HIROSHIMA 太田川七つの流れ

『887』のような自伝的ひとり芝居から、シルク・ドゥ・ソレイユや、ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』4部作まで。あらゆる規模とジャンルで、独自の表現を確立しているロベール・ルパージュ。1992年の初来日以来、さまざまな作品が日本でも上演されているが、その多くは、彼にとっては小規模に属する単発作品で、“ルパージュ・マジック”の醍醐味が存分に味わえる、ワーク・イン・プログレスによる長時間の大作は、1995年に上演された5部作の『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』のみだ。この『HIROSHIMA ── 』は、翌96年、ルパージュの地元カナダ・ケベック公演の際に7部作となって完結。世界各地を巡演した後、98年にいったん上演を終了していた。そして約20年後の2019年夏、多くのキャストを一新した新版『HIROSHIMA ── 』が、ロシア公演を皮切りに始動。カナダ、英国、フランスなどを経て今年7月、満を持して日本でも上演されることになった。休憩込み6時間の5部作から、同7時間の7部作となっての最終形態。「7時間」と聞くと、いささか怯んでしまうけれど、実際に体験してみると、時間的な負担は、不思議なほど感じなかった。

「時間は、弾力性があるものだからですよ。よくこういう練習を俳優とやるんですが、みんなで円になって、私はストップウォッチを持ち、1分たったら、一歩前に出るようにと言います。そうすると、30秒で前に出る人もいれば、2分かかる人もいる。つまり時間の観念には、弾力性があるということです。特に演劇においては、観客の舞台への興味が持続している間は、時間は膨張していきます。もちろん、それには観客の注意を惹きつけておくことが前提で、いつでも客席はノってくれていると思ったら、大間違いです。開幕して最初の10分くらいの間は、観客は「どこに駐車したっけ」とか「ベビーシッターは、うちの子のアレルギーのことちゃんと考えてくれてるかな」とか「さっき上司にはああ言ったけど、ちゃんと伝わってるだろうか」などといったことで、頭の中はグルグル回っているものです。演劇の最初の10分間には、重要な情報がいろいろ詰まっているにもかかわらず、それが現実というものですよね。なので、たとえば『887』では、開演後、ある程度時間を経過させてから、鍵となる番号を出し、同時に場内をだんだんと暗くしていって、観客の準備が整ったところで芝居に入るようにしました。時間は状況によって、アコーディオンのように伸縮するものなので、うまく使わなければならないのです」

この、時間には弾力性があるという考え方は、日本の伝統演劇の中にも息づいていると感じるという。

「日本の文化は、基本的に時間の観念が相対的で、自由なんですよね。たとえば、ひとりの人が入ってきてから次の場所に行くまで、西洋では、そこで経過する時間は均質でなければならないんですが、日本の伝統演劇では、いくらでも時間をかけることが許されている。自由に、やりたいだけ時間をかけられるんです。日本人は、野球が大好きですよね。野球は歌舞伎と同じで、まず最初のうちは、何も起こらない。そして何かをきっかけに、エネルギーが一気に爆発する。これはとても瞑想的だと思います。人はストーリーの中に、ゆっくりと入ってゆき、突然、何かが起きて、その場のエネルギーが全部変わる。これなんですよ。西洋では、均等に、たとえば40秒ごとに映像を変えるといった、テレビ的なビジュアル展開と思考に拠っているので、ストーリーを語るのが、非常に難しいのです。こういう表面的なやり方では、駄目なんですよ。だいたい西洋の伝統文化というのは、ルネッサンスならルネッサンス様式に則っていなければいけないし、演劇でも、観客はいないことになっていて、舞台の進行のじゃまをしてはならない。でも歌舞伎は、非常に厳しい規律がある一方で、やる側にも何でもありな自由が与えられているし、観客もそこに参加できて、舞台の俳優に声を掛ける権利すらある。これは驚くべきことですよ」

ケベックのコンセルヴァトワール在学中から、日本の伝統芸能に興味を持っていたというルパージュは、1992年の初来日時、東京にいた2週間のあいだ、なんと一日の休みも無く、歌舞伎座の昼夜二部公演に通い続けたという猛者。ビジュアル面から、芸能としてのあり方といった本質に至るまで、歌舞伎に多大な気づきを与えられたことを認めている。
 この初来日時、東京のほか京都、大阪、神戸などを巡り、最後に訪ねたのが、広島だった。当時の世界中の人々がそうであったように、広島について「破壊・荒廃・死」といったイメージを抱いていたが、実際の広島は、見事に再生し、活気に溢れる美しい街であったことに衝撃を受けたという。

