INTRODUCTION

テラヤマ×ニナガワに亀梨和也が挑む音楽劇

この夏、Bunkamuraオーチャードホールに、寺山修司による幻の音楽劇が登場する。シアターコクーンの芸術監督・蜷川幸雄が初めてオーチャードホールで演出を手がける話題作だ。奇しくも同じ1935年生まれの寺山と蜷川。1983年、47歳の若さで夭折した寺山の生誕80年と、変わらぬ意欲と創造力で演劇界の最前線を疾走し続ける蜷川の80歳という、アニバーサリーが重なる年にふさわしい一大プロジェクトが誕生する。

自らを「職業は寺山修司」と称し、劇作家、演出家、歌人、小説家、評論家、作詞家、エッセイスト、映画監督などマルチクリエイターの先駆けとして短い生涯を駆け抜けた寺山は、没後30年以上を経た現在もなお、作品の上演や関連本の出版、企画展の開催などが相次ぎ、高い人気を誇っている。生前の寺山を知らない若い世代の感性をも惹き付け、再評価されている点も大きな特徴だ。

その寺山が、後に演劇実験室「天井棧敷」を結成する以前の1963年、28歳で書いた戯曲が、本作『靑い種子は太陽のなかにある』。藤木孝の主演で上演された音楽劇だが、その後再演の機会はなく、これまで寺山の戯曲集にも収められていなかった。2013年に当時の関係者の遺品から発見され、若き日の寺山による幻の戯曲が、半世紀ぶりに日の目を浴びることになったのだ。

物語の舞台は1960年代、高度経済成長の光と影に揺れる日本のスラム街。文化的な近代アパートの建設をめぐってドタバタ騒ぎを繰り広げる浮浪者や夜の女たちの中で、偶然出会った工員の賢治とウェイトレスの弓子は、夕暮れ時のつかのま、お互いの距離を縮めていく。だがアパートの建築現場で、朝鮮人作業員の転落死を隠蔽する現場を賢治が目撃したことから、二人の思いはすれ違っていく。真実を告発しようとする賢治は、実力者の代議士や市役所の人間などさまざまな思惑が渦巻く中で、正義を貫くことができるのか。

「闘争の時代」ならではの体制批判の眼差しと、若者たちの切ない恋、そしてあきれるほど逞しいスラム街の人々の生命力とが交錯し、原色のエネルギーとロマンティシズムにあふれた過激な作品となっている。ふんだんにちりばめられた歌と踊り、土俗的な民話の要素も盛り込まれ、万華鏡のごときテラヤマ・ワールドの萌芽を感じさせる快作だ。寺山の天才的な言語感覚は、美しくも謎めいたこのタイトルにも表れている。

 演出にあたる蜷川は、シェイクスピアやギリシャ劇といった欧米の古典戯曲の演出で世界的名声を得る一方で、唐十郎や清水邦夫など、同時代を並走した日本の劇作家たちの作品群も繰り返し取り上げ、ほとばしる熱さと叙情的な痛みを伴う名作の数々を生み出している。近年のBunkamuraプロデュースによる寺山作品では、『血は立ったまま眠っている』(2010年)、『あゝ、荒野』(2011年)を手がけ、やり場のない若者たちの怒りや苛立ちを、鮮やかに舞台に叩き付けてきた。今回はオペラやバレエなどクラシックの殿堂として知られるオーチャードホールを、どれだけアバンギャルドに、荒々しくかき乱してくれるのか楽しみだ。

そして主演に迎えるのは、人気グループKAT-TUNの亀梨和也。アーティストとしての活躍はもとより、近年は話題のドラマや映画への出演が相次ぎ、俳優としての幅を確実に広げている。スポーツで培われた身体能力の高さに加え、誠実さの中に翳りや屈折を覗かせる人物像がぴたりとはまる個性の持ち主だ。満を持して蜷川演出の舞台に初登場・寺山戯曲に初挑戦となる亀梨が、正義と現実の狭間で苦悩する青年・賢治をいかに体現するのか、期待せずにはいられない。

 また賢治に思いを寄せる弓子役には、映像から舞台まで、その歌唱力も含めて高い評価を得ている高畑充希が扮する。スラム街にうごめく強烈な人々の中で、懸命に生きようとする若い二人の行く末に注目したい。

そして壮大な音楽劇の要となる楽曲を手がけるのは、松任谷正隆。音楽プロデューサーとして多彩なミュージシャンに楽曲を提供してきた松任谷が、初めて蜷川演出作品に参加する。この意外性にあふれたタッグから、今までにない肌触りのテラヤマ・ワールドが生まれることは間違いない。作・演出・音楽・キャストと、考えうる最高のピースが揃った音楽劇が、真夏の渋谷を席巻する。