隊長の任命を受けます。この協会は唯美主義的な信条のもとに活動し、1892年には第1回薔薇十字展を開催、シュヴァーベなどの象徴主義の画家の作品を展示し、2万人以上が来場したといいます。この展覧会に付随して執り行われた「薔薇十字の夕べ」では、サティの音楽が演奏されました。しかしほどなくしてサティはペラダンと袂を分かち、サティただ一人の信者から成るメトロポリタン芸術教会を設立、ミサのための音楽の制作や教会誌の出版などの独自の活動を行いました。
 本章では、薔薇十字展に関連する作品、資料のほか、メトロポリタン芸術教会におけるサティの活動に焦点を当てます。

第三章 アルクイユにて

1898年、サティはパリ郊外のアルクイユ= カシャンへと居を移しますが、同地からも日々モンマルトルへ通い続けました。キャバレー歌手のヴァンサン・イスパやポーレット・ダルティのための作曲などで生計を立てる一方で、サティは1905年に音楽学校へ再入学して対位法を学び直し、アルクイユで地域の人々のために音楽教室を開くなどその活動は多岐に渡りました。
 転機が訪れたのは1911年のこと、作曲家モーリス・ラヴェルによって公の場でサティの音楽が紹介されたのです。その結果、サティを迎え入れたのは音楽家だけではありませんでした。高級モード雑誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』の編集者から、シャルル・マルタンによる挿絵入りの楽譜集《スポーツと気晴らし》の出版の話が舞い込んだのです。
 本章ではこの時期の多岐に渡るサティの活動と、サティに対する評価の確立に焦点を当てます。また《スポーツと気晴らし》を音楽と美術、そして詩が交差する作品として注目し、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科の協力のもと映像として紹介します。

第四章 モンパルナスのモダニズムのなかで

「私を驚かせてみなさい。」バレエ・リュスの主宰ディアギレフが言った言葉に、若き作家ジャン・コクトーは上中流階級の嗜みとしてのバレエ・リュスに、「現実」を突きつけることで応えました。コクトーが脚本、パブロ・ピカソが衣装と舞台装飾、そしてサティが音楽を手がけた1917年のバレエ・リュスの公演《パラード》は、ミュージックホールやサーカスなどの大衆娯楽からの引用ー中国の奇術師、アクロバット、パントマイムの少女、張り子の馬ーにあふれたもので、賛否入り交じった、しかし大きな反響を生みました。キャバレーでの実績をもち、何よりどんな大胆なこともやってのけるサティは、《パラード》の試みに最も適した音楽家であったといえます。
 この《パラード》の反響によって若い世代の芸術家や音楽家からの評価を得たサティは、1924年にダダイストのフランシス・ピカビアとスウェーデン・バレエの公演《本日休演》を手がけます。挑発的なその内容もさることながら、公演で上映されたルネ・クレール監督の映画《幕間》も革新的なものでした。無声映画がまだ主流であった時代に、サティは映像に合わせた音楽を作曲したのです。
 また舞台作品に関与するかたわら、サティはコンスタンティン・ブランクーシ、ジョルジュ・ブラック、マン・レイなど多くの芸術家と交流して刺激を与え合いました。本章ではサティが関わった舞台作品に関する貴重な下絵やデッサン、ノート、書簡、公演を記録した写真やプログラムなどから作品の全容を浮き彫りにするとともに、芸術家たちがサティとの交流のなかで生み出した作品も紹介します。

第五章 サティの受容

晩年にサティの名がフランス国外へも響き渡っていたことは、ブリュッセル大学の文学と芸術の団体「ランテルヌ・スルド」によるサティのコンサートなどからも知ることができます。
 サティは1925年に没しますが、その後も彼の作品は幅広い人々からの評価を得ました。サティの没後間もない頃に催されたエティエンヌ・ド・ボーモン伯爵によるサティ追悼フェスティバルでは、没後発見されたサティの楽譜《ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン》がマリオネットによるオペラとして上演されます。最終的には採用されなかったものの、生前もサティと共同制作を試みていたアンドレ・ドランがその舞台美術と衣装のデザインを手がけました。
 またダダイストたちは彼らのタイポグラフィにサティの名を加え、特にマン・レイは《エリック・サティの眼》や《エリック・サティの梨》など、サティをモチーフに作品を制作しました。本章ではサティへのオマージュと呼べる作品を、没後間もない頃から現代に至るまで紹介します。