国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア

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2018.12.14 UP

【レポート】ロシア文学者・亀山郁夫氏による記念講演会

現在開催中の展覧会『ロマンティック・ロシア』。去る11月29日(木)、ロシア文学者・亀山郁夫先生による記念講演会が行われました。先生が夏に行かれたロシア1人旅や、トレチャコフ美術館の代表作品の解説、またソ連出身のピアニスト、タチアナ・ニコラーエワとチェコ出身のアルフレート・ブレンデルが演奏するバッハの聴き比べなど、内容は盛りだくさん。その中で、ロシアの絵画に関してお話しされた部分を、ダイジェストでご紹介します。

 

ロシア絵画は鬱を表象できるのか?


「今回の展覧会のタイトルは『ロマンティック・ロシア』。みなさんのなかにはご自分をロマンティストだと思っている方が少なからずいらっしゃることでしょう。実はロマンティストというのは、往々にして他者の心に無関心な人間のことを意味するのですね(笑)。これはじつは、チェコ出身の作家ミラン・クンデラの受け売りです。ロマンティストは、ひたすら自分の夢を追い続けます。なぜなら、彼らは、心のどこかに「傷」を意識し、その「傷」を癒すために現実からの逃避を目論んでいるから。そこで私は今回の『ロマンティック・ロシア』展に展示されている作品に、「傷」のモチーフないし「トラウマ」をモチーフとした作品はないだろうか、と自分なりに問題を立て、講演に臨みました。今日の講演のサブタイトルを、“ロシア絵画は鬱を表象できるのか?”としたのもそのためです。

 

私の持論では、ロシア人は、基本的に鬱の病に苦しめられている人々です。彼らがしばしば浴びるほど飲酒に浸るのは、自分の内面に鬱々とわだかまる何かを克服するためなのです。しかし、その鬱を克服する力は、お酒以外にもあります。鬱に負けまいとして、時としてクリエーティブな生命力が全身に満ちわたる。それが芸術です。ジャンルを問わず、ロシアの芸術がなぜこれほどにも傑出しているか、その答えは、一つです。彼らにとって芸術とは、まさに自らの鬱を克服せんとする命がけの営みだからなのです。

 

では、ロシアの鬱そのものは、絵画の中でどのように表象されているのか? 私は、ひそかにそんな関心を抱きながら、今日、展覧会を訪れました。しかし、その不埒な関心は、たちどころに蹴散らされてしまいました。まさに生命力そのものなのです。展示されている一点一点のあまりの素晴らしさに圧倒され、正直、言葉を失いました。想像を超える充実した作品群です。講演を前にして、一体自分は、何を話すことができるのかと途方に暮れたほどでした。幸い、展覧会はロシアの春夏秋冬、それぞれの季節の風景画から始まっていました。それならば、私がロシアの芸術を考える上で重要と思われる4つの要素を、ロシアの春夏秋冬に当てはめて考えてみようと思い立ったのでした。

 

まず、春は“ユーフォリア”。心の底からこみあげてくる、えも言われぬ法悦にも似た感覚。ロシア正教に深く通じる何かがあります。ただし異教時代において、春は、ことによると熱狂的な何かを含んでいたかもしれません。ストラヴィンスキーの『春の祭典』を思い出してください。

イサーク・レヴィタン《春、大水》1897年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

夏は、文字通り、“熱狂”です。音楽でいえば、ボロディンの『韃靼人の踊り』のような、異端的なものに通じています。また20世紀に入ると、社会主義的な競争の精神がこの「熱狂」を体現していきます。ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」を思い出してください。

イワン・シーシキン《正午、モスクワ郊外》1869年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

秋は“ノスタルジア”でしょうか。ロシアには「タスカー」という、微妙な陰影を含む単語があります。「切なさ」というか、死んでしまいたいと思うような深い憂鬱な気分を表します。ロシア人はこの言葉をひとこと発しただけでわかりあってしまう。そんな言葉なのですが、まさにこの言葉が深く内包しているものこそ、“ノスタルジア”です。ロシア人の遺伝子に組み込まれている何か、ロシア人の文化が根源的に抱いている生命感覚といっても過言ではありません。

グリゴーリー・ミャソエードフ《秋の朝》1893年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

そして最後の冬は“アイロニー”。ロシアの冬はとても厳しいですから、どうしても現実の世界に対して、アイロニカルにならざるを得ません。プーシキンの有名な小説「吹雪」を思い出してください。そこに描かれているのは、人間の自由を拒む厳しい壁、運命です。物語は、すばらしくロマンティックですが、しかし当の主人公が経験するのは、運命の冷ややかな笑いです。

