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2025.07.03 UP

回る炭取と小説のはじまり―三島由紀夫が見た『遠野物語』

三島由紀夫が『小説とは何か』のなかで、「ここに小説があった」と驚嘆を込めて記した一篇がある。柳田國男『遠野物語』の第二十二話、たった一ページの短い幽霊譚だ。

通夜の晩、死んだはずの曾祖母が、裏口から現れる。縞の着物に、裾を三角に縫い上げた姿。そこにいたのは、彼女そのままの姿であり、すでに死を知っている家族たちは、見てはならないものを目にしてしまったという認識を持ちながらも、ぎりぎりのところで日常の秩序を保っている。

その均衡を、ある一行の描写が決定的に崩す。

「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり」


三島は、この一文を読んで「ここに小説があった」と書いた。幽霊が現実に物理的な作用を及ぼしたそれだけで、幻想という名の防波堤は音もなく崩れ去る。「かもしれない」の領域にあった非現実が、突如「そうでしかあり得ない」現実へと転化する。そこには技巧も構成もない。ただ一文の力だけで、世界が書き換えられてしまう。

この転換が、三島にとって文学の本質を照らす瞬間だった。彼にとって、小説とは、現実をただ「まことしやかに」模倣するものではない。現実の構造そのものを、ほんのわずかに、しかし決定的にずらしてしまうもの。そうしたズレによってこそ、小説は生まれる。

だからこそ、彼はこの一行を、「百枚二百枚の似而非小説よりもはるかに見事」と評したのだ。
 
この「ズレの構造」は、彼自身の作品にも繰り返し現れる。たとえば『金閣寺』では、あまりに純粋な美が、主人公の生のリアリティを侵蝕し、ついには現実そのものを焼き尽くす炎となって噴き出す。『仮面の告白』では、一枚の殉教図が、少年の無意識を暴き、自我のかたちそのものを決定づけてしまう。『憂国』では、死がただの終焉ではなく、様式によって美へと変容し、現実の意味を根底から覆す。

いずれも、小さな引き金によって、世界の見え方そのものが変質していく作品だ。つまり、それらはすべて「炭取が回る小説」なのである。

三島は、物語が現実に作用するのに、作者の意図や構成は必ずしも必要ないと見ていた。言葉は、それ自体の力によって、現実に干渉しうる。『遠野物語』の語りは、まさにそうした「純粋な言葉の作用」を証明していたのである。

興味深いのは、三島がこの「小説の核心」を、いわゆる近代文学の外側に見出したという事実だ。『遠野物語』には、語り手の個性も、文学的レトリックもない。ただ「こういう話があった」という素朴な記述が並ぶのみ。だが、その抑制と距離が、かえって想像力の余白を広げている。柳田の文体は、死や異界を「異常」とは見なさない。世界はもともと、そうした裂け目を内包している——という前提のもとで語りが進んでいく。

だからこそ、「炭取が回る」という一行は、唐突な異変ではなく、すでにこの世界の奥底に存在していた現実と異界とをつなぐ裂け目として現れる。

小説とは、世界を再現することではない。世界の構造を、ほんのわずかに傾けてみせること——三島はそう信じていた。そしてその信念に、「くるくると回りたり」という一文が、疑いようもなく応えたのである。

 

 

文 高野泰樹