「個人的に常に感銘を受けるのは、日本人が持つ“生き残る”という精神。これは身体的なことではなく、文化的、精神的なサバイバルの意味で、この経験が、『HIROSHIMA ──』のインスピレーションの源になっています。広島に原爆が投下されてから間もなく、若い建築家たちが広島に集められて、この廃墟をどう再建するかというアイデアを出し合ったそうです。広島で実現した建築はほとんど無かったようですが、完全なる壊滅状態を前にして、それに不平不満を言うのではなく、どのように再建するかをまず考えた、という点に、非常に感銘を覚えました。  私は、破壊されたものを再構築するのが、アーティストの役割のひとつだと思っています。廃墟からいかに再生するか。たとえばドイツでは、第二次世界大戦によって国中が破壊された際、人々が最初に再建したのは劇場でした。劇場というのは、人々を集めることができる場所です。もちろん娯楽を提供する場ですが、ものを考える場所でもあります。劇場を通じて人々は、焼け野原と疫病に見舞われる中で、これからどう社会を建て直していくかを、考えることができるのです。悲劇は起こった。でもそれで駄目になってしまうのではなく、そこから新しい世界を創造する。私が悲劇に興味を持つのは、そこにこうした希望の芽があるからです」

1945年、敗戦後の広島での、被ばくした日本女性とアメリカ軍兵士の出会いに始まり、同時期のチェコにあったナチスの強制収容所、1965年のニューヨーク、1970年の大阪万博、1985年の(安楽死が認められているオランダの)アムステルダム、1999年の広島……などと時代と場所を替えながら、原爆、ホロコースト、エイズという、20世紀にもたらされた負の遺産に対峙した人々の姿が、互いにリンクしながら描かれる。7部作が完成した96年当時には近未来であった99年が、いまやふた昔も前の過去。あれから世界には、怒濤のように不幸な出来事が降り注いでいるけれど、再演にあたって、時代を付け加えたり、内容をアップデートすることは、敢えてしていない。

「今となってはおもしろいんですが、96年の時点では、最後の広島の場面は近未来の話で、登場人物たちは、3年後の自分を思い描いているんです。この中で日本に舞踏の修業にやって来たカナダ人のピエールという青年が、モントリオールにいるお母さんにコンピューターを通して話をする、という近未来の想像シーンのアイデアがあったんですが、当時は観客には何のことか分かりにくいだろうということで、却下しました。今ではふつうのことすぎて、逆に伝わらないですよね。
 そして、この作品の最終場面である99年の2年後に、ニューヨーク同時多発テロ事件が起きました。9・11は世界をひっくり返した出来事で、あまりにもインパクトが大きかったために、それ以前は人々がきちんと記憶していたはずの、原爆やナチスの強制収容所のことが、一気に吹き飛ばされてしまった感があると思うのです。ですから、99年で終わることによって、9・11以前にあった20世紀の悲劇を、しっかりと記憶に留めておく必要がありました。
 実は、2019年9月に地元ケベックでこの作品を上演する前に、公開稽古を行って、一般市民の方たちに観てもらったのですが、そこで、特に若い世代の人々は、作品の中で語られている歴史的事実に関して、ほとんど認識が無いということがわかりました。ですから、本番に配る公演プログラムには、ナチスの強制収容所、エイズの流行、アメリカ軍による日本の占領、といったことについての説明文を、新たに付け加えなければなりませんでした。
 人間の記憶の不確かさというものには、ほんとうに、いつも驚かされてしまいます。ヨーロッパでは今、難民が収容所に入れられ、極右政党が台頭しています。ナチスの台頭からまだ一世紀も経っていないというのに、もうみんな、忘れてしまっているかのようです。実際に体験しているはずの高齢者の中にも、無かったことのような態度を取っている人がいます。だからもう、これは演劇が思い出させなければいけないんですよ」

破壊された広島に始まり、世界に広がって、最後に再生された広島に戻る、20世紀後半の人類の歴史。改めて、しかと記憶に留めておかなければ。

<「悲劇喜劇」 2020年3月号より転載>