ワシーリー・バクシェーエフ《樹氷》1900年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

このように、ロシアの芸術ほど、ロマンティックで、かつアイロニカルな要素をふんだんに含んだ芸術はないといえるでしょう。ロマンティストの私は、長いことロシア芸術におけるアイロニカルな要素を受け入れられずにきましたが、最近になって、ようやく目を開かされました。しかし、アイロニカルな要素が花開くのは、主として文学と音楽のジャンルなのですね」

 

ロシアの大地とロシア人

 

「ロシアの文化史家リハチョフは、ロシアの大地では朝と夕の瞬間の流れが、どの国にもまして滞り、教会の丸屋根と木々の葉、丘の畑、川面を絶妙の色合いに五分ごとに染め変えていく、と述べています。私は、これがロシア人の自然観、ロシア人の美意識だと思っています。

 

ロシアの風景画には、画家はなぜこの風景を選んだのだろう? と考えてしまうような、必ずしも美しいとは思えない風景が描かれます。そうした彼らの感受性を理解するには、ロシア人の横の線に対する過剰なまでの想像力に思いをめぐらさなくてはなりません。彼らの目の前に広がるのは、常に地平線で、それが建物や川などでわずかにゆらぐ変化の中に、彼らの美意識は敏感に働くのです。生命の一瞬の脈動、ロシアの絵画がめざすものはまさにそれです。

 

逆に言えば、高い建物や山のないこの国の芸術家は、高く屹立するものに強い想像力を掻き立てられることはありません。高いものとは、つねに地上から発する何かではなく、すでに所与のものとして存在する空間、空であり、宇宙です。ロシアの芸術は、ヨーロッパのゴシック教会のように天を突き刺すような尖塔とは無縁です。ロシアの芸術は、つねに天との和解を志しています。ロシア正教の教会の丸屋根こそがその証です。

 

ロシアの亡命した芸術家たちは、ストラヴィンスキーにしてもラフマニノフにしても、祖国がどんなにみすぼらしい後進国であってもロシアに対する望郷の念を抱きつづけていました。映画『ノスタルジア』の監督で、パリで客死したタルコフスキーも強烈な郷愁にとらわれていたロシア人のひとりです。では、彼らはなぜそれほどにも故郷に惹きつけられたのでしょうか。というと、おそらくさきほど言った「鬱」が原因だったと思います。自分自身がヨーロッパに来て、どうしようもない鬱の感覚にとらわれる。そして、これを克服するには、あの広大な、まさに水平の自然の中に改めて身を置くしかないと思ったのではないか、と、私はそんなふうに想像するのですね。

アブラム・アルヒーポフ《帰り道》1896年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

もしも「鬱」の克服という問題や、ノスタルジーの感覚、さらには、ロシア人の大地に対する一体感について知りたければ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をぜひお読みください。敬愛する長老の死によって信仰を失いかけた主人公のアリョーシャ・カラマーゾフが、“ガリラヤのカナ”の夢を見たあとに修道院の外に飛び出し、抱きしめるようにしてロシアの大地にひれ伏し、接吻する場面があります。ロシアの芸術は、こうした大地との一体感というものが不可分なのです。シーシキンの絵にも、レヴィタンの絵にも、まさにこの一体感が表現されています」

 

神の啓示としての風景画

 

「イギリスの有名な風景画家コンスタブルは、自然は神の最も明白な啓示であると言っています。敬虔な目で見れば、自然はある道徳的な観念さえ与えてくれるということです。つまり、そこから風景を切り取るということは、神の啓示をもうひとつ信仰的なものに置き換えることを意味するわけです。私たちは一枚のキャンバスを窓として、その彼方に、神の世界を、神の恩寵を感じとる努力が必要です。神の恩寵といってもけっして大げさなものではありません。自然の懐に抱かれる喜びとでもいうべきでしょうか。たとえ厳しい冬景色でも、荒れ果てた土地の風景でもいいのです。そこに何かしら超越的な感覚を、神秘的な光を経験すること、それができさえすればよいのです。

 

ですから会場にある風景画も、ただたんにきれいだな、こんなところに行ってみたいなと漫然と観るのではなく、画家が膨大な時間を通してあえて写し取ろうとしたその動機を、自分なりに考えてほしいのです。そして描かれた自然のなかに入っていこうとする努力が不可欠です。空気の乾きを、太陽の光の柔らかさを、たっぷりと水を含んだ湿潤の大地を踏みしめるときの感覚を自分なりに追体験していること。神的なものとの接触の経験、すなわち霊感はそこから訪れてきます」

 

《忘れえぬ女》のモデルは実在した?

 

「最後に、クラムスコイの《忘れえぬ女》についてお話ししておきたいと思います。

イワン・クラムスコイ《忘れえぬ女(ひと)》1883年 油彩・キャンヴァス ©The State Tretyakov Gallery

 

私は今日の講演の初めに、傷の問題を提示しました。19世紀のロシア文化にとってもっとも悲劇的な事件が、1881年のアレクサンドル二世暗殺事件です。この事件は、帝政ロシアの歴史における最大の傷となったのです。この後、進歩的な芸術家の多くは完全に沈黙を余儀なくされていきました。彼らは、非政治的な世界にテーマを求めなくてはなりませんでした。まさしく真の意味でのロマンティックの誕生です。私に言わせると、皇帝暗殺事件以降、おそろしいばかりに内向化した芸術家たちの傷をもっとも象徴的な形で描きとった作品がまさに《忘れえぬ女》なのです。この絵画は事実、1883年に描かれています。では、今日の講演のメーンである《忘れえぬ女》について分析を加えていきましょう。

 

まずファッションを見ますと、彼女は「フランシスク」という、1920年代にロシアで流行した帽子をかぶっています。これは15世紀のフランス王、フランシスコ1世の時代に流行した帽子です。また彼女が身にまもっているコートは、「スコベリフコート」。これは露土戦争で活躍した名将スコベリフ将軍の名前をとった外套です。一種のミリタリーファッションなんですね。

 

 次にこの女性のモデルですが、一般にトルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナであるとか、ドストエフスキーの小説『白痴』の登場人物ナスターシャ・フィリポヴナであるとか、長い間様々なことが言われてきました。残念ながら、それらの説は、また彼女を娼婦とかお妾さん、あるいは傲慢な女性などと言う人も多く、それについて私は極めて差別的な、偏見に満ちた見方であると思っています。

 

実は、これまで誰も指摘していないのですが、私は、この絵のなかでとくに、彼女の眼頭ににじむ涙に注目しています。人間は泣くと鼻の付け根に力が入って硬くなりますが、彼女はまさに、眼に涙をため、鼻根に力が入ったその瞬間の表情をしているのだと思います。

 

《忘れえぬ女》には、モデルの可能性がある実在の人物を何人か挙げることができます。たとえば、肖像画で見比べると、クラムスコイの娘ソーニャ・クラムスカヤが非常に似ているのですが、私が有力だと思っているのは、マトリョーナ・サヴィーシナという女性です。彼女は農民の娘でしたが貴族のベストゥージェフに発見され、レディとして教育された後に妻に迎えられました。美貌と美声の持ち主だったマトリョーナはたちまち社交界の人気者となり、クラムスコイもその美しさに魅了されました。

 

そのマトリョーナが、背景となっているアニチコフ橋で、ある上流夫人に会いながら、一瞥もせずに幌馬車で通り過ぎてしまったため、傲慢な女ということで、夫人を激怒させたことがありました。《忘れえぬ女》はこのエピソードがモチーフになっているといわれています。その後、モデルの女性マトリョーナとベストゥージェフの夫婦仲は悪くなり、唯一の息子が亡くなったことで2人は離婚。クラムスコイは故郷の村に帰る彼女を見送り、手紙を書くと約束をして別れました。しかし手紙を書いても返信は来ず、間もなく彼のもとに、マトリョーナが旅の途中で病に倒れ、クールスクの病院で亡くなったという知らせが届くのです。

 

《忘れえぬ女》は、貧しい農民の出自から、その持てる才気と美貌によって貴族の夫人となり、そして再び、零落へと追いやられるマトリョーナ・サヴィーシナが、サンクトペテルブルクを去る時に画家の前に見せた、最後の表情なのかもしれません。むろん、この一枚のカンバスに描かれているのは、世に言われているところの「傲慢さ」ではありません。むしろ、大いなる運命の前で必死に自分を見失うまいとして必死に耐える女性の姿を画家は描こうとしていました。女性の強い内面を描くことは、移動派の画家クラムスコイとして、片時も忘れてはならない芸術家としてのミッションでした。クラムスコイはまさに、万感の思いを込め、最高のテンションと細心のデリカシーでもってそのミッションを果たしたといえるのです」

 

(取材・構成/木谷節子)